第四話 プラネタリウム

 学校の美術の時間、美術室で僕はきちんと机に向かい、教科書を見ていた。先生が試験範囲だと示した箇所に『聖母被昇天』を見つける。小さな写真だけど、やっぱり綺麗で目を惹いた。同時に、微笑を浮かべたヒマリさんの顔を思い起こして胸が小さく高鳴ってしまう。

「なんだ、今日は真面目かよ」

 横で慎二がぼそりと呟く。昨日の意気消沈ぶりはどこにいったのか、立ち直りの早さに驚いた。

「いつもならおまえ、こっそり膝で本を読んでるくせに」

「しないよそんなこと」

「嘘つけ」

 慎二はにやにやしながら僕の教科書を覗き込み、「ああ、わかった」と右端の写真を指した。僕の知らない画家の、裸の娘が二人描かれた油絵だ。

「これ見て興奮してたんだろ? やーらし」

「ちがうよ」

「女みてえな顔してるくせに、そういうとこだけ男らしいじゃん」

「ちがうったら!」

 僕の声が教室中に響き渡った。しん、と静まり返った教室の前方で先生がこちらを睨む。

 僕らは美術室の一番後ろに立たされた。せっかく絵を見て感慨深くなっていたのに、慎二に邪魔されてしまった。恨めしさを込めて隣をちらりと一瞥すると、慎二もまた、にやにやしながら僕を見下ろしていた。声に出さず、口の動きで「ざまあ」と言う。

 別に構わない。なんと言われたって傷つきやしない。僕にはあの世界がある……

 ふと、脳裏にヒマリさんの姿が浮かび上がった。深紅のロリィタに身を包み、フリルの髪飾りのリボンを顎で結び……ゴスロリをこちらに突きつけてくる。「着てみない?」――嬉しそうな、わくわくした顔。ヒマリさんも僕を女子みたいだと思っているのだろうか。そう思うと途端に肩が落ち込んだ。僕も兄さんみたいに背が高かったら、肩幅があったら、目が切れ長できりりとしていたら、そんな風には思われずにすむのに。


「今日、パートしてたら変な人を見たわ」

 家で夕食をとっていると母が不機嫌そうな声を上げた。

「ほら、原宿系とかいうのかしら? 派手派手しい髪にごみごみした飾りをたくさんつけて、下品なフリルのワンピースを着て厚底の靴で、全身ピンクみたいな子がチョコレートを買いにきたのよ」

 母は昼間、駅中の百貨店で働いている。ひどく荒い説明だったが僕はどきりとしていた。原宿系というのはよくわからないが、おそらくロリィタのことだ。全身ピンクだから、甘ロリだろうか。――ヒマリさんの顔が浮かぶ。

「本当に信じられないわ。親御さんはどう思ってるのかしらね? 自分の子どもがあんな恰好……私なら我慢ならないわ」

「俺たちなら心配いらないよ、母さん」兄さんがすかさず返した。「母さんが悲しむような非常識な恰好なんてしないさ」

「ああ、賢人」母は大げさにうなずいた。「そうよね、本当にそうよね」

 兄さんのおかげで母の愚痴もいつもの茶番と化した。それにしたって酷い言い様に腹が立つ。あの服装は確かに奇抜で目立つけれど、服自体はとても綺麗だ。昨日、突然間近で見て驚きはしたが、すぐに見惚れてしまった。あの精巧で繊細な美しい洋服と、それを着こなすヒマリさんは素敵だと思う。母と兄と、僕とでは価値観に大きな相違があるようだ。

 深夜、僕はまた洋館に向かっていた。クローゼットにある中で一番ちゃんとした襟付きのシャツにグレーのニットベストという出で立ちは、洋館の内装に少しでもそぐうようにという思いからだった。といっても、きっとロリィタ姿のヒマリさんの隣では意味がなくなるんだろうけど。

 僕を出迎えたヒマリさんは、今日は淡いミント色のワンピースを着ていた。ブラウスは肘から下がベルのように広がっていてとても優雅だ。頭には小さなピンクのリボンが二つ縦に並んだカチューシャ。目は、カラコンだろうか、コバルトブルーに輝いている。

