2:心配事

「どうしてそうなるまで我慢したの」

「いやあ、ちょっと考え事してただけなんだけどな……」


 日差しに焼かれた首の後ろがひりひり痛い。

 それでも目の前が揺れて気を失いかけていたときとくらべればずいぶん楽だ。天井の間接照明の明かりもだいぶ目に染みなくなってきた。

 覗き込む次未つぐみの絹みたいな黒髪がさらと揺れるのにあわせてふんわりいい匂いがする。

 ゆえに、おのれの情けなさが対比して浮き彫りになるのは悲しい。


粕谷かすやさん、お部屋の準備大丈夫みたいです。動けますか?」

「悪いな佐々江ささえちゃん。もう平気」

「熱中症ってあとからひどくなったりするみたいですし、無理しないでください。あたし、荷物持っていきますね」

「マジか。ほんと悪い、ありがとう」


 男の荷物とはいえそれなりの重さがあるボストンバッグをひょいと抱える佐々江ちゃんである。さすがスポーツ少女は普段からしっかり鍛えているらしい。小麦色に焼けた肌には筋肉の陰影が美しく浮いている。

 次未に見守られているこの状況下、必死の意地によって足を踏ん張ればなんとかよろめくこともなく立ち上がることができる。

 しかし間も無く襲ってきた一瞬の立ちくらみは無視できそうになく、苦しまぎれにごまかしてみせれば、ロビーに吊るされた提灯が点々と俺の視界を明るく照らしてきた。


「しかし、きれいなとこだな」

「うん。さすが望月もちづきさんおすすめのグランピング・ツアー」


 ぐるりと周りを見渡せば、和洋折衷、モダンな印象の空間が広がっている。

 受付カウンターの横に立てかけられた『沙花月亭さかづきてい』の看板は昔ながらの一枚看板。その向こう側は白と黒の洒落た塗装を施された畳が設られた休憩スペースで、ウェルカムドリンク代わりの無料自動販売機がこちらもモダンな塗装でそっと鎮座している。

 そんなオシャレ空間に魔王を影から操る闇の女王が佇んでいるのはきっと俺の気のせいなんだろう。


「よし、部屋行くか!」

「ほうこの私を目撃してなお挨拶もなく通り過ぎようとするのはこの目玉か?」

「せめて三度は仏であれよ!」


 いざ目玉を抉り取らんと伸びてきた指をぎりぎりでかわし、恐ろしい女から距離を取る。

 本日の菓子野かしの透色といろは鎖骨から肩にかけて大きく露出させた個性的なシャツと、やはり個性的なスリットの入ったアンクルパンツのクール・アンド・セクシールックである。長身をさらに伸ばすハイヒールはいつものように健在で、あまり身長に自信のない俺の繊細なハートを割り砕いてくるのはいいかげんにやめてほしい。


透色といろもたまたま旅行に来たんだって」

「ホントにたまたまか……?」

「少なくともお前たちには誘われていないからな。鋳錫いすずさんに敵情視察をしてこいと送り出されただけだ、ランタン頭のお前たちのように不純かつ無意味な動機でこの美しいビーチを訪れたわけじゃない」

「相変わらずグサグサ刺してくる」


 立っているだけで尋常ではない圧力。

 色素の薄い容貌はただそれだけなら神秘的だ。

 亜麻色のボブカットがライトを反射して後光がさしているようにも見える。しかし一歩間違えれば瞬く間に周囲を焼き尽くす強烈な閃光でもあるので、イカロスの後を追うつもりのない俺は平和的手段で従わざるを得ない。


「ちなみにお前たちの部屋は人数の余裕があるらしいから、君平きみひらおどして──こほん。もといして、私もそっちに入れてもらったからな」

「え゛」

「くれぐれも妙な気は起こさないように。まあキスのひとつやふたつは許してやらんでもないが……ふん。腰抜け野郎かすやには無理なことだな」

「もう、変なこと言わないの」


 ひどい。よくこんなにもすらすらと罵詈雑言が出てくるものだ。

 あいだに次未がいるからやっとプラス方向に針が傾く。天使の存在はここにも心強い。

 普段通りの黒いワンピースにリネンカーディガンを羽織った次未の、丸っこい頭がついと前を進んで行く。なお当たり前のように横を陣取ろうとした菓子野と無言の攻防を繰り広げたが、次未を真ん中において左右というポジショニングで決着がついた。

 グランピング施設というだけあり、海の見える外廊下を渡るだけでも壮観である。

 山側からゆったりと吹く風は涼しく、真夏なのに気持ちよく昼寝ができそうなほどだ。


「わあ。風、涼しいですねえ。ビーチのほうはとっても暑かったのに!」


 二つ結びのオレンジブラウンがやかましく揺れた。

 着るものすべてをアイドル衣装へと変貌させるチドリは振り返るだけでSNS映えショットを作成する。動画サイトにでも上げれば荒稼ぎできそうなものだが、君平に三枚おろしにはされたくないので我慢だ。


