月の光

 実空みくさんが視界に入るようになったのは、身長のせいだ。


 実空さんは、僕が出会った女性の中で一番背が高い。175センチくらいだろうか。肩や腰は骨太でがっしりとしているが、手足が長くて細いので、テキパキと働く姿はタラバガニを思わせる。


「店長、危ない」

 僕がうっかり肘でひっかけてしまった小鉢を、実空さんがあわててキャッチした。

「おおっと。ありがとう。実空さん、さすがだ。リーチが長い」

「なに言ってるんですか」

 実空さんが笑いながら、小鉢を元に戻す。やはり、実空さんと仕事をしているとき、顔が近いと感じる。


 僕は身長が195センチ体重85キロと、日本人にしては規格外な体をしている。厨房の中で女性と働くとき、普段なら相手の顔が僕のアゴよりも下にあるので、話しているとき以外は顔が見えない。しかし実空さんと一緒にいると、どうしても彼女の横顔が目に入ってしまう。


 履歴書には三十六歳とあり、化粧っ気のない顔は、まあ年相応だと思う。真正面から見ると、目と目が離れていて個性的な顔立ちだが、横から見ると鼻筋が通っていて、美人に見えなくもない。


 実空さんがふと手を止めて「あれ?」とでも言いたげな目で、僕の顔を見た。

「珍しいですね、クラシック」

 店内にかけている音楽のことだとわかるのに、数秒を要した。

「ああ、シャッフルにしてるから変なの入っちゃったな。変えよう」


 お客さんがいるときは、会話の邪魔にならないよう、主張の少ないBGMをかけているが、店を閉めて掃除をするときは、自分のプレイリストをかける。ロックやポップ、ヒップホップにエレクトロ、ジャズにR&B、ジャンルも年代もいろいろで、かなりランダムだ。でも、しっとりした曲が苦手なので、アップテンポなものが多い。


「あ、いえ。そのままで」

 実空さんが、曲を変えようとした僕を制した。

「ドビュッシーの『月の光』ですよね。好きなんです」

「そうなんだ。なに? 思い出の曲なの?」

 僕の質問に実空さんは目を丸くして、なにがおかしいのかケタケタ笑った。ひとしきり笑ったあと、恥ずかしそうに「ええ、まあ。そんなところです」と答えた。ほおがほんのりピンクに染まっている。


 もうすぐ深夜になろうとしていた。十一時に店を閉めて後片付けと掃除をするのだが、実空さんは週に四回、木曜日から日曜日まで、夕方から入って閉店まで働いてくれる。実空さんと二人きりのこの時間に、ロマンチックなピアノ曲は、なんだか気まずい。


 ドビュッシーの「月の光」は、僕の思い出の曲でもある。

 昔付き合っていた女性がピアノを弾く人で、ショパンやドビュッシーを一緒に聴いた。「月の光」をレコードで聴きながら、部屋の明かりを消して、満月の光だけをたよりにセックスをしたことがある。


 顔から火が出るくらい恥ずかしい思い出だが、相手に浮気されて別れた思い出も、もれなくセットで付いてくるので、ダブルで痛い。


「どうしました?」

 と顔をのぞきこまれて、「うわ」っと後ずさった。やはり、顔が近い。

「ごめんなさい。脅かすつもりはなかったんですけど。大丈夫ですか?」

「いや、ごめん。ぼーっとしてた」

 僕の顔まで、赤く染まった気がする。柄にもなくピアノ曲なんてかけたりしたからだ。きっと。


「お疲れ様」

 いつものように、車で帰って行く実空さんを見送った後、二階へ上がって風呂に入った。


 三十歳のときに独立し、郊外にある一軒家を改装して居酒屋を始めてから早十年。一階がお店で、二階を自宅にしている。


 実空さんは、一年前から僕の店で働くようになった。本人の希望で厨房の仕事が中心だが、忙しいときは、嫌な顔一つせずに接客もこなしてくれる。


 店に出ていない日は、フリーでイラストレーターの仕事をしているのだと言っていた。といっても、それは面接の時に聞いただけで、僕の店で働いている間、実空さんがイラストの話をしたことはない。


 実空さんは物静かで、自分の話をほとんどしない。背が高いことも関係しているのかもしれない。人に威圧感を与えたり、人目を引いたりしないように、なるべく控えめにしている印象を受ける。体に負けないくらい声もデカい僕とは対照的だ。


