8:天狗
「まずは妖怪について」
次未のまるっこい頭に光の輪が走る。
一歩踏み込む勇気は、小さなからだのどこから溢れるのだろう。抱きしめたらつぶれてしまいそうな、綿菓子でできたからだなのに。
「今回は簡単。
振られた先で、佐々江ちゃんがうなずく。
額には冷たい汗が浮かんでいる。
「……赤ら顔で鼻の長い、あのテングですよね」
「日本だとそのイメージが強い。鳥のような
天狗。
本場中国では流星が発する音を空を駆け下りるイヌやキツネの仕業だととらえ、
「もうひとつ。近代で、天狗は神隠しの原因とされることもある。神そのものとして扱われることもあるの」
これは山岳信仰に深く根付いた結果だろう。
古来より日本では山は神の住む場所であり、神そのものである。それに人格を与えようとするのは現代でもポピュラーに存在する『擬人化』に近い。
山で起きる不可思議な現象は、山神である天狗が引き起こしたものだ、と考えるのだ。
「今回は天狗が起こした神隠し、ってことか」
「そう。ここが山かと言われれば、微妙なところではあるけど」
次未の言葉に君平はふんと鼻を鳴らす。
あくまでも、妖怪とは現象だ。俺たちが巻き込まれたものはそれがもたらした結果であり、根本的な出来事が起こしたさざ波を引被っているだけにすぎない。
とはいえ今回はそれで納得できるほど生易しいものではないのは確かだ。
「あの追いかけてくる足も、邪視も、全部天狗のせい?」
「
あれを偶然だと言われてもやっとする気持ちはわかる。俺もそうだ。だが、えてして人の常識など怪異には通用しないのだ。
ヒトガタはじっと聞いている。講義を受ける学生のように。
「ここは
「……つまるところ全部こいつのせいなんだろ? こいつが、俺たちをここに引っ張り込んだ。なんでかチドリだけは連れてこられなかったみたいだが」
「そう。そのことについて、話を戻す」
また一歩、次未は前へ出る。
名探偵が最後の一手をかけるように。
「最初はチドリを連れて行こうとしていた。そうでしょう」
とびかかろうとした君平を全力で止める。
同時に駆馬も動いてくれたので助かった。相変わらず理系ひょろのくせに馬鹿力である。
「おい君平、死にてえのか」
「あいつ殺すだけだ」
「やめてよおれたちまで死んじゃうよ」
「あいつ殺すだけだっつってんだよ」
ご自慢の白衣が汚れるのもお構いなく暴れる君平である。これヒトガタがやられるまえに俺たちがやられるのではないだろうか。
「粕谷、駆馬、そのまま押さえていろ」
「よろしく菓子野女王」
こういう時は頼りになる物理的精神分析。
高いヒールが思い切り白衣の背中に踏み下ろされるとさすがに自我もはっきりするというものである。思わず合掌。
悶絶する君平を解放。
とんだ茶番劇だが命をかけるとなれば全力である。
かわいい天使たちはちょっと心配そうにしていたので、サムズアップで無事をお伝えである。話の腰を折られたのに怒らないなんてやっぱり天使だな。あとでいっぱい撫でよう。
気を取り直して、次未はヒトガタと向き合う。
「……あなたはチドリを
その言葉に、くすっ、とヒトガタが笑った。
全身鳥肌が立った。
いますぐあの白い表皮がひっくり返って、世にもおぞましいバケモノになりそうな予感。白い両目が大きく開いたまま、まばたきをしない。
ほほえみを崩さず、ヒトガタは続きを促すように手をすこしだけ揺らした。
「……そしてあらわれたのが天狗。元の場所にわたしたちがいないという現象が、偶発的に引き起こされた」
「でも
「あー……こういうものに距離はあまり関係がないからだろ」
背中をさすりながら君平が起き上がってきた。どうやら精神分析は成功したらしい。
「必要なのは
「そのとおり」
次未はうなずく。黒い髪がさらりと肩から落ちた。
青白い顔はこわばった表情を浮かべている。
真夏なのに汗のひとつもない人形のような顔。ふと、生きていることすら信じられなくなってくる。
「あなたはチドリを手に入れて、何かをしようとしていた。きっと
「 アハッ 」
がばっと大きく口が開いた。
のどの奥から悲鳴が出そうになる。それよりさきに。
アッハッハッハッハッハッ!
叫び声にも似た笑い声がおぞましいほどに響き渡った。
呼吸が止まる。
意思に反して体が竦みあがる。
悲鳴は出なかった。耳をふさぐこともできない。
「もういや……!」
泣き出しそうな佐々江ちゃんの声に、現実に引き戻される。
感覚を失いかけた両手足に力を込めた次未はまだまっすぐに目の前のヒトガタに向かっていて、腹の底から何もかも吐き出しそうになっている俺はなんだか滑稽なまでに無力だ。
「あなたの目的はなに?」
ヒトガタは笑っているだけだ。
笑っているだけだった。
それだけなのに、俺たちの意識は食いちぎられかけている。
君平も駆馬もガタガタ震えている。佐々江ちゃんの目には涙がいっぱいにたまっていて、菓子野すら青い顔。俺はといえば次未のまるっこい頭になんとか集中して意識を保つ。
怖かった。
ただ、怖かった。
「 ひとは もろく よわい 」
すとん、と笑うことをやめて、ヒトガタは静かにつぶやいた。
「 だから もっと つよく なるの 」
どっと背中が冷たくなる。
冷汗が止まらない。もう、指先もまともに動かない。
視線がヒトガタへと誘導されていく。
やめろ。
やめろ。
もうやめてくれ。
恐怖が限界を迎えていた。今すぐにでも思いきり走りだしたい。
そして足が折れて使い物にならなくなるまで、どこか遠くへと逃げ出したい。死んでしまいたい。こんなに苦しい思いをするのならいっそ死んでしまいたい。なんだこれは。なんだこれは。死んでしまいたい。こんなところにいるくらいならいっそ死んでしまいたい。おそろしくてたまらない。こわくてたまらない。あんなものを見つめていたくない。閉じない目蓋を縫い付けてこの眼球を取り出して両足を切り落として両手を引きちぎって首を反対へ折り曲げてそうしてしまうほうがよほどいいここにいるなんてもう耐えられな──
『ピロリーン! いとしのチドリからお電話ですよっ!』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます