十四 別れと出立



 神殿に住まう神官に、本当の意味での私物というのはあまりない。部屋の中のものは大抵次の入居者がそのまま使える共有物であるし、論文や研究資料も皆で共有する神殿の持ち物ということになっているのだ。故に荷物を纏めろと言われたが、ナーソリエルは自分で刺繍したハンカチを数枚ポケットに詰め込むのと、リュートの鞄を大小ふたつ背負うくらいしかすることがなかった。もう少し前なら「秘密の研究資料」がたくさん隠してあったのだが、ヴァスルに聖典を没収された段階でマソイと話し合って全ての内容を頭に叩き込み、纏めた紙の方は焼却処分していた。


 部屋を出ようとして立ち止まり、七年近く暮らした部屋をもう一度だけ振り返る。狭いが内装は美しく、小綺麗で、共同生活の苦手なナーソリエルにとって、この場所だけが心から安らげる場所だった。


 皆に別れの言葉を告げられないのが心苦しいと考えて、自嘲混じりに笑う。事あるごとに嫌いだ嫌いだと考えていたくせに、案外自分はこの場所の閉ざされた人間関係も気に入っていたらしい。


 寝室塔の階段を下りて、真夜中の庭園に出る。奇しくも今夜は満月で、明るい月光が月桂樹とラベンダーの庭を静かに照らしていた。どうも自分にとって印象的な出来事が起こる日は満月が多いと空を見上げて、ナーソリエルは考えすぎかと足元に視線を戻した。神の目が開く満月の夜は魔力が高まるという古い言い伝えがあり──惜しみなく降り注ぎ照らすその白い光が、あの真っ白な月の塔と自分を結ぶ光の道筋のように思えるから、つい気になって心に残ってしまうのだ。


 コツコツと白い飛び石を踏んで、水の神殿へ向かう。神殿にその名を預ける神官達は、治療院ではなく水の塔の部屋に入院することになっているのだ。最後にもう一目、ヴァスルに会ってゆくつもりだった。


 白薔薇の咲く庭を抜けて回廊へ入り、重い扉を開けて階段を上る。病室が並ぶ階の入り口で、夜番の神官がにこっとして会釈した。本来なら面会は許されない時間であったが、院長から特別に許可をもらっていた。


 そっとノックをすると、中から「はい」と答える声がある。目を瞬いて戸を開けると、そこにいたのは意外にも医師の資格を得た枝神官ではなく、少し疲れた様子のファーリアスだった。


「ファーリアス」

「先程、すこし目を覚ましましたよ」


 ナーソリエルには逆立ちしても真似できないような慈愛に満ちた声で、少年が言った。転げるようにそばへ寄ると、不思議な水の寝台に寝かされたヴァスルは、今は目を閉じて眠っている様子だった。


「……彼は」喘ぐように問う。

「目覚めてすぐ『ナシルは無事ですか』と。私の知る限りの状況をお伝えしたら、安心してまた眠りにつきました……なによりもまずナーソリエルの心配ができる人ですから、すぐに元気になってくれると思います」

「……そうか」


 寝台の横に跪き、胸に拳を押し当てて神に感謝を捧げた。あの時ナーソリエルにひらめきを授けてくれた気の神と、賭けに等しい危険な治療を成功させてくれた水の神、彼の命を繋ぎ留めた地の神、フラノに加護を与えてソロから守ってくれた火の神に。


「……ヴァスル、すまない」

 そしてこぼれ出るように、そう呟いた。涙で掠れたのが恥ずかしかったが、ファーリアスは笑ったり心配したりすることなく、彼を放っておいてくれた。


「そなたの最も愛する音楽を、私は奪ってしまった。恨んでくれて構わない。構わないから……どうか、どうか絶望せず、幸福に生きてくれ」

「……私はどちらかというと、風の竪琴が聴けなくなってナシルが泣きじゃくるんじゃないかと……そちらの方が、心配ですけどね」


 痛々しく枯れた囁き声が聞こえ、息を呑んで顔を上げた。ヴァスルが薄く目を開いて、毛布から重そうに片手を出し、ナーソリエルの頭にポンと乗せる。


「ヴァスル!」

「ナシル……私は竪琴と同じくらい、リュートも好きですから。幼子のように目をキラキラさせて、はしゃいでいるのは……貴方だけですよ」

「嘘だ。そなたは……そなたは」


 人生の全てをつぎ込めるくらい愛しているからこそあんな音色が出せるのだと、ナーソリエルは知っていた。言葉が続かずに肩を震わせると、ヴァスルは「あの毛を逆立てた猫のようなナシルが、ずいぶん懐きましたね……」と微笑む。


 するとその時、静かに話を聞いていたファーリアスが枕元の椅子から立ち上がって口を開いた。

「ヴァーセルス、二度と弾けないなんてことはありませんよ」

 ナーソリエルが勢い良く振り返り、ヴァスルが不思議そうに少年を見る。

「ナーソリエルが編み出した治療術は、既に水の中で研究が始まっています。それに、私は細かい紋様を描くのがとても得意ですから、練習すれば小さな魔法陣も簡単に描けるようになるはずですよ」


「ファーリアス、希望的観測で期待を煽るのは」

 ナーソリエルが諫めようとすると、ファーリアスはきっぱり首を振った。

「私がなんとかして差し上げます。もちろん、完全に元の通りとはいかないでしょうが、少なくとも訓練すれば自在に楽器を鳴らすくらい、できるようにしてあげます。絶対です。オーヴァス様が、私にならできると、そうおっしゃっていますから」