 僕は従業員に対して、プライベートなことを詮索しないようにしているが、それでも、ほとんどの人とは、一緒に働いているうちに、いろんなことがわかるようになってくる。


 学生さんなら、試験が近いとか、恋人ができた、または別れただとか。家族がいる人なら、子どもの成績だとか、義理のご両親との関係だとか。


 実空さんとは、一年も一緒に働いているのに、店に出ていない時はなにをしているのか、ほとんど知らない。別にそれで問題はないのだが。


「月の光」が実空さんの思い出の曲だというのは、僕が実空さんについて知っている数少ないことの一つになった。


 実空さんは、誰と一緒にその曲を聞いたのだろうか。やっぱり男だろうか。なんとなく、結婚している感じがしないが、恋人くらいいるのかもしれない。


 その夜は、いつもよりも寝付きが悪くてベランダへ出た。あいにく曇りで、月も星も見えなかった。



 実空さんが店を辞めると言ったとき、自分でも驚くほどのショックを受けた。居酒屋の従業員は、いろんな人が入っては辞めていく。そういうものだ。


 実空さんは、最初から「イラストの仕事だけだと食べていけないので」という理由で働き始めたのだから、「イラストの仕事が忙しくなったから」という事情で辞めることに、なんの不思議もなかった。


 代わりの人の目処が着くまで、実空さんは仕事を続けてくれた。


 実空さんの最後のシフトの夜、僕は「月の光」をかけた。「最後だから、実空さんの思い出の曲かけてみた」と言うと、実空さんはまた、ケタケタと笑った。


 仕事が終わり、車のドアを開けた実空さんが、思い出したように空を見上げた。

「店長、満月ですよ」

 初秋のまだ暖かい夜。雲ひとつない空に、見事な月が浮かんでいる。


「お月見でもしていく?」

 僕のどこからそんな勇気が出たのか、実空さんにそんなことを聞いていた。

 もうこれっきり会えなくなるかもしれないという不安が、僕を普段以上に大胆にさせたのかもしれない。

 実空さんは、横長の目を見開いて、数秒してから「いいですね」と目を細めた。


 車は代行サービスを手配するからと実空さんを説得して、二階のベランダでお酒を飲むことにした。

 ベランダは猫の額ほどの大きさだが、小さな折りたたみのイスが二つと、お酒やおつまみを置くためのスツールはかろうじて置ける。団子がなかったので、代わりに煎餅を出し、店で出しているぐい呑みに冷酒を注いで乾杯した。


「今までありがとうございました」と言う僕に「いえ、こちらこそ」と恐縮しつつ、実空さんは存外、軽やかに杯を空けた。


「僕ね、高校のときは肥満だったんだよ」

 そんな話をし始めたのは、だいぶ酔いが回ってからだ。実空さんはハイペースで飲んでいるが、顔色一つ変わらない。


「高校一年の夏、僕の体を改造しようって話になってさ。誰が言い出したんだか忘れたけど、なんかその場のノリで。クラスの体育会系のやつら数人で、僕をトレーニングすることになったんだ。


 毎朝ジョギングして、放課後は筋トレしてね。僕、実は筋肉がつきやすいタイプだったらしくて、半年しごかれたら、ムキムキになった。


 身長もこんなんだから、アメフト部に入れって言われて、入ったらすぐにレギュラーになれた。


 クラスのみんながびっくりして、盛り上がっちゃってね。ガンバレ、ガンバレ、って応援してくれて。すごい、すごい、って女子からも持ち上げられて。


 むちゃくちゃうれしかった。毎日、充実してた。僕をトレーニングしてくれたやつらも、大変だったと思うし、みんなに感謝したよ。僕を生まれ変わらせてくれて、ありがとうってね。


 一人だけ、デブ時代から仲良くしてた友達が『無理すんなよ』って心配してくれたけど、僕は毎日一生懸命に練習した。大学は、アメフトのスポーツ推薦で入った。すごい幸運だと思ったよ。急に能力に目覚めたスーパーヒーローになった気分だった。


 でも、大学に入ってから、僕は日に日に不幸になった」


 僕の話に黙って耳を傾けていた実空さんが、眉毛を少しだけ上げた。

「なにがあったんですか?」

「特に、なにもなかったんだけどね」


 ある日、アメフトなんて好きじゃないことに、気づいてしまった。人とぶつかり合うのも、痛い思いをしたりさせたりするのも嫌で、人と競争するのも苦手だった。厳しいトレーニングは、僕の肉体改造という目標に向けて、クラス中が盛り上がってしまったから耐えられたものの、それ自体に快感を覚えたことはない。本当は、ゲームをしたり本を読んだりするほうが、ずっと性に合っていた。


