未来からの解放

     ◆


 みんなが揃った。

 場所は平凡な会議室。窓の外に明かりが見える。つまり地下ではない。

 今後の新しい拠点はまだ未定だと思うけど、必要にはなることを私は考えている。

 顔ぶれを私は見る。

 レイカ、カナエ、ヒルタ、ササキ、リーダーのままのカナイ。カオリの姿もある。彼女も海外から戻ってきたのだ。

 そして、ワタライ。

 それを見たとき、私は何か違和感があった。

 何かが違う。

 そう、これは夢だ。

 自分の思うがままにならない視野で、時計とカレンダーを探す。私は頻繁に時計を確認するし、日付もわかるように腕時計はデジタル式で、日付と曜日が表示される。

 この時も、別の時間にいる私は腕時計を見た。

 五月十六日。時刻は十一時前。

 視線はすぐに時計を離れ、周りの人たちは言葉を交わしている。唇を読めば、食事をするか、というような話題らしいと見て取れる。

 これが現実か。

 正確には、私が認めることができる現実だろうか。

 ふっと周囲が真っ暗になった。

 やはり幻だ。これは夢で、まだ今ではない未来。


     ◆


 自分が小さな声を漏らすのを聞いた時、夢からの覚醒がはっきりと感じ取れた。

 目をこすり、起き上がる。場所は長期滞在用のマンスリーマンションの一室。部屋には二つの寝台があり、もう一方ではササキが寝ていた。

 私は目をこすり、時計を見る。これも日付が表示されるものだ。

 五月一日。世間ではゴールデンウィークに突入している。

 私が動き出したからだろう、ササキが小さな声とともに上体を起こした。

「早いわね、カリンちゃん」

 そういった彼女はすぐに意識がクリアになったようで、ベッドを下りると「コーヒーを淹れてくるから」と寝室を出て行った。

 私はといえば、いつもの癖で、メモに夢で見たことを書き取っていた。

 文字に置き換えながら、数日前に通達されたことを考えた。

 五月十六日に秘密裏の会合があり、そこで組織の再結成に乗るか乗らないか、それを確認される。場所は東京で、四谷駅にほど近いビルにあるスペースが確保されている。

 全員がそこで顔をあわせるのは間違いないし、私が見た夢の中では脱落者は一人もいない。

 何がそこまで私に考えさせるのかといえば、やはりワタライさんのことだ。

 三月に、長野県までスキーに行った。あれはいわば、秘密裏の上の秘密の集まりで、ただの旅行といえばそうだけど、お互いの安否を確認するのと同時に意志を確認するようなところがあった。

 あの時、私は初めてワタライさんの家族と会った。

 三人の間にある空気は、穏やかな日々を感じさせる雰囲気だった。

 幸福が形を持ったようでもあった。

 それは、私は手にできなかったもの。

 羨ましいとは思わないけど、尊いことはわかる。望んで手に入るものではないけれど、誰かの努力がなければ決して形にならないものだ。

 あの女の子、ワタライさんの娘は、まだ小学生だという。

 溌剌として、明るい雰囲気、そして無限のようにも見えるエネルギーを発散していた。

 あれから、あの子を不幸にしてまで私たちが組織を維持する理由があるか、私は繰り返し考えることになった。

 本当に不幸になると決まったわけではない。

 ワタライさんがいなくても、その奥さんとあの女の子の二人で、何かしらの幸福があり、何かしらの明るい未来があるかもしれない。

 でもそうなった時、あの女の子の世界におけるワタライさんは、どういう像を結ぶのだろう。

 家族をないがしろにした男、娘より仕事を選んだ男、そうなるのか。

 決めるのは私ではないし、評価するのも私ではないけれど、何かがうまく飲み下せなかった。

 メモを書き終える頃、コーヒーの香りと一緒にササキが戻ってきた。両手にマグカップを持っている。片方が私に差し出されて、ありがとう、と受け取る。

 ササキは私の護衛として、ここ半年、じっと仕事をこなしていた。

 本当はカオリの方が心強いと思った時もあったけど、カオリはいくつかの組織からマークされていたし、その点では、ササキは非合法の工作員のような意味ではマークされるものの、まだ私たちの一味としてはそれほど知られていない分だけ安全とするよりない。