「今日はね、見せたいものがあるのよ」

 ヒマリさんは僕を館の奥へ誘った。いつものように廊下を左へ曲がり、衣装部屋のある二階へ……だが、衣装部屋の前を通り過ぎる。通路をさらに左へ曲がったすぐのところに、金のプレートの打ち付けられた木製の扉があった。

「あなた、昨日、下の本棚を見て目を輝かせていたの」扉の取っ手に手をかけたままヒマリさんが言う。

「すごく楽しそうに背表紙を眺めてた……本当に本が好きなのね?」

「それは、まあ」言わんとしていることがわからず、どもりつつうなずく。「あの、ルーベンスの絵がとても気に入りました」

「そうよね、それなら、入る資格は十分にあるよ」

 と言って、彼女は扉を押し開ける。そして僕の肩を緩やかに押した。足を踏み入れた僕は目を見開き、無意識に歓喜していた。

 前方、左右、上から下まで壁一面にぐるりと本が詰め込まれていた。床から天井まで届く本棚の壁……

「これは――」感情に言葉が追いつかない。「すごい……外国の図書館みたい……」

 本棚に囲まれた部屋の中央には深いグリーンのラグが敷かれており、向かい合った二つの座椅子と月や星形のクッションが置かれている。ヒマリさんは座椅子の片方に座って足を投げ出した。

「あなたも来て」と、向かい側を指す。「はやくはやく」

 まるで子どもみたいにはしゃいでいる。こんなヒマリさんを見るのは初めてだ。僕はおずおずと座椅子に腰を下ろした。

「ちゃんと足を伸ばして。そう、それでいいよ」

 ヒマリさんは手に持っていたリモコンのスイッチを押した。すっと音もなく電気が消える。いきなりの暗闇に困惑した。一体何が始まるのだろう。

 かちり、と小さな音がして、次の瞬間、闇の中に白い光がぼんやりと降りていた。はっと見上げた天井には小さな白い点がびっしりと光っている。

 こぼれ落ちそうなほどの満天の星空が、僕たちの頭上で輝いていた。

「どう?」

 向かいで訊ねるヒマリさんに、僕は一体どんな表情を返しただろう。

「あの……綺麗です、とても……」

 どうしてこういうときになると、綺麗だのすごいだの、ありきたりな言葉しか出てこなくなるんだろう。僕の胸は今、感動で打ち震えているのに。突然の星空に喜びを覚えているのに!

「よかった。やっぱり見せて正解だったね」

 ヒマリさんがごろりと体勢を変える。座椅子の背は後ろに倒すこともできるらしい。僕もあちこち触って倒してみた。すると視界いっぱいに星が広がり、降り注いでくるような感覚に襲われた。星空の塊に全身が押しつぶされそうだ。

「これは今、まさにこの季節の空なの。街灯も排気ガスもなくなって、綺麗になったらこんな空が見られるのよね」

 ヒマリさんの指が空を指しているのがぼんやりと見えた。ああ、そうなのか――僕は改めて思い知る。そういえばちっとも考えたことがなかった。僕の頭上にはとっくの昔からこんな空があったということを。

 知っている星座を探して遊ぼうとか、そんな気にはとてもなれなかった。豊かな星の海に圧倒され、ただ見ていることしかできなかったのだ。ヒマリさんもそんな僕を察してか、何も声をかけなかった。

 ヒマリさんはこの部屋を図書室と呼んでいた。図書室の奥の角には衝立が置いてあり、その向こうが書斎になっているそうだ。ヒマリさんは一日の大半をここで過ごすという。書斎の机で物語を書き、気まぐれに本棚を巡り、カーテンで陽を断絶してプラネタリウムの装置をつける、そんな風に生活しているのだ。

 羨ましい。僕は強く羨望していた。焦がれていた。ヒマリさんの生活は僕の理想だった。僕もその生活の一部になりたい。だけど、そんなことは可能なのだろうか。僕には、あんな館に棲めるほどの価値はない……

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