九 星の賢者



 目を覚ますと、既に夕暮れ時だった。嘘だろうと思って馬車の戸を開けると、大人達三人は焚火の前に座って棒に刺した何かを楽しげに炙っている。


「あ、おはよう。シラちゃんも食べる? 焼きマシュマロ」

「マシュマロ……」


 浄化した生の卵白で作るフォーレスの菓子だっただろうか。手渡された枝をまじまじと見てから口にすると、丈夫な泡を食べているような不思議な食感だった。


「好き?」

「ええ、まあ」

「あ、ほら。一番星だ」


 ファロルの言葉に真上を見上げると、穴から見える夜空の端にひとつ、金色の星が輝いていた。ハッと息を呑んで、吸い寄せられるように見入る。


「一等星イダだ」

「……あれが、星」


 星の「瞬き」と言うが、言葉の印象から想像していた点滅具合とは全く違う揺らめきだった。例えるならば梢の向こうに見える明かりが風でチラチラと見え隠れするような──いや、それをずっとやわらかくぼかしたような、まるで星が生きて呼吸しているような光の揺らぎだ。


「先に夕ごはん食べちゃいなよ。完全に日が沈んだらもっとたくさん見えるようになるよ」

 ファロルが言う。シラ以外の皆はもう食べ終わっているようで、空の食器を膝に乗せて和やかに談笑していた。


「……宿は」

 ふと思い出して尋ねると、賢者が「君が眠っていたからな、今夜も野営になった」と言う。

「すみません」

「少々術の加減を誤ったのは私だ。まあ、天体観測には明かりのない森の方が向いている。むしろ好都合だろう」

 賢者はそう言って青いマントの前をかき合わせ、寒そうにフードを被った。

「君もマントを着ておきなさい。この辺りの夜は冷える」

「……はい」


 確かに、熱を遮る岩盤がないからか、大穴の真下は夜になるとかなり冷え込んだ。渋々、本当に渋々黒いマントを着て、可愛らしい星型の金具を留める。よく見ると裾にも小さな星の真鍮ボタンが並べて縫い付けてあった。


 馬鹿馬鹿しい意匠のわりに生地は厚くてあたたかいマントを巻きつけて、空が藍から黒へすっかり変わった頃、賢者とふたり焚き火の明かりのそばを離れて木立の向こうの湖畔へと移動した。縮尺の小さな地図には載っていないような湖だが、こうして目の前にすると十分広く、凪いだ水面には見逃してしまいそうなくらい細い細い月が映っていた。


「この辺りにしよう」

 賢者が言って、比較的平らな岩に腰掛けると鞄の中から観測道具を取り出し始めた。シラもそれを手伝おうと頭の端でぼんやり思ったが、しかし体が動かなかった。彼は魔法で動けなくされたかのようにその場に立ち竦み、瞬きも忘れて天の大穴を見上げていた。


 この世界に、こんなに綺麗なものがあったなんて──


 物語ではよく宝石箱に例えられる満点の星空だったが、シラの見つめるそれはそんな風に楽しげで華やかな輝き方はしていなかった。青白くか細い、しかしなぜか眩しく感じる小さな光が闇の中で無数にきらめき、息づいて、音もなく降り注ぐ。星の光を浴びると、神の祝福を浴びているような気分になった。何かそういう、理屈では説明のつかない美しく崇高なものに見えた。青白い光はよく見ると特別白いもの、青味が強いもの、じわりと赤いものがあった。


