エピローグ



 あの人の足音がした。


 「白」の居住階に訪れるなんて、今までなかったことだ。エーリュミルはそう思いながら音を立てずにそっと寝そべっていたクッションから身を起こした。気配を消してこっそり、あの人を見に行くためだ。


 歴代最年少の賢者様だとか転移術のメル様だとか、叡智の愛し子様だとか……彼には色々な肩書きがついて回っていた。しかしエーリュミルにとってのあの人は「シラ・ユール・ジャールウェン」、つまり星の本の作者なのであった。


 月の塔での暮らしは実につまらない。森にも週に一度、地の日にしか出してもらえないし、周囲は石の壁に囲まれている。窓は染み出してくる地下水でいつも濡れていて、ほとんど外なんて見えない。周りは人間ばかりで、成人してからこちら、自分の部屋で暮らすようになったせいで両親も日に一度くらいしか抱きしめてくれなくなった。特に父は……花の妖精だというのにあまり花を愛でる様子もないし、たぶん少し変わっているのだろう。


 あんまりつまらないからか、一時期、心が全く動かなくなったことがある。森に行きたくもならないし、食事にも興味が湧かないし、何もする気にならない。ただただ薄暗い世界を見つめて、いつまでこれが続くんだろうとぼんやり考えるばかり。


 今よりもう少し幼かったそんな時に、塔の図書室で見つけたのが星の本だ。その時は研究のための資料を探していただけだったけれど、しっとりした深い紺色の背表紙と『星の書』という美しい題名に目を留めて手に取った。


 そしてその本を開いて、エーリュミルの世界が変わった。


 他の何もかもを忘れて夢中で読んだその夜、魔法で外側の水気を吹き飛ばして、窓から空を見た。月の塔の上層階は人工天の魔術の中だ。漆黒の夜空の中、キラキラした白い光がすぐ目の前に散りばめられて、ちらちらと優しく瞬いていた。視線を動かすと透き通るような青い星があって、そしてじわりと滲むように赤い星もあった。


 人工天の星々に色合いが増え、星座が描かれ、静かに瞬くようになったのはつい数年前なのだと、エーリュミルはその本で既に知っていた。「星の賢者」の名を授かった作者が塔で研究を重ね、魔力消費を抑えて星空を美しくする術を編み出したのだと、そんなことがちらりと書いてあったのだ。


 次の日、エーリュミルは胸をときめかしながら、御用聞きに訪れた鷲族の妖精混じりに頼んで、星の本を自分用に一冊注文した。それが届くのを待ちながら、図書室で天文学の本を読み漁った。地上の星の話や、人工天の研究の話もだ。すっかり憧れの作家になってしまった星の人がどんなことをしているのか、知りたくて仕方がなかった。


 そして届けられた本を受け取って、エーリュミルは震えた。なんと、「白」の依頼だからということで初版本を手に入れ、それもわざわざ塔を訪問して賢者本人にサインをもらってきてくれたのだそうだ。


 表紙を開くと、少し傾いた神経質そうな字で「エーリュミルへ シラ・ユール」と書かれている。それもヴェルトルート語とリファール・エルフ語のふた通りだ。彼の手で自分の名が綴られているのを見ると心がむずむずして堪らず、一度本を閉じて胸にぎゅっと抱きしめた。それからパラパラとページを捲り、この本の字が専門の写本家を通したものではなく、作者自身の字でそのまま魔道写本されたものだと知る。挿絵画家の署名もないので、時折入っている天文図や道具のスケッチも、おそらく彼の手によるものだ。絵も描ける人なんだと思って憧れが募り、弾む足取りで寝台に向かうと枕元にそっと本を設置した。


 毎晩、寝る前に読もう──


 そう考えて、数年ぶりかもしれない微笑みを浮かべる。


 つまらなくて耐え難い月の塔の暮らしは、こうして彩りを取り戻した。こんな場所に閉じ込められているのは今も窮屈だと感じるし、抱きしめ合える温もりが欲しくて泣きそうになる時もあるが、それでも空を見れば心が癒される、エーリュミルの人生はそんな日々に変わったのだ。


 そんな星の本の作者が今、扉を挟んですぐの廊下をこちらに向かって歩いてくる。時々足音が止まるので、おそらく部屋の前の名札を見て誰の部屋か確かめているのだろう。どうやらこの階の誰かに用事があるらしい。いつも広間の端からそっと覗くだけなので、こんなに距離が近くなったのは初めてかもしれない──いや、違う。エーリュミルが覚えていないくらい幼い頃には、どうやら彼とは手を繋いで一緒に薔薇を眺めたこともあるらしい。父からそう聞いた時には飛び上がって喜んだが、しかしそれを聞いたからといって、彼に親しく話しかけるなんてとてもできない。あんな素敵な文章を書く人だ。恐れ多いし……とても恥ずかしい。


