求めるべきもの

     ◆


 組織の解体から半年が過ぎた。

 秋になろうかというあの時から季節は進み、冬が終わろうとしている。

 俺は群馬県の地方の警察署で、妙な立場で働いていた。

 現場に出ることもなく、かといって書類を作ったり決済するわけでもなく、フロアの隅にデスクがあり、たまに警官が俺の意見を聞きに来るが、それ以外はただパソコンの画面を眺めるだけだ。

 パソコンの画面には、その警察署の管轄下で起きた未解決事件のデータがあり、そこから何かを見出せ、というのが上司からの指示だった。

 俺とたいして歳の変わらない上司の、だ。

 未解決事件といえば聞こえはいいが、要はコンビニ強盗とか、車両の盗難とかで、ただ解決するきっかけがないようなものにすぎない。

 コンビニ強盗はそのうちに二件、三件と罪を重ねれば逮捕される可能性が上がるが、大抵は一件きりで、情報も増えることはなく、そのまま未解決になる。車両の盗難も、盗まれた車はどこかに消えて、情報収集しても何もわからない。日本のどこかか、そうでなければ外国にあるのだろうが、こちらも稀に発見され、そこから犯人の逮捕に結びつくことも極々稀にある。

 とにかくそういう、形だけの事件の情報の整理が俺の仕事で、部下もいない。

 歓迎会の時に声をかけてきた警官たちも、今では俺を飲みに誘うことはない。

 関わらない方がいい相手、と、いつの間にか俺は認識されている。きっと経歴がそうさせているのだろう。不自然な、上層部の息のかかった有能とも思えない警官。それが俺だ。

 妻と娘も群馬の片田舎に引っ越し、妻は仕事を見つけ、娘も転校した小学校には無事に馴染んだ。

 何も案ずることはないはずだ。

 そんな俺に一通のメールが来たのは冬の寒い時期で、そのメールはシドミ・レイカからだった。

 内容はスキー旅行の計画があるけれど参加しませんか、というもので、脈絡がないにも程がある。

 あまり多くは書かれていないが、要は昔の仲間が集まるのだろう。

 しかしどういうわけか、ご家族も一緒に、という一文が添えられていた。

 あまり家族を巻き込みたくないが、何かの意図がある集まりではない、ということをどこかに示すために、俺の家族もいた方がいいのだろうと考えるのが自然だ。

 半年で何もかもを忘れるほど、社会の裏側にいる連中は甘くはない。

 予定が調整され、娘が春休みになって小学校が休みの期間で、ついでに妻の仕事でも休みが取れる時期が選ばれた。

 電車で東京まで出て、そこからやはり電車で長野県へ。

 夜になって電車を降り、眠っている娘を背負って粗末な駅舎を出ると、そこではシドミが待っていた。

 待っていたが、どう見ても彼女の長い髪の毛は真っ赤に染められている。服装も以前のパンツスーツとは違い、どこかパンクをイメージさせる、ワイルドなものだ。

 そのシドミが妻に丁寧に挨拶をして、その素振りがあまりにも丁寧なので、ちょっと眩暈が起きそうなほどちぐはぐに見えた。

 そのシドミの運転する車で、家族三人、スキー場のすぐそばの旅館にたどり着き、遅い時間だったが、夕食が出た。娘を起こすと、いきなり自分が見知らぬ所にいることに驚きながらも、目の前の料理に興奮し始めるのが微笑ましい。

