帰郷
◆
私は車体が激しく揺られるのに合わせて、シートの上で体を揺らして、足元ではペダルにかける力を加減した。
「だいぶ荒れていますね」
助手席にいるオリベさんが私と同じリズムで揺られながら、絞り出すように言う。
オリベさんは、新しく再編された組織で、ワタライさんの後任という形で参加している刑事だった。
年齢は二十代らしいけど、ヒゲを蓄えていて、やや年齢不詳だ。レンズの大きいメガネをかけていなければ、あまり近づきたくない雰囲気かもしれない。メガネの影響で愛嬌がある。
組織に警察関係者を入れることは、最上層部、内閣府その他の意見でもあるけれど、私としては警察の手法を知っている人間がいるのは、仕事の中で役に立つと思っている。
と言っても、私自身は知識も経験も不足していて、まだ捜査官補のままだった。
大学生との二足のわらじだから、仕方がない。
「キリヤさん、見た目に似合わず、運転、うまいですね」
ちょうど未舗装の道にあるくぼみにタイヤが落ち、跳ね上がるようにそこを切り抜けた。
私が黙っていると、失礼、とオリベさんが言う。
「え? 何がですか?」
「僕ばかりしゃべりかけてすみません、という意味です」
「別に嫌ではありません」
道路に傾斜があり、左側が沈み、次には右側が沈む。
その縦揺れのせいでオリベさんの返事は少し遅れた。
「キリヤさんは、あまりしゃべらないと思っていましたけど、実は違うんですか?」
「しゃべらないわけがありません」
「でも、雑談とか、好きじゃないですよね。拠点でも、あまり話をされませんし。シドミさんとは仲がいいようには見えますけどね」
シドミは私の中では特別で、年齢も近いし、好きなもの、趣味などでも重なる部分が多い。組織の中では唯一、本当の友人でもある。
今度は私が黙っていたが、頭の中ではどう答えるべきか、考えていた。
ちょうどいい言葉が選びきれないうちに、オリベさんの方が口を開いた。
「この山奥に何の用があるのか、まだ聞いていないのですが」
がくがくと車が揺さぶられる。
高速道路を降りてからすでに三時間が過ぎている。一時間前に小さな食堂のような場所で休憩したけど、あれ以降、人気はない方向へ進んできた。すでに三十分は山道で、人気どころか人が使っている気配のない道だった。
私は奥多摩にある、自分が幼い頃に過ごした研究所を目指していた。
二十歳を目前にして、自分の過去にきっちりと区切りをつけるべきではないか、と自然に発想していた。
あの研究所はすでに使われておらず、しかし取り壊されてもいないということだった。無害な機材は残っているかもしれないが、記録は一つもないとも、カナイさんが教えてくれた。
それでも行くと私が決めると、カナイさんはオリベさんを連れて行け、といったのだ。
どういう意図があるのかを、私は確認しなかった。護衛かもしれないし、お目付役かもしれない。あまり考えても仕方がないことだ。
私が向かっているところを、どうオリベさんに説明すればいいか、時間と努力が必要だった。
私は自分の故郷を訪ねるような気持ちだけれど、それは本来的な故郷とは意味合いが異なる。
近い言葉を探せば、すでに引っ越した昔の住居に、何年も経ってから戻るようなものだ。
ただ、それでも懐かしさや思い出を辿るために向かっているわけでもないから、どこか違うのかもしれない。
ガクン、と車が大きく揺れ、窓を張り出した木の枝が擦り、音を立てる。
「私の過去」
思わずそう言っていて、言ってから、陳腐だし、抽象的で、かっこつけだな、と思った。
同じことを思ったのだろう、オリベさんは笑っている。
キリヤ・カナエの過去の全ては、でも、あの山奥の研究所にある。
もうないかもしれないけれど。
それから車は十分ほどで分岐にたどり着き、より細い道へ進んだ。
しかしすぐに広い空間に出て、私はそこに車を止めた。
「ここですか?」
「すぐそこ」
シートベルトを外して外へ降りると、日差しは程よく木々の枝葉に遮られている。その場で虫除けスプレーを吹き付け、野原から伸びる下草に覆われて見えなくなりつつある斜面の道を登っていく。オリベさんも遅れずに付いてきた。
汗をかきながら初夏の山中を抜けると、広い道に出た。
「この道なら車も通れますよ」汗をハンカチでぬぐいながら、オリベさんがいう。「キリヤさんの能力を使えば、見えないわけがありませんよね」
「途中で斜面が崩れて、道はふさがっているよ」
そういうことですか、とほとんど吐く息そのものでオリベさんがいう。
大きい道に出て、十分ほどで門が見えた。新時代社会研究所、と刻まれた石が草に埋もれている。門柱の間に頑丈そうな金属の柵があり、まだ警戒装置は生きているという話だった。
「どうやって入るんですか?」
オリベさんの言葉に、私は門柱に歩み寄り、出発する前にカナイさんから渡されたカードを、門柱にあるスリットに通す。鈍い音を立てて、門柱自体がわずかに動いた。その隙間から中に入れる。
オリベさんがおどけて口笛を吹くのを無視して、私は敷地に入った。