 ひとときも目を離したくなくて、溢れる涙を片目ずつ交互にハンカチへ吸わせてから、シラは掠れた声で言った。


「今夜は……なぜ、満月ではないのでしょう」

「月明かりの弱い日を狙ったからだ。空が明るいと星は見えづらい。満月が見たかったのかね?」

 賢者が言った。緩く首を振る。

「私が月の塔を目指していた頃……印象的な夜には、必ず空に満月があったから」


「……これからは何を目指す?」

 賢者が静かに尋ねた。正しい答えを出せるか試すような神殿の人間の声と全く違う、純粋にシラの望みを知りたがっている声だ。


「星を描く課題と……天文学の研究がしたいです。あの、遠く手の届かぬ光に、もっと近くで触れたい。知識だけでも、そばへゆきたい」

「ならば、君にとっての美しい光が月光から星明かりに変わったのは、ひとつ良いことではないかね」

 賢者が言った。黙って頷く。


「『星の賢者』にするか?」

 囁くような小さな問いかけ。


「……称号ですか?」

「いかにも。私は書物を愛し、その保存に情熱を傾けるが故に『書架の賢者』の称号を、先代に与えられた。君は『白薔薇』にしようかと思っていたが……星にしておくか?」

「それがいいです」

 問う声の末端に食い込む勢いで答えると、賢者はふっと笑って「では、そうしようか」と言った。


「君が一度取り戻したアルクの姓を捨て、賢者としてラビナを名乗るようになれば──」

兎の耳ラビナ?」

 思わず遮って尋ねると、師は首を振った。

「いや、綴りが違う。この場合は迷宮を示す古語だ」


 そしてなるほどと頷いているシラに言う。

「君は本当の意味で何にも縛られず、自由になれる。神殿による監視はあれど、それに強制力はなくなると考えて良い。賢者とはそれだけの力を持つ存在なのだ。故にシラよ、何にも縛られぬからこそ、賢者は人のために在らねばならぬ」

「私に……人のために生きるなんてことが可能でしょうか。私は大抵の人間とは上手くやれなくて……叶うならばひとりきりで、誰にも関わらず生きてゆきたいのに」


 頭上の星から目を離して賢者を見つめると、彼はなぜかすごく優しい顔をした。

「君は人と顔を合わせ、手を伸ばして触れ合うことが苦手なだけだ。関わりとは物理的なものに限らぬ。君は読書が好きだろう。人の思考に触れ、人の心に触れる行為だ。それを喜んでできる君は、もしかすると誰よりも人と深く関われる、或いは愛し合える存在であるかもしれない。……声や視線でなくて良い。本でも、論文でも良い。壁越しで構わぬと思えばどうかね? 港の灯台が円筒型をしているのは、賢者の塔を模しているのだという説がある。誰の味方にもならず、誰の敵にもならず、ただ塔の上から遠くの誰かの暗い道へ光を投げかける、そのような存在だ。私は、君にこそ向いた仕事だと思っているが」


 そして続けて言う。

「あの闇に包まれた地下の審問室へ入った時、君は小さな根の装束の子供を抱え、うずくまっていた。誰かを盾にするのでなく、君自身が盾にならんと、蒼白になって震えながらそうしていた──シラ、君はそのまま大人になりなさい。人見知りのままで良い、潔癖のままで良いから、いざという時に人のために動ける人でありなさい。その気質さえ見失わなければ、君はきっと、英雄を導く賢者になれる」


 人嫌いで神経質な自分の性格を師がそんな風に見ていたと知って、シラはうっかり泣きそうになって息を止めた。顔を見られたくなくて、さっと星に目を奪われたように大穴の向こうを見上げる。


「──おや、見なさい」

 しかし賢者が突然息を殺してそう言ったので、シラはどうにか涙を堪えて振り返った。湖を示す指先の向こうに目を走らせる。


「……あれは」

 白い大きな影がすうっと滑空して、こちらへ舞い降りてくるところだった。

「白鳥だが……魔力の気配が強い。突然変異個体だろうか」


 賢者が囁いたその時、湖の上を滑るように飛んでいた白鳥からふわりと青白い光が放たれた。すると白鳥の後を追うように、星空の映った水面が白く凍ってゆくではないか。星の光と細い月明かり、白鳥の放つ魔力の明かりに照らされて、深い濃紺の湖が神秘的な銀青色に塗り替えられる。白鳥は幽かな水音を立てて着水し、数えきれない星が映った水面がゆらゆらキラキラと波紋を描いた。


「……妖精の国に、来たかのようです」


 そう言うと、賢者もそっと頷いた。白鳥は優美に振り返ると自分の作った氷の上に上がって、そこで眠るつもりなのか羽の間に嘴を突っ込んだ。が、薄い薄い魔法の氷はすぐに溶けてしまい、そのままの形で水にぷかりと浮かぶ。と、後から追いかけてきた群れの仲間が次々に着水し、揺らされて目覚めたらしく皆と湖畔の方へ泳いで行った。


「魔力持ちだが、知能は高くないようだ」

 賢者がそっと呟き、シラは笑いそうになったのをフードを被ってごまかしてから、耳の存在を思い出して慌てて背中に脱ぎ落とした。





 灰色の塔に帰ってからのシラは、人が変わったように思考が冴え渡るようになった。いつも隅の方がどこか苦くて痛かった「研究」という川を渡る作業が、まるで虹の橋を架けられたかのように楽しくて、魅力的で仕方がない。毎朝起きる度に新しい可能性を思いつき、実験をする度に世界の真実を紐解くような──あの星々を見てからのシラの胸には、いつも消えることなく憧憬があった。いつかシラが神殿から本当に自由になって、地上の世界に行くことができたら、今度は流星雨を見てみたい。地底と違って三十二もある月々の満ち欠けをくまなく観察して、日蝕と月蝕にも出会いたい。名もない星に名を与え、宇宙の真実へ誰より近づきたい。