 食事、風呂、部屋に戻って布団に入り、しかし俺はどこか落ち着かないでいた。

 何かが起こるのではないか。しかし、何が起こる? ここを武装集団が襲撃する? まさか。そんな馬鹿な。

 翌朝、食事をする大広間へ行くと、すぐそばの席でシドミと若い女性が向かい合って食事をしている。

 誰かと思うと、キリヤ・カナエだった。彼女も髪型が変わり、服装も砕けたものになっている。前はモノトーンな印象だったのが、今は彩りが伴っている。

 何より、表情に前はなかった生気がある。今までのどこか無感情な様子とは違い、温かみのようなものがある。俺を見るとその顔に作っているのではなく、自然な笑みが覗いた。

 食事の後、俺たち家族三人で、スキーウェアを借りて、スキーの道具一式も借りて、ゲレンデへ出た。

 ゲレンデの雪は季節柄、薄くなり始めていて、一部はすでに閉鎖されているようだ。そこだけは所々、土が覗いている。

 娘がはしゃいで、妻と一緒にリフトで上へ上がっていく。

 リフトが二人乗りなので、俺はそのひとつ後ろを行くものに乗ろうとしたが、すぐ横に係員が進み出て、その係員自身があっさりとリフトに乗るではないか。さすがに俺も慌てたが、「お久しぶりです」という言葉と、その係員の顔に唖然とした。

 それはヒルタだった。日に焼けて肌は真っ黒で、どこか力強さがにじんでいるが、間違いなくあのヒルタだ。

「お前、こんなところで何をしている」

 リフトが宙に向かうので、俺の足もヒルタの足もすでに地面を離れている。

「俺、ここで働いているんですよ。もう冬の間、うんざりするほど客が来て、疲れました。ここ一週間でだいぶ落ち着きましたけどね」

 平然とそういうヒルタに、なるほど、こいつは民間に就職したんだったか、と思い出した。

 しかしなら、このスキー旅行の計画は、かなり周到だ。

 少なくとも試験班のシドミ、キリヤ、ヒルタ、そして自分が揃っている。

「まさかあのお人形さんも来るのかな」

「来ますよ。今日の昼間には来るはずです。例のササキさんが連れてきます」

「おいおい、これは同窓会か何かなのか?」

 かもしれませんね、と堂々とはぐらかすヒルタを追及しようというときには、リフトはゲレンデの上に着いている。スキー板で雪に降り立ち、ヒルタは俺を無視して上にいた係員へと歩み寄っていった。

 仕事の邪魔をするわけにもいかない。目立つだろう。

 妻と娘が待っているところへ滑って行き、三人でゆっくりと斜面を下りていった。娘は大喜びで歓声をあげ、妻も楽しそうだ。

 ここ半年、俺はそんな二人をほとんど見ていなかった。

 実際にはそれなりに楽しく生活しただろうが、俺自身が、俺一人だけが、ずっと憂鬱だったのだとこの時、はっきりとわかった。

 仕事を失ったわけではないが、仕事らしい仕事はない。

 東京での仕事の方が、決して表に出ないとしても、やりがいがあった。

 自分が何かをしていると、はっきりと実感できた。

 今の俺はどこか、飼い殺しにされて、腫れ物に触るような扱いを受けている。

 本当の能力を発揮することは、許されていない。

 昼間に旅館の一階にあるレストランで食事を済ませ、娘はまだ滑りたいと言い、それに対して俺は疲れていると笑ってみせてレストランに残ることにした。

 不満げだったのも短い時間、娘が元気よく外へ飛び出して行き、妻がそれを追いかけていく。

 そうして、俺は一人になり、テーブルに頬杖をついた。

「元気な娘さんですね」

 背後からの声にそちらをゆっくりと見ると、ニコニコと笑っているシドミがいる。服装はスキーウェアだった。でもやっぱり髪の毛は赤い。すぐ背後にキリヤもいる。彼女もスキーウェア姿である

 俺が答える前に、「お茶を持ってきます」と二人は離れていった。

 レストランに作業着の男が入ってきて、それはヒルタで、すぐ後ろに二人の女性。

 一人はササキで、もう一人は、本当にシンウチ・カリンだった。

 ササキは仏頂面で、対照的にシンウチは嬉しそうだ。ヒルタが二人に俺の方を指差し、そしてヒルタ自身は先ほどシドミとキリヤが向かった方に行ってしまった。お茶を取りに行ったようだ。