 カオリは本当に部下と一緒に海外に渡っていて、傭兵か警備員のようなことをしているという。どれだけ検閲を受けても問題のない、当たり障りのない内容のエアメールが月に一通、ちゃんと届く。

 私が書いたメモを見ながらササキはコーヒーをすすり、私は手元のマグカップのもったりとした茶色い水面を見ていた。ササキは私の好みのミルクの量と砂糖の量をきっちりと把握して、いつも大体、正確だ。

「未来に何か不安でも?」

 そうササキに質問されて、別に何もないけれど、と答える私の声は自分でもどこかざらついているような響きに感じた。

 こちらを見て、ササキが肩をすくめる。

「不満そうだけど、未来はいくらでも変えられるでしょう」

「だからこそ、悩むのよ」

 違う違う、とササキが微笑む。

「予知した未来を変えるとかじゃなくて、あなた自身の未来を、あなた自身が変えられる、ということよ」

 どう答えていいか、私にはすぐわからなかった。

 未来を変えるのではなく、私が私自身を変える。

 まるで言葉遊びだ。

 でも、そんなこと、今までだってやってきた。能力を自在に使えるように、能力を正しく使えるように、私は私を形作ってきたのだ。

 普通の中学校や高校、大学には行かず、それでも勉強はしたし、訓練も積んだ。

 だから私は、自分自身を変えることを知っている。

 なんでササキは当たり前のことを言ったのだろう?

 私な不審げな眼差しが嬉しいとでもいうように、ニコニコと笑いながらササキは言葉を続ける。

「みんな、自分の行動や決定に後悔を抱えるものよ。あなたもそれを抱えなさい」

 後悔を抱える。

 未来を知ること、未来を変えることは、いわば後悔をコントロールすることだとも言える。

 失敗を回避して、憂いを断つようなもの。

 私にも後悔はいくつもある。表に出さないようにはしているけど、数え切れないほどある。

 それを知らないササキではないだろう。彼女の観察眼は、思ったよりも高性能ということか。

「後悔はあるんだけどね」

 当たり前のことを答えて、私は会話を打ち切るようにカップの中身を飲み干した。そうしてベッドを降りて、シャワーを浴びるためにタオル一式を用意した。ササキもコーヒーを飲み干すと、料理するためにリビングへ行った。

 シャワーを浴びながら、私は自分が何を気にしているか、それだけを考えていた。


      ◆


 そこには全員が揃っている。

 はずだった。

 しかしいない人物がいる。ワタライさんだ。

 日付は五月十六日。時刻も十一時過ぎ。

 夢の中で、これは一度、夢に見た、と私は理解した。

 しかし夢に見た光景とは違う夢。

 何が正しいのか、混乱し、しかしこれは夢だと瞬時に自分に言い聞かせた。

 夢の中で、私たちは食事の話をしている。ワタライさんがいないことを誰も気にしていない。私自身は私がどんな言葉を口にしているのか、それはわからない。

 しかしみんな、ワタライさんがいないことを前提にしている。

 そういう世界なのだ。

 私は瞬時に現実に戻る必要を感じた。

 念じれば、世界は闇の中に消える。

 私は念じた。

 何かに背中を押されるように。

 何かから逃げるように。


     ◆


 目が覚めると、すぐそばにササキの顔があって驚いた。

「大丈夫? だいぶうなされていたけど」

 そんなわけはない、と思ったけど、実際、私の寝間着は汗で湿っていた。

「今日は何日?」

「五月七日」

 すぐに返事があり、私は深く息を吸って、細く長く吐いた。

「大丈夫? 顔が真っ青よ」

「うん、まあ、たまにはこういうこともある」

 過去にも予知夢が現実の体に影響を与えることはあった。しかしここまでの影響は珍しい。

 上体を起こして、メモに書き取っておくけれど、それは前に書いたものと酷似している。

 ワタライの不在を書いてから、時計を見た。九時過ぎか。だいぶ寝坊をしてしまった。その私に気づいたのだろう、ササキが「朝ごはんはもう出来ているわよ」と声をかけてくれる。

