月光値千金

 日曜の宵の口。ダンスフロアーで踊る者。なぜか一組しか姿がない。

 あの大きなリボンのダンサーが一番の上手であるらしく、後学のため見学しようと一目置かれるせいで、一組のみが踊っていたのだとわかった。ひときわいきいきと見える。小柄の身体が笑顔を振りまき大輪の花の様だ。

 パートナーである客の地味な紳士もそれに引けを取らないなかなかの踊り手で、そんな芸達者を見つけると、はてどこで身に付けられたのか、世間にはこんな手ごわい人々が、平日は素知らぬ顔でそれぞれの仕事着を身につけ電車に乗っていたりするものなのだ、と車掌らしい感慨を覚えた秀真くん、無芸の自分をいささか恥じる心持となる。一曲終わり、拍手が響いた。

「本日は乗務だったが明日は君、休みなんだろう。世間は憂鬱な月曜日に休日とは、まるで貴族じゃないか。少しは楽しみたまえ」

 出勤のはずだったのだが、事情が生じ、数日休暇を取る同僚に交代が必要となった。急な都合を合わせるため、結果、秀真くんは本日は出勤、明日は思いがけない休みを得た。

「今日が休みと聞いていたのに、電車に乗ってみれば君がいるから驚いたじゃないか。

 僕はこの愉快な休日、その仕上げにかかっているんだ。なんだか持ち場を交代するみたいだねえ」

 何の持ち場やらわからぬが、とにかく秀真くんはグラス一杯のサイダーで、羽目を外すもなにもない。

「なあ秀真くん。僕らはいつも、涼しい顔で演奏だけをしているように見えるだろうが、そうでもないんだなあ」

 対して辻氏ときたところには、普段は一滴も飲まぬのだが公休日ともなれば、いつも昼間から酒の神の力を借りる。本日はここへ到着するまでにすでに杯を重ねていて、上機嫌が一日続いている。サイダーが加わったところでこの通りの愉快なありさまなのだからご健勝なことである。

 尋常を出るのもそこそこに百貨店の楽隊へ入った頃は、月に一度のライスカレーが楽しみだったという。その次の、ダンスホールの楽団員となった頃も、月に一度のライスカレーが楽しみだったという。

 それからの仔細は事情が入り組んでよくわからぬのだが、上海のダンスホールに居たあたりから公休日の楽しみが酒となったらしい。こんにちに至る。月に一度だった楽しみが公休日ごととなったのはいつだったのだろうか。

「気付いたかい」

「なにを」

「今、ちょっと店内はムードが変わったんだ」

「だれ、曲が変わったのはわかるけっとも、おれ辻さんほど耳鋭くねえでば」

 酒の神の加護を一日受けていた辻氏、空になったグラスを卓に伏せ、そうして天辺となったぶ厚い底の方に左の耳をつける。

「さあて、どうかねえ。……ううん、日曜気分の仕上げをするお仲間はいるもんだね。

 三、二、一、

 そら、来た」

 あら、いらっしゃいませ。

 ご来店。紳士がひとり、階段を上がって来た。

「ほら、鋭いべした」

 種も仕掛けもないのであった。

 音楽家たる辻氏の鋭い耳は、こうして店の内外のせわしない足音を聞き分けるのがとりえなのである。ほんまかいな、と、いつか誰かが申した。

「いやあなに、こんなものをあらためて披露するまでの話じゃあない」

『月光値千金』、さ」

 たしかにいま、楽団はそれを奏でている。

「あれは日曜夜の符牒なんだ」と、店の秘密を上気した頬で辻氏は申す。

「そろそろとね。曲が切り替わって、『月光値千金』がするりと差し込まれるときがこの店にはある。

 日曜は決まって『月光値千金』だ。曜日が変われば別の曲が割当っているんだが、まあそこまで披露することもないだろ」

 秀真くん、ダンスともそれに伴う音楽なぞにも今宵のごとく、こうして連れて来られることもなければ縁がないのでよく承知できぬ。

「これはね、マダムに用事、野暮用かそうでないかは知らんがねえ、が、出来てダンスフロアーやカフェーを少し離れるという、ダンサーや女給や常連客たちへの報せなんだ。

『おもてに飛び出し 月を眺めなさい』、とねえ」

 ははあ、流行り歌の文句にあったかと秀真くん、サイダーの泡のようにおぼろげな感想を抱く。耳に覚えがあるのは、いつか家人が口ずさんでいたか。

 言われてみれば、マダムの姿がダンスフロアーから消えている。

「も一度聞き耳立ててみようか」

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