9 好きな人同士じゃないと駄目なんだよ。

 善弥が何をしようとしているのか、鈍感な深雪にも分かった。

 接吻――口吸い――言い方は様々あれど、要するに、唇と唇を触れ合わせる行為だ。

 それがどういう意味を持つ行為なのか、深雪は、本で得た知識で知っている。好きあう者同士・・・・・・・がする行為だった。


 善弥は今しがた深雪のような女性が好きだと言った。だからこそ、接吻を行おうとしているようだが――急すぎる。

 深雪は善弥に何らの異性的な感情も持ち合わせていない。そういった感情を抱けるのは、今も昔も崇正に対してだけだ。

 善弥については、ただの義弟であり、それ以上でもそれ以下でも無い。そもそもつい先日に会ったばかりだ。


 だから、善弥が目を瞑ったタイミングで、深雪は身を屈めながらその場から離脱した。その結果、善弥の唇は壁と接触を果たした。


「義姉さま……って壁⁉」


 驚いている善弥を眺めつつ距離を取り、深雪は何食わぬ顔で言う。


「どうしたの? 壁に唇を押し当てて……」

「俺は義姉さまと……」

「それは駄目。いま善弥くんがしようとしたことは、好きな人同士じゃないとやっちゃ駄目なんだよ」

「俺は義姉さまのことが好きなんだけど」

「わたしは善弥くんのこと別に好きじゃない。旦那さまが好き」

「……操を立てると? そんなの今時流行らないよ。いいの? 義姉さまがうっかり口をすべらしたことを、崇兄さまに告げ口しちゃおうかな? 義姉さまは口が軽いんだって崇兄さま幻滅するかもね」


 言われて深雪は「うっ」とのけぞる。口の軽い子だと思われて、それで崇正に嫌われたら嫌だなと思ったのだ。

 しかし、それと同時にこうも思った。


 この状況は自分が何も知らないからこそ起きている。善弥が過去を知らないことを知らなかったのだ。言うなれば不可抗力である。

 だから、口が軽いとか固いとかそういう話になるのはおかしい、と。


 深雪の脳裏に崇正の笑顔が浮かんだ。

 そして、座敷牢時代が善弥にバレてしまったことに対して、崇正が言うであろう言葉になんとなく想像がついた。


『……言っていなかったことを話さなかった僕も悪いんだ。ごめんね』


 きっとそう言う。いや、きっとではなく絶対だ――そう思った深雪は、ハッキリと善弥に告げた。


「言いたかったら、言っても良いよ」

「えっ……? いやだってお願いって……」

「出来れば言わないで欲しいけど、でも、旦那さまは知ってもきっと怒らないから。そういう人だもん」


 深雪が言い終わると、善弥はポカンとした。けれども、やがて「まぁそれはそうか」と後頭部をわしゃわしゃと掻きむしる。


「……脅しは失敗、か。そうだね崇兄さまはそういう人だよ」

「でしょう?」

「否定はしない」


 善弥は「はぁ」と大きく息を吐くと、力なく項垂れ、ゆっくりと踵を返した。


「……今日は帰るよ」


 どうやら、諦めてくれたようだ。深雪は安堵しながらも警戒心は崩さず、その後ろ姿を見送った。





 善弥の姿が完全に見えなくなってから、深雪は慌ただしく動きまわった。

 夕食やお風呂の準備に大忙しだ。

 ちなみに、お風呂は二回入れるハメになった。

 今朝に気にした自分の匂いやらのことを思い出して、ついつい入ってしまったせいで、入れ直すことになったからだ。


 どたばたと動き回る深雪のその姿は、完全に恋する乙女のそれである。

 一つ一つの行動に崇正の影がチラついている。

 しかし、細君が自らの旦那に恋をしてはいけないと言う決まりも無く、誰に咎められることでもない。

 貞淑では無いとかはしたないとか、そう言われることもあるかも知れないけれども――それで頑張れるのだから、きっと良いことだ。

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