第四章 賢者の塔

一 黒を纏う



 神殿の周りを囲む森の中、小型の馬車ならなんとか通れる程度の細い一本道を辿れば、賢者の塔まで馬で半時間だ。


 洞窟国家らしく先の尖った不規則な形の塔が立ち並ぶ神殿と違い、こちらの塔はきっちりした円筒型だ。叡智を象徴するような灰色の石は遠く王都の更に向こう、雨のうみの近辺から切り出してきたのだという。この辺りの岩盤は白く、国境の辺りは赤茶けているので、均質で美しい灰色の建材というのはなかなか貴重なのだ。


「美しい塔ですね」

 朝靄あさもやに霞む様子を見上げて言うと、賢者は馬から降りながら意外そうに「フォーレスの壮麗な飛梁とびばりの方が面白くはないか?」と言った。


「豪奢な建築物がお好きなのですか?」

「この塔のように禁欲的な意匠の建物には、やはり禁欲的な書架でなければならぬ。書物の装丁も簡素だが質の良い革張りで、宝石などはあしらわれていない方が好ましい。それはそれで趣深いが、ありとあらゆる装飾が許される環境と比較し、あまりに自由度が低いとは思わないか?」

「……書架?」


 いつの間に本棚の話にすり替わったのだろうと思ったが、そこを追及するほど興味深い話でもなさそうだったので、首を傾げるにとどめた。賢者の方も特に返答は求めていなかったようで、シラの言葉を待つでもなくさっさと厩の方へ歩いてゆく。


「馬の世話はまあ、半分程度で良い。通いの馬丁が日に一度世話をしに来る。生活に必要なものは週に一度、地の日に商人の馬車が来るな。翌週の仕入れに関して詳細な注文も可能だが、まあ言われた額を支払っておけばそれなりの物を置いてゆく」

 賢者はそう言いながら厩に馬を入れ、ちょいと杖を振って中を浄化する。敷き藁も勿論、少し汗をかいていた馬も全身を清められて、心地良さそうに首を伸ばした。


「フィアル、雌だ」

 唐突だが、馬の名前らしい。

「御使いのルフィアルから?」

「賢い馬だ」

 賢者は頷くと塔の入り口の方へ歩き出す。どうも時々返事が噛み合っていない気がするが、まあ馬の名の由来くらいしつこく尋ねるようなことでもないので、黙って後に続く。


 石段を数歩上がった先、重そうな両開きの木の扉には輪にとまったミミズクのノッカーが付いていた。森にそびえる冷たい灰色の塔にこんな可愛らしい顔の彫刻で良いのだろうかと、不釣り合いさに笑いそうになる。


「鍵はこれだ。君にも後で複製して差し上げよう」

 賢者が首から吊るしていたらしい鍵を服の中から引っ張り出し、シラの目の前にぶら下げた。しかし日蝕杖を小さくしたような鍵には、鍵穴と合わせるための凹凸がない。先には細かい紋様が彫り込まれているものの、本当に杖をそのまま縮小したように、真っ直ぐな棒になっているだけだ。


「ここに、こう流す」

 すると賢者が言って、指先から鍵に魔力を流した。緻密に彫られた紋様の一部が黒い魔力で染まり、美しい幾何学紋様が浮かび上がる。


「魔導鍵に、なっているのですか」

 驚いて目を見張った。魔導鍵とは、複雑な紋様の彫られた板の決められた道筋に魔力を流すことで開錠する暗号式の鍵だ。魔術師の家にはよくあるものだが、しかし通常は扉に大きな板が打ち付けてあるもので、こんな形のものは見たことがない。


「袖の中に隠せるため、安全性が高い」

「そうですね……」

 感動してじっと見つめていると、賢者はシラの手の中にポイとその鍵を放り込み、背を向けて塔の中へ入ってしまった。ハッとして追いかけると背後でギィと扉が勝手に閉まり、ガチャリと施錠される音がした。


「押さえはそこだ」

 賢者が言う。彼の指した方を見ると、戸の下に噛ませる木製のくさびが転がっていた。しかし今はそんなことどうでもいい。シラは一瞥しただけでそのことはすっかり忘れ、吹き抜けになっている塔の中を見上げると、すぐそちらに夢中になった。


「これが摩天書架まてんしょか……」

 本の挿絵でしか見たことのなかったそこは、円筒型の塔の内壁が全て本棚になっていて、その光景が天まで続いているように見える、読書家の夢を詰め込んだような建物だった。とはいえ勿論階層ごとに通路や扉はあるし、中央の空洞には螺旋階段もあるのだが、灰色の石に黒い階段、無彩色の世界に書架と書物だけが色味を持っているせいか、絶妙にそれを意識させない幻想的な佇まいだ。自身も魔力を持っていて、叔父の友人に妖精がいるような国に生きているのに、どこか異界に迷い込んだような浮遊感を覚えるのだ。