 エーリュミルは頰を赤らめてそわそわしながら、自室の扉からそっと距離をとった。星の本の人はおそらく父の部屋か、人工天の研究者アトアか、地底植物学のウツファか、そのあたりを訪ねるのだろう。どの部屋へ行くにしても、エーリュミルの部屋の前を通る。本当に扉一枚挟んだだけの距離まで近づくなんて、無理だと思った。きっと緊張で震えてしまって、物音を立てて、こっそり様子を伺っていたのが知られてしまう。とても人嫌いだという彼がそんなことを知ったら、きっとエーリュミルのことがとても嫌いになるだろう。それは絶対に──


 コンコン、と扉が優しく叩かれて縮み上がった。どうやら彼は部屋を間違えたらしい。すぐに扉を開ければ会える。でも、恥ずかしい。でも、でも、どうしよう……!


「……エーリュミル?」


 低い声が、小さく自分の愛称を呼んだ。頭が真っ白になって、何も考えられないまま歩くと扉を少しだけ開けた。細い隙間から黒い瞳が覗いて、怪訝そうな顔がふっと微かに緩む。目を奪われたように、視線がエーリュミルの纏う「星」、つまりキラキラした魔力の光を追っている。普通のエルフより魔力が多いらしいエーリュミルは、父や母より星の量がずっと多かった。普段はどうも思っていなかったが、今はそのことに歓声を上げたくなる。と、その時彼が口を開いた。


「時間はあるか? 話がある」


 話がある? 自分に? シラ・ユール・ジャールウェンが?


 わなわな震えながら扉を大きく開けて一歩下がると、髪も瞳も服も全部黒い、影のような人が礼儀正しく胸に手を当ててから部屋に入ってきた。近くで見ると、エーリュミルよりずっと背が高い。それでも父や母に比べるとかなり小さめなのだが、このくらいだと見上げるのに首が痛くならなくて素敵だなと思った。


「……誰?」


 その時そう、小さな声で尋ねたのはエーリュミルではない。部屋で育てているハルマラナの鉢植えだ。やわらかな薄紅色の蕾をつけた綺麗な植物で、野生のものは花の言葉で話しているが、丁寧に教えてあげればエルフ語でも少しだけ話すのだ。


 シラ・ユール・ジャールウェンは、その声を聞いて興味深げに窓辺の鉢を見つめると、近寄って少し屈み込み、小さな声で「……エルフ語で話したな」と呟いた。


「……誰?」花がもう一度繰り返した。

星の賢者ファレーリア•シールファーラ」星の本の人が綺麗なエルフ語で答える。

「……ファレールつたなく花が言う。

「ファレール」憧れの作家が丁寧に頷いてそれを肯定した。


 花と会話する淡々とした、しかしどこか優しい声を聞いていたエーリュミルは、両手を持ち上げてそっと長い耳の端を引っ張った。なんだか耳の奥が熱いような、耳から流れ込んだやわらかな何かが胸を焦がすような、不思議な感じがした。奇妙な感覚が不安になって、気を紛らわそうと花を観察している憧れの人を見つめると、黒い瞳から魔力が抜けて少しだけ灰色がかった優しい色に光っているのに気づいた。ぎゅっと心臓のあたりが痛くなって、耳から手を離すと胸を押さえた。息が苦しい。そして苦しい胸から痺れるような何かが全身に広がって、魔力に蜜が混ぜ込まれたように、何もかも甘く感じる。焦げた砂糖のように、全身がじりじりと甘い。


 ああ、星に生まれたのなら良かったのに。


 エーリュミルは突然そう思って、そしてその考えに深く囚われた。星の賢者が愛する星に生まれていたら、エーリュミルも彼に愛してもらえたのに。ああ、星になりたい。彼の星になって、彼の愛をこの身に受けたい。


「……何だそれは」


 振り返った星の君が不思議そうな顔をして、エーリュミルの足元を見つめていた。視線を追って見下ろすと、石の床からみるみる小さな銀色の花が咲いて、部屋中に花畑を広げているところだった。


「……これは」


 愛の花だ。一生に一度の大切な恋を授かったエルフは、魔力が花の形を取るようになる。どうやら自分は憧れていた「星の本の人」を間近で見て恋に落ちてしまったらしいが、しかし、この数は──