「アメフト辞めろ」とデブ時代からの友人は言った。「辞めないと、体か心か、両方か、そのうち壊すぞ」と。


「辞めたんですか?」

 実空さんが聞いた。

「いや。僕からアメフトを取ったら、何も残らないと思ってたから、必死で続けたよ。でも、結局、その友達の言った通りになった。


 試合で大けがをしたんだ。膝の靭帯を負傷して、手術した。それで、アメフトは辞めた。


 アメフト辞めたら、僕はおしまいだと思ってたけど、そんなことはなかった。学校を辞めさせられたり、友達をなくしたりもしなかった。ああ、別に、スーパーヒーローじゃなくていいんだ。普通に生きてていいんだ、って気づいて。そいで、まあ、楽になった。怪我をして、逆に助かった」


 実空さんは、真剣な面持ちで黙っている。

「ごめん、長々と。オチがないんだ、この話」

 にわかに恥ずかしさが込み上げてきた。酔っ払いの長話だ。

「いえ、わかります。すごく」

「え? わかる?」

「あの、傷あととかあります? その……膝の手術の」

「傷あと? あるけど」


 仕事着のズボンをめくって、右の膝こぞうを見せた。二十年も経っているから、普段は思い出すことすらない、うっすらと残る十センチ足らずの傷あと。


 実空さんは、その傷あとをしばらく眺め、細長い指でそっと撫でた。くすぐったいのと、驚いたのとで「わっ」と声が出てしまった。


「ごめんなさい」と実空さんは手を引っ込めて、顔を手でおおってケタケタと笑い始めた。実空さんは、照れるとケタケタと笑うのだ、とその時に気づいた。


「私にもあるんです、傷あとが」

 ひとしきり笑ったあと、笑いの余韻の残る声で実空さんが言った。

「へえ。どこ?」


「その……心臓のとこなんですけど。生まれつき心臓に欠陥があったらしくて、中学生のときに手術をしました。


 今ではだいぶ薄くなりましたけど、大きい傷です。二十センチくらいあります。


 手術を受ける前は、バレリーナを目指していました。五歳のころから始めて、向いてたみたいで、コンクールにも出たりしてました。


 でも、バレエって、すごく心臓に負担がかかるんです。その頃は心臓の欠陥に気づいていなくて、だいぶ無理をしていました。中学生になって身長も伸びて、クラシックバレエには大きすぎる体になっていました。


 中学三年生の時に、練習中に心臓に激痛が走って、救急車で運ばれました。そのとき初めて、心臓の欠陥にあったことがわかりました。手術をして、学校も長期で休まないといけなくて、踊れるようになるまで、何年もかかりました。


 社会人になって、趣味でまたバレエを始めて、最初に踊ったのが、ドビュッシーの『月の光』でした」


 実空さんはそこで、声を出さずに笑った。


「音楽に合わせて体を動かして、自由だなぁって思いました。コンクールになんか出なくていい、どんな体型の人でも、好きに踊っていいんだって。なんというか、泣きたくなるくらい、うれしかったんです」


 実空さんが自分の話をするのは、初めてのことだ。僕が自分の過去を打ち明けたのは、実空さんにも教えてほしかったからかもしれない。プライベートなことを。親密な関係の人だけが知る、心の柔らかい部分を。


「実空さんの傷あと、見た人っている?」

 実空さんが数回まばたきをした。

「いや、ごめん。変なこと聞いた。無視して」


 彼女の胸にある大きな傷あと。

 それを指でたどり、舌でなめた男は、何人くらいいるのだろう。


 男たちは、実空さんを思い出すとき、きっとその傷のことを思い出すのに違いない。彼女の乳房の間にある傷あとが、月明かりに照らされるように、記憶の中から浮かび上がるとき、自分の胸の同じ部分がチクリと疼いたりするのかもしれない。


「いますよ」

 僕の想像していることを見透かしたように、実空さんは、僕の目をまっすぐに見て言った。

「今も?」

「今は、いません」


 銀色の輝きから、たよりない薄明かりまで、月光が織りなすグラデーションが実空さんを照らす。アーモンド型の目や、薄い唇の、濡れている部分がキラリと輝いて見えた。

「傷、見てもいい?」

 顔を赤らめた実空さんは、ケタケタと笑い出しはしなかった。


 その代わり、僕を見つめたまま、僕が塞ぎやすい形に、小さく唇を開いた。


<了>



***


レギュレーション

1、恋が始まる5分前orエッチが始まる5分前

2、キーワード『グラデーション』

3、『思い出の曲』主人公またはヒロインの思い出の曲

 


 

 

 


 


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金曜日のおはなし かしこまりこ @onestory

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