建物は前に見たとき、ここを出て行く際に見たときより、ずっと古びている。外壁が部分的に剥落してボロボロのアスファルトの上に散らばっていた。
噴水はもう動いておらず、水すらもなかった。
何度も千里眼でここを見ていたのだ。実際にこうして普通の視力で、目の前にして見てみても、千里眼で見ているのを確認するような心地だった。
まるで何かの答え合わせをしているような気がする。間違い探しのような感覚。
建物の玄関から中に入る。ここは私が幼い頃も使われていなかったので、ほとんど変わらない。中に入るとカーテンがより日に焼け、朽ちているのが目についた。壁紙もささくれだっていて、床もひび割れている。
地下へ降りるためには、階段しかない。エレベータがないのは、エレベータが敵に制圧されると、防御が困難になるからと聞いていた。縦穴があるのも防御には適さない。
この施設が武装集団に制圧されることを考慮するのは余計な思考に思える。仮に襲撃されたら、おそらく脱出よりもデータの破棄と自決が重視されているのだろう、などということを、私はだいぶ経ってからのんびりと考えていたものだ。
書類を保管する目的らしい部屋に入ると、書棚が並んでいる。空気の流れに引きずられ、埃が舞い上がる。
「ここに何が?」
オリベさんの言葉に、私は黙って部屋に入り、書棚の一つを横に引いた。滑るように移動するのが、あまりにもスムーズなのでそういう仕様だとはっきりしている。
壁にスリットがあり、門柱を開けたのと同じカードを差し込む。
壁の一部に切れ目ができ、小さく揺れる。私はそれを引きあけた。隠し扉だ。またオリベさんが口笛を吹く。彼の口から、忍者屋敷だ、と呟きが漏れた。
二人で扉の向こうの階段を降りる。明かりはついているが、ところどころ、電球か蛍光灯か、そんなものが壊れているようで、闇が部分的に制圧している。下へ降りるほど暗さが増す気もした。
踊り場を抜け、終点の扉を開く。
空気に何かが刺激され、ゾワッと全身に寒気が走ると自然、鳥肌が立った。
薬品の匂い、インクに匂い、機械が発するプラスチックの匂い。
「研究所ですか。何の研究所かな」
通路を歩きながら、オリベさんが言うけど、私はやっぱり答えなかった。
懐かしい空気、匂い、光景。
私はここにいた。ここが私の閉ざされた未来、生の終着点のはずだった。
どこへも行けず、ここだけが私の知る世界のはずで、例え外を知っていても、それは手で触れることのできない、見るだけの世界のはずだった。
まるでモニターの中の映像を見るように。
食堂を横目に進み、喫煙所の前も通った。
下へ降りる階段。扉には認証装置があるはずが、すでに扉は開放されていて、やはりここはもう、無価値な場所なんだろう。
階段を降りる。下の層はより一層、厳重に隔壁で守られている。
下の層は一層、静けさに包まれ、私とオリベさんの足音が、不自然なほど大きく反響した。
測定室を覗くと、ガランとしていた。全ての装置が運び出されている。資料だってない。人がいたなんて思えない、何かの動物の死骸の、その空洞となった内側を見ているような心地だった。
測定室の隣の部屋に入る。
やっぱり装置は何もない。最先端の設備、国際的に禁止された違法な設備がまだあるはずもない。
しかし寝台だけは、何かを証明するようにそこにあった。
私の能力が調べられ、開発される過程で、何度も横になった寝台だ。
あの時はみんな、何かに取り憑かれていて、私は人間であることを諦めていた。
いつの間にか何も憎まず、恨まず、淡々と実験を受け、苦痛を受け入れ、しかしどうしようもなく叫び、暴れていた。
今の自分のことが不意に、幸福なのだろうと理解できた。
過去と比べれば、まるで違う。真夜中と昼間くらい、全く違うと言ってもいい。
それは努力したからだろうか。それとも天性の素質だろうか。
もしかしたら、偶然なのではないか。
気づくと私は寝台に歩み寄り、それをなぞっていた。オリベさんは入り口に立ち尽くして、ただ無言でこちらを見ている。
私はこのベッドに横になった何度目かの実験の時、不思議な女の子を見た。
青い瞳と、金色の髪の毛をした女の子。
あの子は私を見ていた。
能力者だった。遠隔視、私と同じ千里眼を持っている女の子だ。
彼女はこの研究所をその能力で偵察していた。
その女の子を、私の能力が捉えた。あの時はトウギ博士も慌てていた。
でも私があの異国の女の子を見たことがあったからこそ、今がある。
一度、息を吐いて、寝台を離れた。
「ここはどこか不気味ですよ、どうも」
私が歩み寄ると、オリベさんが不安げに言った。
大人なのに、廃墟が怖いなんて、子どもみたいだ。
「私はここにいたことがある」
安心させるつもりでもないけど、自然とそう言っていた。
「ここにいた? 研究者として、ではないですよね」
「ええ、そう。実験動物だった」
何も言えない、という表情でこちらを見るオリベさんの前に、私は立った。
「運が良かった。だから今がある。それだけのこと」
「組織が人体実験を行ったんですか?」
「組織だけど、もっと大きいかもしれない。もしかしたら、もっと小さいかもしれない」
