1章終話 それは幸せな。

 外は鮮やかな夕日色。夜も近い夕刻だ。

 深雪は玄関で待ち続けて――まもなくして扉が開いた。現れたのは当然に崇正だ。


「ただいま」

「おかえりなさいませ」


 深雪はぴこぴこ狐耳を動かしながら、崇正に近づくと上着を受け取った。

 上着から崇正の匂いがした。

 落ち着くような感じがするこの匂いが、深雪は好きになっていた。だから、あともう少しだけと思い、気づいたら鼻先に襟の部分に当てていた。


「だ、大丈夫……?」


 崇正が目を丸くしたのを見て、深雪はすぐさまに「いけない」と思い、誤魔化した。


「ほつれが……ほつれが見えましたので、後でお直ししようと思いまして」

「そうなんだ。気づかなかったよ。……そういえば、なんだか、家の中が綺麗だね」


 崇正はぐるりと家の中を見回して、いつもより綺麗だと言った。一生懸命に掃除した成果をすぐに発見してくれた。


「今日家の中を全部掃除しましたので……」

「全部⁉」

「はい」

「……凄いね。ありがとう」


 崇正の言葉に、深雪の狐耳が慌ただしく動き続ける。その言葉を言って欲しくて頑張ったのだ。嬉しかった。


「……お風呂もお食事も準備が出来ております。どちらから」

「それじゃあ最初に夕食から」


 深雪は自信満々に崇正に食事を出した。

 崇正の好みと聞いた、魚と野菜が中心の夕食だ。

 反応はどうだろうか?


「……あれ、僕の好きなものばかりだ」


 良かった、と深雪は安堵した。狐耳が再び忙しく動き始めた。しかし、


「深雪に言ったことあったかな?」


 そう言われて、深雪の狐耳の動きがピタリと止まった。

 崇正の疑問は当然のものだ。

 善弥と遭遇したことを伝えると、当然にどんな話をしたのかという流れにもなるので、出来れば隠したいところだが……深雪はこの話においては誤魔化しきる自信が無かった。


「……」

「どうしたの?」


 下手に隠そうとして崇正が違和を抱けば不安も感じるだろうし、何より傷つけてしまうかも知れないと深雪は思った。

 女に隠し事はつきものだが、それは相手を傷つけない為である。隠せば相手が傷つくのであれば、本当を伝えることも当然に視野に入る。


「実は……」


 だから、深雪は考え抜いた末に全てを言うことにした。





 崇正の表情が凄いことになっていた。深雪の狐耳が、一瞬のうちにピンと張ってしまうぐらいの恐ろしさであった。


「へぇ、善弥が……。後でおしおきしておかないとね」


 以前に崇正は、善弥のことを、余計なことを言おうとしたからと縛って宙づりにした事があった。

 深雪もそれは見ていた。

 けれども、今回はそれだけでは済まないような、そんな感じがひしひしと伝わって来る。

 下手をしたら善弥を殺すのではないかと、逆にそっちの心配をしてしまいそうになるぐらいに、崇正の表情は凄かった。


 深雪が額に汗を浮かべていると、それに気づいた崇正がすぐに表情をいつも通りに戻した。


「……ごめんね。先に深雪に教えておくべきだったのに、会うこともそう無いかなと思って、言わずにいてしまった。そのせいだ」

「そんなことは……」


 謝って欲しくて伝えたわけではないのに、なんだか申し訳ないなと深雪が狐耳をぺたんと折ると、崇正が手招きをして来た。

 深雪はそそくさと近づいた。すると、崇正に抱き抱えられ、そのまま膝の上に乗せられた。


「……他の男にはあんまり近づいたら駄目だよ。それが僕の家族であっても」


 崇正が囁いた言葉を聞いた瞬間に、深雪は自らの顔が熱くなるのを感じた。特に耳が酷い。火傷しそうだった。

 今日一日は色々あって、考えたことも沢山あるし不安に思ったこともあった。

 でも、それらは全て杞憂なのだと分かった。分かってしまった。崇正は言葉と行動でそれを示してくれた。


 気づいたら、深雪は崇正の頬を両手で押さえていた。

 水仕事で少し荒れている手だけれども、けれども、旦那さまはこの手を嫌がったりなんかしない――そんな確信があった。


「……深雪?」

「……旦那さま。わたしを好いてくれているのであれば、そのお気持ちが変わらない限り、どうか離さないでください。そして、わたしの心も体も、あなた無しでは生きられないようにして下さい。誰にも奪えないように……」


