2、フィクション(3)


 悪い事をしている気分だった。去年あの小説を書く段階で、もちろん彼女に許可なんて取っていない。そもそもこの小説に登場する人物がこの本を手にすることなんてないだろうと高を括っていたのだから、許可なんて取るはずもない。どうすればいい。あの小説の中には全てが書かれてる。この作品はノンフィクションであることを知られてはいけなかったのだ。だから書けたのだ。もしこれが現実にあったことであるとバレてしまっては……まずいことになる。僕は咄嗟に頭を下げていた。


「ご、ごめん」


 僕は床を見ながら謝罪を続ける。


「まさか佐倉さんに読まれるだなんて思ってなかった……本当にごめん。ただ、確かにこの作品はある程度事実を書いた……けど、でも全部が本当ってわけじゃないんだ」


 顔を上げると佐倉は右手を口に押えてくすくすと笑っていた。思っていた反応と完全に違っていた。怒られると思った。軽蔑されると思った。慰謝料なんかを請求される可能性だってあった。あの小説は佐倉の名誉も毀損しているし、行為の盗撮まで書かれているのだ。


「ふふふ。大丈夫、気にしてないよ。それにね、どれが本当でどれが嘘かなんて、何となくわかるよ。そもそも最後主人公は死んじゃってるんだもん。全部が本当だなんて思ってないよ」


 僕は喉まで出かかったセリフをごくりと飲み込んだ。


「そ、そうか……いやでも、ごめん」


「本当にいいって。あのね、私はそんなことを言いに来たわけじゃないの……」


 サクラはもう用済みだとでもいうように本をカバンの中にしまい込む。佐倉は僕にせっかくだからゆっくり話そうと提案をしてきた。断る理由もないし、僕がしたことを考えれば断れるわけもなかった。


 大学近辺の居酒屋に入り、二人揃ってビールを注文する。


「えっと……それじゃ久しぶりの再会に」


 そう言って乾杯を済ませる。中学を卒業してから、いや、正確にはそれより少し前から佐倉とは会っていなかったし、顔すら合わせていなかった。最後に会ったと言えるのはあの図書館の一件以来だった。大して話すこともなかったが、空白の時間があるだけ話題ならいくらでもあった。


 佐倉は全くの別人に変わってしまっていた。話し方も外見も、あの時の不良だった佐倉の面影は何一つとしてない。それは酒を口にしながらでも変わらなかった。佐倉はこの数年間でまるっきり変わってしまっていた。いつのまにか僕は中学の佐倉と今の佐倉を完全な別人として見ていた。あの時の思い出に出てくる佐倉と、今僕の目の前にいる佐倉は違う人物だ。そう無意識に感じていたから……ふとした佐倉の発言に心臓が高鳴った。


「ところで……清嶋くんって本当に私のことが好きだったの?」


 急な実名が出てきて、緊張に近い感情が胸を通過していった。


「……名前……よく覚えてるね」


「うん、そりゃあ……お世話になってたからね」


「お世話に……」


「だって毎週会ってたんだから……忘れるわけないよ」


 なんと答えるのが正解なのかわからなかった。心臓がいつもの数倍の速さで鼓動して、それを悟られないようにするので手いっぱいだった。


「えっと……わかんないや」


「そっかぁ、わかんないかぁ」


 こんな回答で納得してしまうような女ではなかったのに。きっとあの頃の佐倉なら「なにそれ、だっさ」とでも言ってすぐに不機嫌そうな顔をしたはずだ。本当に変わってしまった。でもそのおかげで助かった気がした。


 お互いに時間を気にしていなかった。気づけば二十三時を回っており、そろそろ終電を気にしないといけない時間だった。大学の近くに住んでいた僕には終電なんてものはほとんどないに等しかった。そういえば佐倉は今どこに住んでいるのだろうか。そう思って終電を話題に出すと佐倉は言った。


「え、もうこんな時間なの?」


 そしてあからさまに困ったような顔をする。聞くと佐倉にとって既に終電はなくなっているようだった。


 僕は思った。そんな出来過ぎた話があるわけがないと。今日久々に会った女の子と飲みに行き、そして終電を逃すだなんて。そんな王道的ストーリーが現実で起こりえるだなんて、考えにくかった。もしかしたら世の男どもには普通なのかもしれない。でも僕に限ってそんなことが身近に起こるはずなんてなかった。でも……事実こうなってしまったらこういうしかないではないのではないか。


「僕ん家近いから……泊まるか?」


 佐倉はその言葉を待っていましたとでも言うかのように、間髪入れずに静かに頷く。


 店を出て、電車に乗って、二駅で降り、徒歩五分。佐倉はもう僕の家に居た。何もない殺風景な部屋をサクラはキョロキョロと眺めまわす。部屋の真ん中にはこたつがあって、執筆用に椅子と机もある。それ以外にあるものと言ったらベッドくらいで、興味が惹かれるようなものはこの部屋には一切ない。そんな中で佐倉は机の上に置いてあったPCに反応を示した。


「パソコンで小説を書いてるの?」


「うーん、そうだね。家では基本的にそれで書いてる」


「ふうん、そうなんだ。今も何か書いているの?」


 少し前まで書いていた。でももう諦めてしまった。サークルでは投票も済んだし、これ以上僕が小説を書く必要もなくなってしまった。だからきっと僕はもう小説を書くことはないだろう。


 僕は佐倉にここ最近の出来事を全て話していた。去年から一作も小説が書けなくなっていること。もうこれ以上書くつもりもないこと。自分には才能がないということ。


 すると佐倉は言うのだ。


「ちょっとその未完の小説……見せてみて」


 僕はPCの電源を入れて、言われた通りにディスプレイに小説を映し出す。物語としては中盤に差し掛かっている。でもこれ以上先は何も思いつかなかった。佐倉はそんな終わりのない小説を黙々と読んでいる。


「なるほど……」


 どうやら読み終わったらしい。


「この後どうなるのか決まってるの?」


「いや……何も決まってない」


「そっか、そしたらね……」


 そう言って佐倉は僕の小説の批評を始めた。良い所と悪い所をきちんと理屈で説明される。ここはこうした方がいい。あそこは活かした方がいい。一回読んだだけとは思えない程詳細に、佐倉は指摘を繰り返す。サクラのアドバイスは的確で、僕の中にも今まで思いつかなかった案が頭から溢れで出た。これなら……佐倉が居れば……。


 佐倉が居てくれれば、もしかしたら僕は小説を書けるかもしれない。

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