「お久しぶり、ワタライさん」

 斜め向かいの席について、すぐにシンウチが言った。

「いったいこの集まり、なんなんだ?」

 ほとんど反射的にそう言葉が口をついていて、シンウチからはニコニコしながら「同窓会みたいなものみたいです」と返事があった。

 少しして、シドミ、キリヤ、ヒルタが全員分のお茶を持って戻ってきた。

 六人でテーブルを囲む形になった。

 誰からともなく、それぞれの現状の報告が始まった。

 シドミは大学院に進学し、しかし今はアルバイトとバンド活動に熱中しているという。そのために髪を染めたと笑っていた。

 キリヤはぼそぼそと、しかしどこか嬉しそうに、名古屋にある大学に進学した、と打ち明けた。八十年代のポップカルチャーを研究したい、とはっきり言った。

 ササキはバックパッカーとして日本中を巡り歩いているが、それはほとんどシンウチのお守りで、シンウチが放浪しているのについて行っているようだ。

 シンウチは、日本中で見たいくつかの光景を楽しそうに語った。

 ヒルタはこのスキー場での日々を簡潔に、しかし情緒たっぷりに話した。

 そして俺は、警察での閑職を、正直に打ち明けることになった。

「それで、この集まりの意図だけど」

 シンウチが何気なく話し始めた。

「これから半年後くらいに、別の形で組織は再編されるはずよ。その時、さらに外部から人材を招くと思うけど、とにかく、ここにいる経験者が中核になる。そのことをはっきり伝えるために、集まってもらったのよ」

「組織が再編される?」

 思わず俺が確認すると、予定ではね、とシンウチがほがらかに答えた。

 そうか、組織が、また作られるのか。

 シンウチの話の内容は他の面々も初めて聞いたようで、いくつかの確認があった。

 組織の規模は以前と大差なく、ただ所属が変わる。以前は警視庁外事部外事課の中の一つの係だったが、今度は内閣総理大臣直轄の、本当の意味での秘密組織となる。

 組織の目的は、一般的ではない諜報組織などへの対処で、超法規的な権限が与えられる。

 予算は潤沢で、また以前のように省庁の間で押しつぶされることもおそらくない。

 こうなってくると、以前の組織は本当の試験の段階で、今度の組織が実際的な、本当の組織としてのスタートと思える。俺はそんなことを考えていた。

 話が終わると、スキーでもしようよ、とシンウチが言って、それでヒルタと俺以外は外へ出ていった。

「またあの日々が始まると思うと、なんとも言えませんね」

 すでに冷えているお茶の入ったペットボトルを傾けながら、ヒルタが嬉しそうに、楽しそうに言うのを、俺は黙って見ていた。

 奴はのほほんとしている。

「ワタライさんが一番大変ですよ。奧さんと娘さんの件がある。また引っ越させるのは、さすがに酷でしょう。しかしそうなるとワタライさんが一人で単身赴任になる」

「そうだな、前と変わらんさ」

 そう答えながら、視線は無意識に喫煙所がどこかを探していた。

 胸の内はまた別で、東京で秘密組織の一員だった時から、家族と自分の間には見えない壁があった、ということを思い出していた。

 なんの仕事をしているかは言えず、勤務時間も不規則で、生活のリズムは妻にも娘にも、どこか馴染まなかった。

 そういう意味では、群馬の日々は、言ってみれば家族との日々だったのだ。

 決まった時間に起き、仕事へ行き、帰宅する。

 朝食も夕食も家族全員が揃って食べ、仕事の話や学校の話をして、笑ったり、怒ったりした。

 家にいれば家族の存在が常に意識された。東京にいた時は、家に帰っても家族は寝ていて、朝も朝食もそこそこに家を出るか、妻も娘もそれぞれ仕事か学校へ行った後に一人で起き出して食事をしたりしたものだ。