 心の内から自然と出て来た言葉であった。

 そして。

 その言葉に応えるように、崇正の方から動いてくれた。


「……深雪」

「……旦那さま」


 部屋の明かりが映し出した二人の揺らめく影が、その唇が重なったことを、静かに教えてくれた。





 ――凄いことをしてしまった。

 翌朝、目が覚めると同時に、深雪は昨夜自分が崇正としたことを思い出して頬を赤らめた。

 接吻をしたのだ。唇と唇が重なり触れあったのだ。


「……」


 深雪は自らの唇を指でなぞった。

 まだ少し残っている感触のせいで鮮明に記憶が呼び起こされ、羞恥が留まるところを知らずに高まる。

 深雪はベッドのシーツを豪快に被ると、ジタバタと動いた。狐耳もいつも以上に激しく動かした。


 ――恥ずかしいけれど、でも、あの甘いひと時の余韻をずっと感じていたいっ。


 深雪は悶えた。

 しかし、そろそろ家事を始めなければいけない時間でもあったので、よろよろと起き上がって動き始めた。

 二日目ともなると、大体の勝手が分かり始めていた。昨日よりも幾分か良い手際で朝食とお弁当を作り終えていく。


「……」


 家事を進めて行く中で、深雪は昨夜のことを崇正がどう思っているのか妙に気になり出した。

 お互いの顔が徐々に近づいていく中で、揺らめく明かりの中で、花びら一枚よりも薄い最後の一線を超えて口づけてくれたのは崇正の方だった。

 ちらりと横目に確認してみると、崇正の耳が熱を帯びて赤くなっているのを発見した。

 どんな気持ちでしたかと聞かずとも、答えがそれで分かった。


「……いってらっしゃいませ」

「……うん」


 言葉以外の部分でも相手のことが分かる――それが、なんだかとても嬉しくて仕方が無い。

 今日も頑張れそうだ。





 崇正を見送ったあと、深雪はやる気に身を任せて張り切った。

 だが、あまりにテキパキと動き過ぎたせいで、あっという間に他にすることが無い状況に陥った。


「……次はなにをしようかな」


 何か壊れている衣類のお直しでもしようかと思ったものの、崇正は物持ちが良いようで、特にその必要は無さそうだった。

 午後になったら食材の買い出しにお出かけするつもりではあるが、それ以外は本当に暇になってしまった。


「そういえば今は夏……暑中見舞いとかお中元の時期……だったハズ」


 本で見た知識ではあるけれど、確か夏はそういったものを出す季節だ。

 崇正が帰ってきたら、暑中見舞い等を出す相手がいるのか聞いてみようと深雪は思った。

 崇正はそれなりの職についているのだから、送る相手はいるはずだ。その宛て名書きの代筆をしようと考えた。


 座敷牢時代、字は意外と練習した。

 本読む以外ですることもあまりないので、家族への連絡の文を、丁寧に書く暇つぶしをしていた時期もあったのだ。

 家事炊事と同じく、まさかあの時代の経験が再び生きることになるとは……。

 どうやら自分でも知らないうちに、結果的に花嫁修業にも近いことをしていたようである。それも、わりかし広い範囲を。


 災い転じて福と成る、とは良く言ったものだと苦笑しながら深雪は午後までまったりし、それから予定通りに釣鐘帽を被り買い物へと向かった。

 毎日好物では飽きるかも知れないから、少し昨日とは趣の違う夕食を作る材料を買いつつ、文具屋で筆とのしも買った。

 少しだけ暑い外の日差しに、手で傘を作りながら深雪はふと思った。


(何の変哲も無い日々って、今日のような穏やかに時間が過ぎる毎日のことを言うのかな)


 ずっと座敷牢にいた深雪には、それが正しい答えなのか分からなかった。

 でも、こんな毎日を過ごせたのならば、それはきっと凄く幸せなんだということだけは理解出来ていた。




~~~~~~

あとがき。

第一章が終わりました。いかがでしたでしょうか。楽しんで頂けたのなら幸いです。

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