「山の緑と海の青、どっちも見えますね」

「キレーだよねっ」

「チドリ先輩って面白いくらいなんでも喜ぶよねー人生楽しそう」

「楽しいよ~ミドリくんもいっぱい楽しもう!」

「海水浴の後なのにパワーあるなァおまえら」


 丘の斜面に沿って建てられたこのグランピング施設は外廊下に沿って多くのロッジが連なっている。ランダムにしか見えないロッジの並びだが、グループの規模ごとに建物の大きさが異なっているゆえの配置なのだろう。

 中規模のグループに当たる俺たちのロッジは山側に少し進んだ場所にあった。


「二〇六号室……ここか」


 ロッジは広々としていた。

 寝室がふたつ、シャワールームと別に浴室も設えられており、リビングのサッシを開けばバーベキュー設備が整えられたサンルームに続いている。なるほどここで料理を楽しむわけだ。


「冷蔵庫もしっかりしてますね。飲み物冷やしておきます」

「晩飯前に買い出しいかねえとな。食材は買ってきたが、この調子だとお茶系が足りなくなる」


 クーラーボックスを置いて肩をまわす君平にチドリがまとわりついていく。

 見目が華やかなぶん目立つうえに背も高いのでかなりウザい。というか危ない。

 あの二つ結びに頬を叩かれた経験は数知れずだ。


かなめ、まだふらつくなら横になったほうがいいと思う」


 遠くにやっていた目がつややかな黒に戻ってくる。

 うかがうように見上げてくる次未が目の奥から不安を伝えてきた。

 丸い二つの黒真珠が俺を映している。それなのに──俺は、なんだかとんでもなく疲れている顔をしているようだった。


「あー……そうだな。もうちょい休んどく」


 正直ベッドに今にも飛び込みたい気分なのでお言葉に甘えることにしよう。

 そろそろと伸びてくる指を手のひらごと握りこんでやると、夜の瞳の中に星が降ってくる。

 しかしそのまたたきがぱたりと消えてしまったのは、かの氷の女王が俺のうつくしい天使をそのふところに引き込んでしまったためだった。


「ちょ、菓子野サマ空気読んで」

「いやだ。こんなにかわいい次未は私の権限と金銭をもってたっぷりかわいがっておくから心配するな。お前はいつものようにアザラシよろしくベッドに横になって惰眠をむさぼり贅肉を腹回りに肥やしていろ。さあチドリと青葉あおばもおいで、本棟のリビングスペースに有名なカフェがあるからスイーツ食べに行こう」

「えっ」

「やったあ! チドリいきます!」

「はい、あたしもご一緒します」


 看病フラグがきれいに折られ、見事にさらわれていった俺の天使。

 甘味の誘惑には逆らえなかったようだ。菓子野サマの姑息な手段である。

 ばたんと閉じられた黒い扉にうらめしい視線を送っていると、小生意気な駆馬かけまが満面の笑みで近づいてきた。


「粕谷先輩、さみしい?」

「傷心抉ってくるなよ駆馬後輩」

「でも菓子野先輩がいれば羽衣うい先輩も大丈夫でしょ。チドリちゃんもいるし」

「まあ、そりゃそうなんだけど」


 楽しそうなことはいいことだ。

 ここ数年、サークル活動以外でほとんど出掛けなかった次未がめずらしく積極的に遊んでいる。

 それは気の許せる相手が増えたということで、幼馴染みとしてはとても喜ばしいことだし、気になることなんて小指の先ほどの嫉妬心が顔をのぞかせていることくらいだ。

 だから、問題はもっと根本的だ。


「過保護」


 君平の鋭い一撃。

 ずき、っと頭の奥が痛い。熱中症のせいだ。


「君平にだけは言われたくねえんだけど」

「視えていようといまいと、対応できるかはまた別だろ。お前は手の届かないことに悩んでるんだよ。傲慢ごうまん

「……わかってる」

「む。ねえ、おれ先輩たちの言ってることがよくわかんないんだけど」


 なかまはずれ、よくない。

 ずいと体を寄せてくる駆馬。

 俺たちが花の女学生なら黄色い声をあげるだろうに、つくづくこの後輩はオカルトにしか興味がない。君平と並べるくらいには容姿が整っているのにもったいないだろう。

 次未に興味を向けても向けられても困るので、言わないが。

 むくむく膨らんだ頬を君平がつつく。


「このあいだの『まっしろなかみさま』関連?」

「関連といえばそうだけどな」


 いつもの白衣がバックパックからとりだされる。なぜ持ち歩いているのか、年単位の付き合いなのに今も不明である。

 チャラついた雰囲気と共に腰を落ち着けた君平は、三つのカップとアイスティーのボトルをどっかりとテーブルに置く。


「良い機会だ。駆馬を巻き込むつもりじゃなかったが、事情くらいは聞いておくべきだろ」

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