 今の生活こそが、きっと正常で、安定していて満ち足りたもののはずだ。

 俺はそれを捨てようとしているのか。

 妻にも娘にも、俺という男はふさわしい夫でも父でもないと分かってきた。

 仕事が好きで、それに全てを傾け、犠牲をいとわない、酷い男だろう。

 誰が悪いわけでもない、とは言えない。

 悪いのは俺だ。

 少なくとも、俺だけは確実に悪い。

「ここで降りても、誰も文句は言いませんよ」

 真剣なヒルタの声に、俺は喫煙所を探す視線を奴の方へ向け直した。

 ヒルタは神妙な顔で、こちらを見ている。

「奧さんと娘さんに、ワタライさんが必要な気もしますけどね、俺には」

「誰でも考えそうなものだ。平凡な発想さ」

「ワタライさん、別に俺は何かを強制しませんよ。他の連中も、誰も何もワタライさんには強制しません。ワタライさんは自由に選べます」

 お前な、と俺は身を乗り出していた。

「俺はあの仕事をそれなりに楽しくやっていたよ。家族をほとんど無視してだ。今更、それに躊躇すると思うか?」

「でも今のワタライさんの顔、だいぶ悩んでいるように見えますけどね」

 どう答えることもできず、俺はじっとヒルタを見た。 

 そこへ声がして、そちらを見ると妻と娘がいる。娘が駆け寄ってきて、一緒に滑ろう、うまく滑れるようになったから、と俺の手を引いた。

 ヒルタの方を見る気にもなれず、俺はそのまま娘とゲレンデへ出て、半日ほど、ひたすら滑っていた。娘は子どもらしい無限の体力を発揮していた。

 夜になり、さすがに娘は風呂から上がるとすぐに眠り、俺も妻も休んだ。

 翌日、大広間で朝食となったが、もうシドミもキリヤもいない。ササキの姿もシンウチの姿もなかった。

 朝食が済むと、すぐに三人でゲレンデへ出た。無意識に仲間を探したが、もう誰の姿もない。ヒルタの姿さえも見つからない。

 もしかして昨日のことは、何か、夢みたいなものだったのか。

 俺は何らかの超能力で幻を見せられ、罠にはまったのか。

 組織は元に戻ることはなく、俺は今の暇な仕事を延々と続けるしかないのか。

 家族とともに、穏やかで、そこそこに満たされた、平凡な日々を送るだけなのか。

 昼食をレストランで食べた。スキー客が大勢いるが、やはり見知った顔はない。

 夕方まで滑り、夕食、風呂、娘は寝て、妻を残して俺は一度、外へ出た。

 夜でもゲレンデは明かりに照らされ、それなりの数の人はスキーやスノーボードを楽しんでいる。

 それを見ながら、俺はやっと見つけた喫煙所で、タバコに火をつけた。

「明日には帰るんですよね」

 闇の中から滲み出るように、ヒルタが現れたが、驚きはしなかった。

 ただ、あの会合は嘘ではない、ということがわかった。

 事実なのだ。

 これは現実だ。

「ゆっくり考えてください、ワタライさん。時間はまだありますから」

 そうだな、としか俺は答えなかった。

 ヒルタは本来の仕事らしい灰皿の掃除をすると、もう何も言わずに去っていった。現れた時同様、あっさりと奴は闇の中へ消えた。

 翌朝、旅館で手続きをして、また電車で東京へ戻り、そこから群馬まで帰った。

 娘は丸々二日、はしゃぎすぎたせいで電車の中ではほとんど寝ていた。

 その電車の中で、俺は妻から思わぬことを言われた。

 俺が群馬に引っ越してから、どこか覇気を失っている、というのだ。

 前は常にイライラして、不機嫌そうだったが、今はどこかしおれた花のようだと言われた。

 無気力で、前よりは穏やかにはなったけど、張り詰めてはいない、とも。

 どう答えたのか、俺は覚えていない。無難な、その場だけの答えをしたのだろう、と後になって考えが及んだ。

 とにかく、俺たち一家は群馬へ戻り、元の生活が再開された。

 警察の無意味な仕事、家庭での穏やかな日々。

 気力が確かに見当たらない、淡々とした、虚しい日々。

 やはり俺は、東京へ、あの仕事に戻りたいのだろうか。

 いつの間にか季節は完全に春になり、桜が咲き、散っていく。

 時間は確かに流れている。

 俺は朝食の席で、家族とともに食卓を囲んで、しかし考えているのは、未来のことだった。

 俺ができること。

 俺がやりたいこと。

 俺に求められること。

 いったい、何が正解だろうか。



(続く)

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