9:収束

 突然聞こえてくる爆音のアイドルボイスに何もかもがフリーズする。


『ピロリーン! いとしのチドリからお電話ですよっ!』

『ピロリーン! いとしのチドリからお電話ですよっ!』

『ピロリーン! いとしのチドリからお電話ですよっ!』

『ビロリーン! いとしのチドリから──』


「うるせえ」


 ポケットから取り出したるスマートフォンを操作し、君平が眉を寄せる。

 いや。なんだその着信音。

 ご丁寧に『ピロリーン!』も口語である。

 可愛い天使の黒真珠の瞳はネコのようにまんまるになっている。


『──やっとつながったあ! イズルさんいまどこにいるんですかっ! チドリ、さみしくて泣いちゃいそうですよおっ!』


 ヒトガタさえぴったりと動きを止めて何が起きたのか理解できていない様子で、しかし続いて押された通話ボタンによって躍り出るのはきゃんきゃん吠えるような音声。

 凍りついた現場を溶かすどころか高出力バーナーで焼きつくすまでの勢い、着信音の数倍けたたましい熱量的な意味で太陽アイドルボイス。

 これは間違いようがなく君平イズルの恋人チドリのものである。

 いや。これまで音信不通だったのになんでだ。


「……チドリ、どっからかけてる?」

『お部屋です、沙花月亭さかづきてい二〇六号室ですっ! ツグちゃんせんぱいもトロちゃんせんぱいもアオバちゃんもいなくなっちゃったし! お部屋にも誰もいないしぃっ! チドリは! イズルさんに会いたいっ!』

「だとよ」

「はは。チドリつよつよだな……」


 抜けそうになった腰を何とか立たせる。

 スピーカー・モードかと思うほどの大音量は静まり返った周囲によく広がっていく。あまりに場違いすぎて笑いも起きない。思考停止したまま、『チドリ』と表示されたぴかぴか光る液晶画面を見ている。


『イズルさん? ほんとにどこにいるの? 後ろ、なんかこわい音がする……』

「おう。いま怖い目に遭ってる」

『えええ、たいへん逃げなきゃ! イズルさん死んじゃやだあ!』

「簡単に殺すな」

『チドリにできることありますか! なんでもやります!』

「なんでもやるつったな?」

『やっぱりいまのナシでっっ』

「このまま通話つないで騒いでろ」

『了解です! はーいご紹介にあずかりました、イズルさんの大好きなかわいいかわいいチドリちゃんですうーっ!』


 いつ誰がご紹介したのか突然の自己紹介。

 これでいて大学中の噂を握りしめているのだから恐ろしい女である。一時はその笑顔で吸血鬼すら殺したことがあると持ちきりだったこの女の猛威はバケモノ相手でも変わらないらしい。

 本当にチドリって何なのだろうか。人間なんだろうか。

 怪しい。


『とにかくっ! どこの誰だか知りませんけど、チドリの大事なイズルさんとお友達をみーんな返してもらいますからっ!』

「チドリ、その意気だ」

『はいっチドリがんばっちゃう!』

「道しるべができたみたい」


 ふう、と落とされたため息は安堵だった。

 そっと指さされた先は手に握ったスマホで、確認してみて、という。

 薄暗いなかでまぶしいくらいに発光する画面では、現在位置のピンがぽつんと立っている。

 場所は──宿泊施設、沙花月亭。


「現在位置戻ってる……」

「名前の通り、だから」


 チドリの名前のことを言っているのか、ついぽかんとしていると次未はなんだか恥ずかしそうに頬を赤くした。

 ギャグじゃないから、と慌ててつけたされる。


「だから……もういいでしょう。説明は果たした。契約やくそく──わたしたちを帰して」


 すこしごまかすように、気丈な声色。天秤を持つ女神のような。

 ちょっと緊張が解けて俺はやっと安堵を感じる。

 ヒトガタはまだ笑っている。

 心底可笑おかしい、というように。


「 あーあ かけ にも まけちゃった 」


 ついと指をまっすぐにのばす。

 指されたのは誰でもない中空で、俺たちの隙間を縫ったようなその先に、突然ぽかりと穴が開いた。


「さっきのと同じ……さかいだな。次こそは外に通じてるはずだ」


 菓子野が肩をすくめてみせた。

 向こう側が見えないのは恐ろしい。だが天下の菓子野サマのお言葉なので、まあ大丈夫なのだろう。

 一方でジトッと湿り気のある目でヒトガタを見たのは駆馬のやつである。


「羽衣先輩、ほんとに帰れるの?」

契約やくそくだから、たぶん。チドリのいるところにいけるよ」


 通話、つないでてね。

 そう続けた次未はようやく体から力を抜いた。

 手がかわいそうに震えて、唇は真っ青になっている。くすんでしまった黒髪がべったりと顔にはりついて雨に濡れたネコみたいだ。

 早く帰りたい、と泣きそうになっている佐々江ちゃんを連れて、君平が先頭に立つ。


「おい、いくぞ」

「はぁ……もうやだ……」

「青葉ってビビリだったんだねー知らなかった」

「うるさい!」

「次未、粕谷、先に」


 言いかけて、菓子野の言葉が止まる。

 ひょいひょいとさかいに飛び込んでいく君平たちに背を向けて──次未はまだ、ヒトガタと向き合っていた。

 震えながら。

 真っ青になりながら。

 痛々しいくらいに怯えながら、それでも。

 目の前のバケモノに、次未は立ち合おうとしていた。


「次未」

「お前が、初巳はつみ姉さんを殺したの?」


 そうだ。それが、次未が一番知りたかったことだ。

 三年前、比古山の神隠しで死んだ羽衣うい初巳はつみ。次未の三つ上の従姉妹。


「 あのひと 」


 姿


「 かみさま には なれなかった 」


 ヒトガタの口の端が吊り上がり、白い瞳が大きく開かる。


「 もうすこし だったのに ね 」


 次未の腕を引く。

 羽のように軽いからだがふわりとこちらに傾ぐ。

 もう何も言えなくなったやさしい天使を抱きとめる。


「次未、行こう」

「──っ」


 境に飛び込んだ途端、背後の空間はぐるりぐるりとねじれていく。

 うっすらと見えていた景色たちが幾重にも重なって真っ黒になる。


「 ばいばい またね 」


 恐れ知らずの菓子野サマのサムズダウンをしり目にとらえる。

 あっという間に、たったいままで佇んでいた場所はひねりつぶされていった。

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