 叡智の祝福とは、そんな夢と好奇心に満ちている時にこそ真価を発揮するものであったらしい。自分でも信じられない発見の連続でシラは二年と経たずに人工天の星の陣を描き上げ、ヴェルトルートの夜空の星はちらちらとやわらかく瞬き、季節の星座を描き、一等星は強く五等星は暗く、変化をつけて輝くようになった。書架の賢者が与えた課題は達成され、シラは十八歳にして、歴代最年少の賢者として戴冠することになったのだ。


 冬の祝祭の日、星の輝く新月の夜に、風の丘と呼ばれる地でひっそりと戴冠式は行われた。真夜中に小さな魔法の明かりをひとつだけ灯し、立会人は師弟を乗せてきた二頭の馬のみ。いつもと違って細い銀の輪を額に嵌めたアトラスタルが静かに言った。


「真昼に夜を呼ぶ日蝕環を、汝に譲る。見通す者、シラよ。星の賢者として、その使命を果たせ」


 シラは星明かりに鋭く光る師の青い瞳を見つめ、厳かに答えた。

「叡智の神エルフトに誓います。私は賢者として、決して何者にも縛られず、決して何者をも縛らず、その叡智を惜しまず分け与え、暗雲の彼方に星を見出す者となることを」


 書架の賢者が額の輪を外し、少し考えて術でさっと浄化してから、星の賢者の額にそれを嵌めた。澄んだ風が吹き、星が瞬いた。月の塔の誰かが陣に触れたのか、すうっと尾を引いて星がひとつ流れた。


「……そこまでしてくださらなくても」

 シラが苦笑いになって小さく言うと、アトラスタルは首を傾げて言った。


「しかし君、先日月の塔の天文学者と握手をした後、こっそりハンカチで拭いていたろう」

「あれはあの人の手が汗ばんでいたから」

「そうか」

 師は少し眉を寄せながら仕方なさそうに笑い、一息つくと、シラの描いた星で一杯の夜空を見上げてぽつりと言った。


「……無事君に日蝕環を譲り渡したことだ。引越し先を探し始めるとするかな」

「出て行ってしまわれるのですか?」

 てっきり、彼が死ぬまで一緒に住むものだとばかり思っていた。急な別れの宣告におろおろしていると、アトラスタルはにやりと笑う。


「ずっと地上に住みたいと考えていたのだ。美しい朝焼けの見える場所に図書館を立て、思う存分意匠を凝らした書架を並べ、人に知識を分け与えながら、書物のことだけを考えて暮らす。君が大変に優秀であったので、想定よりずっと早く夢が叶いそうだ」

「先生、それは、いつ」

「そう寂しがるな。少なくとももう三年は塔で暮らす予定だ。君の保護観察があるからな」

「……そうですか」


 詰めていた息を吐き出すと、アトラスタルは馬を繋いである方へ向かってゆっくり歩き出しながら、話を逸らすように尋ねた。

「ところで、本の方の調子はどうかね?」

「原稿はもう完成しています。出版組合へ渡す前に、一度目を通していただけますか」

「うむ」


 すっかり星に夢中になったシラは、課題をこなす傍らで天文学の入門書を執筆していた。題名は『星の書』、夜空に憧れる者が星々の美しさをより深く知ることができるような知識と、はじめに手に入れるべき観測の道具、天文記録の付け方などを記した書物だ。著者名は、迷いに迷って「シラ・ユール・ジャールウェン」とした。ヴァスルにもらった「ナーソリエル」を入れようかとはじめは考えたが、しかし賢者が眷星名を名乗る行為は「何にも縛られぬ」という誇りにもとるものであるし、何よりその名は……毎日眺めて思い出すのにまだ少し傷が深かった。


 故にその代わりとして、半ば衝動的に「ジャールウェン」に決めた。父に与えられ、神殿を出たことで戻ってきた長い自分の名の一部で、シャラウィナという名の男性名だ。「水の賢者シャラウィナ」といえばアトラスタルの師であった人であり、シラの愛する浄化術を簡略化し人々の生活に落とし込んだ人物──そしてこれはあくまでも、あくまでも偶然でしかないのだが──愛称はシャルだった。





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