 水の愛し子が、自慢げに、焦がし砂糖色の瞳をきらりとさせてそう言い切った。理由はわからないが、馬鹿なことをと言い切れない力が彼の言葉にはあった。ヴァスルがそっぽを向いて目元を押さえ、ナーソリエルは無言でファーリアスに歩み寄ると、小さな茶色の頭を引き寄せてぎゅっと抱きしめた。少年がきゃっきゃと喜び、ヴァスルが「おやおや」と呟く。


「……ヴァスル。私は賢者になって……いつか、この償いを必ずする」

 そしてナーソリエルはおずおずと、小さな声で言った。

「そんなことより楽譜の一枚でも送ってくださいよ。貴方の作る曲、割と気に入ってるんですから」

 喉が慣れてきたのか段々と滑らかに話しながら、ヴァスルが笑った。


「それにしても賢者様の弟子とは。良かったですね──お元気で、ナシル」

「ああ、ヴァスルも……ファーリアスも」


 二人の顔を順に見て、少しだけ泣くのを堪えながら指先を揃えて胸に手を当てた。リュートの鞄を背負い直し、涙ぐんでいるのを見られないよう急いで病室を出る。


「──ナーソリエル!」

 しかし少年がパタパタと追いかけてきた。

「本当に……本当に行ってしまうのですか?」

 素早く何度か瞬きしてから振り返ると、青く光る両目に涙をいっぱいに溜めたファーリアスがしがみついてきた。どうやら、患者の前では泣くのを我慢していたらしい。


「ああ」

 震える子供を見下ろす。離れがたいようにトーガを握りしめる小さな手を見ていると、訊くはずのなかったことをどうしても尋ねてみたくなった。


「……そなたもここを出るか、ファーリアス。常ならば難しいが……賢者の弟子として共にゆくと言うのならば、私がなんとかしよう」

 ここに置いていくのが心配であったし、この明るくて人懐こい生き物を連れてゆきたいと、今はほんの少しだけそう思った。しかし、言ってみただけだ。答えはわかり切っている。


「いいえ、私は残ります……神殿が何かおかしいということはわかっていますが、それでも、ここは神に仕えるための場所だと思うのです。たとえいつか最後のひとりになったとしても、清浄な祈りをオーヴァス様に捧げていたいと……そう思っています」

 案の定少年はそう言った。彼にとって祈ることはそのまま神との対話でもあり、医師として病める者や苦しむ者を救うということでもある。そう簡単に夢を手放すはずがなかった。


「美しい決断だが……今後そなたが必要だと感じればいつでも、森の塔へ逃げ込みなさい。神殿前の小道を走ればすぐだ」

 往生際も悪くナーソリエルがそう言うと、ファーリアスは涙を拭いながらこくんと頷いて、そして小さな声で「もう一度だけ……シャルって呼んでください」と言った。


「シャル、いつかまた」

「ナーソリエルも、怪我をしたら治療院に来てください。小さな傷でも」

「そうだな」


 頷いて、背を向ける。しかし余程の大怪我でもしない限り、自分は彼の元へ足を運ばぬだろうと、ナーソリエルは思った。保護観察期間が終わり、自由に賢者の塔の外へ行けるようになって──完全に疑いが晴れるまでは、誰とも懇意にするべきではなかった。神殿の医師として生きることを望むファーリアスの未来のために、ナーソリエルは去らねばならなかった。


 月光に青く染まった回廊を歩き、静まりかえった中央庭園に出る。杖に寄りかかって待っていた賢者に借り物のマントを差し出すと、「塔へ着いてから渡しなさい」と素っ気なく言われた。彼は馬でここまで来たらしく、乗馬はできるなとナーソリエルへ尋ねながら、厩のある火の神殿の方へ歩いてゆく。


「ヴァスルと、少し話せました」

「それは重畳。フラノという少年については聞いたか」

「……いえ。フラノが、何か?」


 意外な名前に眉を上げると、賢者が横目でナーソリエルをちらりと見た。

「水へ運ばれ、目覚めはしたが、神殿に入ってからの記憶の大部分をなくしているらしい。それ以外の健康障害は見られぬが、十の子供にあの場面は酷だったようだ」


「そうですか……」

 少し俯いたが、しかしあの繊細そうな大人しい少年にとってあんな事件は忘れてしまった方がずっと良い気がしたので、「エルフト神のおはからいでしょう」と返す。なくしているのが神殿に入ってからの記憶だけならば、彼が大事にしているらしい妹のことは覚えているはずだ。ならば、きっとそう大きなものは失っていないだろう。


「神のはからいとは、まるで神官のようなことを言うな」

 賢者が面白そうにナーソリエルを見下ろした。

「神には、何度も救われましたから」

 儀式の間がある風の塔を見上げて言う。


「その叡智の神に救われ、君は私の元へ来たのだ。これからは一介の神官でいてもらっては困るぞ、シラ・ユールよ。私は君を弟子に迎えると言っただけで、まだ賢者にするとは言っていない。これまで以上に、神殿では学び得なかったことを学んでいただく」

「はい、賢者さま」


 彼らしくもなく、期待に弾んだ声で答えた。例えばユーシウス神殿長に「これまで以上に学べ」などと言われたら、きっと恐怖に震え上がったことだろう。しかしこの物静かで人嫌いそうな賢者様に言われると、シラはなぜか次から次に「薔薇の品種改良が」とか「妖精に関する伝承が」とか「古文書の解読が」とか考えて、どうしようもなく好奇心をくすぐられてしまうのだった。





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