探偵小説

 辻氏の耳は、ふたたびコップの底に。

「マダムの用事がわかるかも知れんと思っていたんだ。

 一度検分したかったんだ。なにせ、町中をめぐる市内電車の車掌たる君だって知らない訳じゃあないだろう。

 町ってやつはどんなにのんびりしていても、剣呑なところがあるよ。きっとこの奥羽地方だって、探偵小説のように、夜ともなれば密偵が網をはる油断ならない巷のはずだよ。この店を背負っている女性が、店内または国分町内の安寧のため、きっとなにか秘密の用件で立ち回っているんじゃないのかね」

「なんだ、悪いべ、やめたらいいべした」

 とくにわけはないのだが、思わず口にのぼった言葉を、秀真くんは止めない。

 このごろ辻氏が推薦してくる探偵小説は、たしかに剣呑だ。女盗賊の秘密クラブやら、脳髄に仕掛けをされた間諜やら、物騒だ。だが、それでマダムが場を外すわけまで詮索するのはいかがだろうか。

「店を任されているようでは、身体がいくつあっても足りねえべ。

 せめて、いる、いないがわかると違うべ。うまい仕組みだごと。そこは見ねえふりしたほうがいいんでねえの」

 言いながら、そうだ、ここで行われているのは業務なのだと妙に感心してしまい、同時にマダムの化けの皮が一枚どこかへ消えた心地がした。

 どうも楽しみごとが不得手だ。

「マダムの靴音だ。ちょっと追ってみるよ」

 廊下、誰かとすれ違った、立ち止まった。

「裏口の方だなあ」

 辻氏はそれでもそこまで聞き当てた。振動が伴ううちは、なんとも容易いと申す。これもまた、ほんまかいな、と言われたと記憶している。

「しかも……ううん、あの場所は……

 君の言う通り、ご婦人の個人的なご用について、やはり僕も詮索すべきではなさそうだな」

 秀真くんも、それ以上は尋ねなかった。

「地下にでも行くのかと思ったんだが」

「地下があるのすか」

「僕の耳は、何かがここの一階の床下にあること、何度も聞き分けていたさ」

 小声になった。なにか剣呑な話か。

「いや、耳に頼るまでもなく楽屋近くに扉があるんだよ。下り階段にゆくためのね。

 ところが立入禁止の札があるんだ。扉自体もかすがいで開かないように固定されていてね」

「なんだべ。それではマダムも行かれねえべ」

「そこはそれ、どこかにマダムのみが知る秘密の扉でもあるんじゃないか、とねえ」

「なんの部屋なんだべね」

「なあに、先代ご主人は技師出身、カフェー・コネコ時代の趣味のがらくた置き場なのさ。古株ボーイの佐山くんが大昔、片付けを手伝ったことがあるそうだ。ご主人はもとは技術畑の人で、機械いじりが趣味だったそうでね。

 ご主人がいなくなってから、それをいいことによからぬ目的でしけこむ連中がいて、ご立腹のマダムが扉を打ち付けたというもっぱらの話だ。同じ理由で、あのダンスフロアーにも実は奈落があるんだが、使用禁止だ。地下というだけで妙な好奇心がそそられる者がいるんだろうねえ。

 そうだ、奈落からならマダム、出入りできるんじゃ。しかしそれは危険きわまりないな」

 またしても、カフェー・コネコのたたりである。

「そして、これは内密に願いたいんだが、」

 小声になって、

「どうも、カフェー・コネコのご主人とマダムが、他人となる道を選んだきっかけになる出来事も地下ではあったらしくてね」

 卓にはサイダーの瓶が二本きり。

ふたりでお互いちびちび注ぎあって三杯目、それも残り少なくなった頃、演奏は『小さな喫茶店』に変わり、見ればマダムはふたたび涼しげな顔でフロアを歩き回っていたのだった。

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