 うん、とだけ答えてから、電話します、と私は言っていた。

 聞かれたくない電話をするという意味なので、ササキは軽く頷いて部屋を出て行った。

 ベッドサイドに置かれていたスマートフォンを手に取り、少し考えて、まずカナイさんに電話した。呼び出し音一つですぐに出る。

「どうかした?」

「あの……」

 挨拶もなしの質問に、カナイさんが緊急事態を想定しているとはわかったけど、すぐにはうまく言葉が出なかった。

「問題はないんだけど」

 やっとそう言うと、カナイさんも電話の向こうで安堵したようだ。

「おしゃべりのための電話?」

「そうでもなくて」

 思い切りが必要だった。

「ワタライさんを新しい組織から外すことは、可能ですか?」

 短い沈黙があった。

「彼の経験と技能は必要不可欠とまでは言わなくても、重要な要素よ。本人からは前向きに検討するという返事もあるし、経歴はもちろん思想的にも何も問題はないわ。何か気づいたの? それとも夢に見た?」

 答えるのが難しい内容だ。

 ただ、全部、私が考えている通りだった。

 ワタライさんは組織に戻ってくる。組織もそれを受け入れる。

 しかし、家族はどうなる?

 私がその光景を夢に見たわけじゃない。奥さんも、あの女の子も、不幸を被ると決まっているわけではない。

 問題はワタライさんが戻ってくるかこないか、それだけの筈が、私が重大に捉えすぎているのだろうか。

 他人の家庭のこと、よその家族のことに、無駄に首を突っ込んでいるだけか。

 そうでなければ、幸福に?

「夢に見たわけではありません」

 私がそう告げると言葉の奥にあるものを感じ取ったのか、気を楽に持って、とカナイさんは言い、それから何気なく、カオリが帰国することを私に告げて、それで電話は切られた。