首を傾げるオリベさんを、私はじっと見た。
「国が行ったかもしれないし、一人の研究者の願望が行わせたのかもしれない、ということ」
「分からなくはないですね」
オリベさんとしては、それほど深入りしたくないようだった。
「行きましょうか」
そう私が言うと、パチパチと瞬きするオリベさんが拍子抜けしたように確認してきた。
「これで終わりですか? 何もしてませんけど、見物しに来たんですか?」
「そういうことです。もう用は済みました」
そうですか、とオリベさんは不服そうだった。このために半日もかけて都心からやってきたのだ。無駄足だった、と思ったかもしれない。
通路に出て元来た道筋を戻りながら、私は説明する気になった。
「私の能力を、オリベさんはよく知らないと思いますけど、千里眼と呼ばれるものです」
背後を歩いているオリベさんは黙っている。
「どこにいても、どこだって見ることができる。でも結局、実際に行ける場所は、極わずかです」
「それはそうでしょう」
「ここの様子も、わざわざ来なくても見ることはできました。今、こうして実際に見た光景も、実は前に見ていました」
「実際に見て、何か変わりましたか?」
その時には一階に上がっていた。隠し扉を元に戻し、書棚も元通りにした。
答えるべき言葉を、探した。
外へ出ると、急に明かりが強くなった気がして、反射的に目を細めていた。
実際に見て、何も変わらなかった。私は何も変わらないのだった。
「オリベさん」
外の日差しの中で、その元警官を振り返る時、私の頭の中では無数の視線が二人を多方向から把握していた。
オリベさんがこちらを真っ直ぐに見る。
「視点がいくつもあると、ちょっと違ったように世界が見えます」
「それがさっきの問いかけへの答えですか? 遠くから見て、実際に見て、という二つの視点がある、という?」
「ただの言い訳です。本当の気持ちを答えるなら、何も変わりませんし、感慨が少しある程度でした」
まあ、とオリベさんが自分の髪の毛をかき回した。
「僕も色々と見てきましたが、ガラッと感覚が変わることは、なかなかないな。と言っても、最近だと超能力を実際に見たときは正直、ビビりましたが」
その点では、私の千里眼は穏健に見えるだろう。ヒルタさんは心を読むし、ササキさんは炎を操る。
門を抜けて、カードを通して警備状態を元に戻し、車までゆっくりと歩いた。山を歩くにはちょうどいい季節かもしれない。気持ちよく汗ばむ程度の熱気。風は涼しく、濃い緑の匂いがする。
車に乗り込む時、オリベさんが先に運転席の方へ行った。
「帰りは僕が運転しますよ。交代です」
「道、わからないんじゃないですか?」
「一度通った道を忘れることはありません」
結局、私は助手席に乗り込んだ。
車が器用に切り返し、元来た道を戻る。
二度とここへ来ることはないだろうな、と緩慢に流れて行く車窓の向こうを見ながら、考えた。見ることはできても、二度と踏み込めない場所になる。
そうか、こういうことを、決着というのかもしれない。
別れを理解すること、受け入れること。
私はあの研究所で過ごした日々と、今、本当に決別したらしい。
実感がないけれど、小さなピースが私の心の欠けていた場所にはまった気がした。
その一つのピースで、私が組み立てていた本当の生き方に、実は欠けていたスペースが今度こそ埋まったのではないか。
ちょっとだけ、私は本当の人間になれた。
車が激しく上下している。舌を噛みそうだ。
やがて山の中から飛び出すようにまともな道に出て、振動はなくなった。車こそ通らないが、片側一車線でも十分で、何より道が平らなのがありがたい。
「帰り道、どこかで飯でも食いましょうか」
世間話なのだろうけど、すぐに答えることのできない言葉だった。
しかしオリベさんは慣れているようだ。
「立川のあたりで、ラーメンでも食べましょうか。穴場があるんですよ。着く頃にはちょうど夕食時です」
こういう時、普通の人はどう答えるんだろう。
「いいと思うけど、そう都合よくいく?」
逃げるようにそう答える自分がちょっとみっともない。けれどオリベさんは平然としていた。
「まぁ、これでもラーメン屋には詳しいんで。ラーメン屋よりも駐車場が気になるかな。普段は電車ですから」
もうどうとでもなれ、と思って、「任せるから」と答えておいたが、何を思ったか「奢りますよ、店は僕が選ぶんですから」とオリベさんは言っている。
本当に、どうとでもなれ。
こういう日常こそが、きっと尊いし、正しいんだろう。
私も少しずつ、人間に戻っているようだった。
社会に溶け込んで、そのまま、人混みの中に消えていくのかもしれない。
誰にも気づかれず、誰にも指をさされず。
オリベが運転席で口笛を吹き始めた。
何の曲かすぐにわからず、私はしばらくメロディに耳を傾けた。
なんていう曲か訊いてみよう、と私は思った。
(了)
私には見える、あなたが 和泉茉樹 @idumimaki
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