「……なんでもないよ」


 息も絶え絶えに首を振った。本来ならば、例えば愛する人と口づけをした時に一輪だけひっそりと咲かせるような、そういう特別な花だ。一目見ただけで花畑が広がって、しかもそれを引っ込められないような、そういうものでは決してない。あまりにも恥ずかしくて、エーリュミルは内心身悶えした。世界中の誰よりも物知りな彼がこれを知らなかったことは幸運だった。多くのエルフが人間をひどく嫌っていて、一族の情報を外にはほとんど漏らさないことに、初めて感謝した。


「美しいな……」


 感嘆したような静かな声がした。花を見つめた彼の唇の端が、よくよく見るとほんの僅かに持ち上げられている。



 笑った。

 それも、エーリュミルの愛の花を見つめて、微笑んだ。



 感極まってふらりとした。頰と耳の先がどんどん熱くなって、立っていられずにしゃがみ込む。


「……体調が悪いのか」


 問いかけるようなそうでもないような口調で星の人が言って、黒い影が隣に膝をついた。冷たい手が額に当てられて、そこから甘い痺れが広がる。腰がくだけて床にへたり込んだ。


「熱が高いな」


 独り言のようにそう言って、右腕の下に黒いローブの肩が差し込まれた。そのまま少し持ち上げるように力が掛けられ「歩けそうか」と尋ねられる。力なく首を振った。むしろ一人ならば歩ける気がしたが、こんなに密着していたらとてもではないが力が入らない。


 すると星の君は姿勢を変えて膝の下に腕を差し込み、かなり無理をしている感じによろめきながらエーリュミルを抱え上げた。小さく呻いて「首に、首に掴まりなさい。早く……!」と必死な声で囁き、息を止めたまま慎重に寝台代わりのクッションの山へ近寄ると、ほとんどつんのめるようにエーリュミルをそこへ落とした。背中の下に枕を詰め込んで座らされ、そして抱き上げられてしまった衝撃を消化する間もなく、首筋を触られたり、口の中を覗き込まれたり、胸に手を当てて心音を聞かれたり、色々されてしまった。


「脈が速いが、私が怖いか?」

 水を渡されながらそう尋ねられて首を振ると、ふらっと目眩がした。どうやら本当に熱が出てきたようで、頭がぐらぐらした。

「そなたの家族を呼んでくる。その後、解熱剤を処方しよう。話は熱が下がってからだ」


 星の君がさっと立ち上がって背を向けた。それが寂しくて手を伸ばしたが、彼は気づかずに部屋を出て行ってしまう。すぐに心配そうな両親が部屋に駆け込んできて、そして床一面の花畑を見て目をぱちくりすると、後ろから追ってきた賢者様と花を何度も見比べ、そしてこの上なく嬉しそうににっこりした。顔から火が出そうだった。


「具合が悪そうだから……薬は、口移しで飲ませてあげるといいよ」


 父が言った。母が重々しく頷く。渡されたグラスから自分で水を飲んでいるエーリュミルをちらりと見た星の君が、「……は?」と不可解そうに眉をひそめた。両親は「よろしくね」と言って部屋を出て行き、星の君はそれを眉間にしわを寄せたまま見送って、ため息をつきながら机の上に調合道具を並べ始めた。


 結論から言うと、口移しでは飲ませてもらえなかった。正直に言えばかなり期待したが、しかしそうされてしまえば自分は確実に気を失っていただろうから、これで良かったのかもしれない。


 けれど、良い知らせもあった。少し体調が落ち着いてから彼が聞かせてくれた説明によると、驚くべきことにエーリュミルは神託によって「剣の仲間」に選ばれたらしい。要するに勇者様の仲間として魔王を倒す旅に出なければならないのだが、なんとその旅はこの賢者様も一緒だというのだ。


 大好きな人と一緒に地上の森を旅するなんて、なんて素敵なのだろうか。きっと森には果物がたくさん実っていて、竪琴の弦をかけるのにふさわしい木もたくさんあるだろう。彼に特別甘い果物を渡して、そして春先の特別星が綺麗な夜には、とっておきの歌を歌ってあげよう。


 そうしたら彼は自分を好きになってくれるだろうか──そう考えて、エーリュミルは自分を「魔法使い」と呼んだ愛しい人の声に、小さく「よろしくね、賢者」と応えたのだった。



〈了〉









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白い満月と数多の星々 綿野 明 @aki_wata

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