 しばらくスマートフォンを眺めてから、私は一つの連絡先を選んで電話をかけた。

 相手はなかなか出ない。

 それでも留守番電話に切り替わるか、というところでやっと受けた。

「もしもし?」

 低い声には訝しむような響きがある。

「ワタライさん? シンウチですけど」

 短い沈黙の後、「珍しいな」と電話の向こうの男はぼそぼそと言った。

 その響きを耳にした時、きっと私は確信したんだろう。


     ◆


 五月十六日の朝、私は早めに目が覚めて、珍しく自分で自分のコーヒーを用意した。

 遅れて起き出したササキにも振舞って、彼女は普段通りに料理を始める。私はテレビでニュースを眺めながら、今日の服装を考えていた。

 夢の通りにするべきか、変えるべきか。

 食事と身支度が済むと、二人で地上へ降りた。

 時刻は十時を過ぎている。会合は十時半からで、会合場所は目と鼻の先で徒歩でも余裕がある。遅れることはない。

 ただ、今、はっきりさせないといけないことがある。

「ちょっと話をしたい人がいるから、離れていてくれる?」

 歩道を歩き始めたところで、私はササキにだけ聞こえる小声で伝えた。ササキは足を止めず、しかしこちらを見ているという視線ははっきり感じた。

 結局、彼女は「了解です」とだけ答えた。

 四谷駅が見えてくる。その手前で折れるはずが、私はまっすぐ駅へ向かった。

 地下へ向かうコンコースの壁際で、背広の男性が立っている。

 彼も私に気づいた。

 そっと私は彼の横に立ち、しばらく黙っていた。

「俺にもできる仕事はあると思うが」

 いつもど同じ低い声でワタライさんが言う。

 私もいつも通りの口調で答えたつもりだ。

「仕事はあるけど、あなたにはいるべき場所がある。違う?」

「俺が東京に来ても、家族はそれはそれで楽しくやりますよ」

「それはあなたの願望」

 手厳しいな、とワタライさんは苦笑いする。そしてタバコを取り出そうとして、しかしその手を引っ込めた。

 禁煙だと気づいたのだろう。

 彼は箱を元に戻した。

「いっそ、俺には何も仕事はない、だから警察署での無意味で退屈な日々で満足しろ、そう言われた方が良かったな」

「あなたが決めなくちゃ」

 そう言いながら、私にも何も確信は持てなかった。

 ワタライさんを幸福にしようとしているのか、不幸にしようとしているのか、私自身にもわからない。

 自分が未来を変えようとしているのか、それさえもわからなかった。

 二人の間には沈黙がやってきて、ただ目の前を人が忙しくなく、それぞれの様子で右往左往している。

 誰もが幸せになりたい世界。

 誰もが不幸せになりたくない世界。

 当たり前の世界だ。

 しかしどこかで誰かが、何かを犠牲にする世界でもある。

「俺の人生も、難儀なものだな」

 やっとワタライさんがそう言って、壁から一歩、離れた。

 きっと私は、すがるような顔をしていただろう。見せたくない顔でも、この時だけは表情を偽れなかった。

「俺が決めなくちゃいけないことだ。お前はただのきっかけだよ、お人形さん」

 こちらを見るワタライさんの顔は、笑っている。

 どこか寂しげな笑みで、一方で何かの決着をつけたような晴れやかさもある。

 正反対のような感情が同居する、ワタライさんにしか、今の彼にしかできない顔。

「俺は下りる。もう会うこともあるまい」

 すみません、と反射的に口走っていた。

 何でもないように、気にするな、と応じたワタライさんはそっと私の頭に手を置き、ゆらゆら揺らしてから、今度こそ私の前を離れていった。

 そのまま改札の方へ向かい、やがて彼の姿が他の人々に紛れ、見えなくなった。

 ため息を吐いて、乱れた髪の毛を手ぐしで整えると、彼とは反対方向へ私は歩いて行った。どこからかササキが近づいてきて、横に並ぶ。

「よく頑張りました、というところね。点数をつけるなら百点満点で八十五点」

 それがササキなりの優しさなんだろうけど、私はどう答えることもできなかった。

 駅を離れ、私は会合場所に着いた。すでに私とササキ以外の全員が揃っている。

「ワタライさんは」

 私は挨拶も何もなく、真っ先にはっきりと告げた。

「下りるそうです。彼からそう聞いてきました。私の勧めでもありますが」

 カナイさんがじっとこちらを見て、「確認しておくわ」とどこか険しい声で言った。貴重な人材が一人でもいなくなると、やはり大事なのだ。

 私は自分の手首の時計を見た。

 五月十六日。時刻は十時五十五分。

 部屋に寂しげな雰囲気が漂い、しかしレイカが食事の話を始める。まずは何か食べてから、情報交換しましょうよ。ヒルタがすぐにやり返す。順序が逆だろ。カナエが少し笑みを浮かべている。カオリもだ。ササキは私の横で、そっと私の背中に手を当てていた。

 カナイさんが手を叩き、最低限の話は先にしましょう、と言う。

 私は今、こうして目の当たりにしている世界に、自分がどう影響したのか、それを考えていた。

 私はどんな未来を選んだのだろう。

 誰のための未来を選んだのか。

 一人の女の子のために私が選んだとして、それは正しいのか。

 正しいか、誤りかは、答えが出ないものだと、痛いほど感じた。

 全員が席に着き、私もそっと椅子に腰を下ろした。

 また日々が始まる。

 それは決断の連続だ。

 迷っている暇はない。

 全員を見回してから、カナイさんが話し始めた。

 自然と空気が少し、緊張した。



(続く)

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