「これ、ぜんぶ読んでいいんですか……」

 感動のあまり腑抜けた口調になりながら、シラは尋ねた。賢者は振り返って少しだけ目を細めると、一言「食事と睡眠はきちんととりなさい」と言う。


「不思議な……不思議な造りの塔ですね。扉があるということは、あの奥に空間があるのでしょう? 外観よりも中が広く見えます。それに、なんて華奢な階段だろう。あんなに高くまで続いているのに」

 シラがうっとり囁くと、賢者はその華奢な階段を上り始めながら「さもあらん」と頷いた。

「ヴェルトルートの神殿、或いは王宮建築に見られる石筍型尖塔建築せきじゅんがたせんとうけんちくは世界にも類を見ない独特かつ魔力にものを言わせた無理のある工法で建てられているが、我らが賢者の塔もその例に漏れず、外観、内観を最重要視した非常識な建築物だ。つまりこの──見上げた際にどこまでも書架が立ち並ぶ光景を生み出し、尚且つその奥に書庫や居住用の空間を作り、加えて外観も細くすらりとするよう、内部に竜鉄筋の仕込まれた石材で建てられている」


「鉄筋材なのですか、これ」

 しかしその質感は調合で作られる類の石ではなく、切り出したままの天然ものに見える。そこに長い鉄筋を通しながら組み上げるのに、どれだけの手間と魔力を費やしたのだろう。


 こちらもどうやらただの鉄ではなさそうな、何か奇妙に魔力が通る感触のする金属の手摺りを握って、螺旋階段を上がる。賢者は歩いても歩いてもまだ上り続けるので、何か上の方に目的の部屋があるのだろうが、これから寝起きする部屋に案内してもらえるのだろうか。


「……持とう」

 唐突に賢者が立ち止まって振り返り、シラの方に片手を差し出した。

「え?」

「上まで、楽器を持って差し上げよう」


 十五階を超えた頃からはあはあと肩で息をしているシラに対し、父親くらいの年齢に見える書架の賢者は汗の一滴もかいている様子がない。流石に情けなくなって「平気です」と首を振ると、彼は「遠慮はいらぬ、内炎魔法だ」と言って手を伸ばし、シラの肩からリュートの鞄を取り上げた。どうやら少しも疲れていない様子なのは、魔法でずるをしていたらしい。


「君の部屋は二十二階だ。準備はしていないが、浄化すれば寝泊まりはできる。それ以上は追々揃えなさい」

「……はい」

 できるだけ息切れを堪えながら頷いたが、首を傾げた賢者に「少し休むかね?」と言われてしまった。

「行けます」


 重い足を持ち上げてのろのろ上がってゆくと、周囲の景色が少しだけ変わった。並ぶ本棚の間の扉の数が多くなり、絨毯の色が灰色から深緑色に変わっている。

「この階が厨房と食堂、浴室、主に水回りが集まっている。この上が君の部屋になる階、その上が私の居住階、二十四階が研究室や実験室、二十五階が広間、屋上に温室がある」


 研究室に、温室……と頬を上気させながらシラは頷いた。賢者は二十二階で階段から廊下へ踏み出すと、手近な扉の一つを開けて見せた。

「この階の部屋は寝室が五部屋、談話室と給湯室が一部屋ずつ、残りは空だ。寝室は全て内装が違う。弟子は君しかいないので、好きな部屋を選びなさい。他にも書斎や居間が欲しければ、空き部屋に家具を入れるように」

 覗き込むと、深い赤色の絨毯に同じ色のカーテン、寝台には控えめな金の装飾が施された美しい部屋が見えた。わかりましたと返事をするとリュートの鞄を渡され、賢者は上の階へ上ってゆく。勝手に選べということだろう。


 端から扉を開けて回って、シラは一番内装が気に入った三番目の寝室に決めた。廊下の絨毯より色の暗い深緑色のカーテンの裾に、白い糸で繊細に薔薇の刺繍がしてあった。家具は艶やかな黒檀色に染められていて、壁は白い漆喰が塗ってある。


「──書架の本は自分で並べなさい」

 壁一面を覆う空の本棚を見上げていると、不意に背後から賢者の声がして飛び上がった。彼は抱えていた衣服らしき黒い布の束を寝台の上にどさりと乗せると、部屋の隅へ歩いていって絨毯の端を少し捲った。黒い革の靴底で露出した床をトンと踏むと、黒い魔力の影がぶわりと床一面に立ち上がって、部屋が一気に浄化される。


「各部屋にこれと同じ浄化陣が仕込まれている。が、普段は可能な限り自分の手で清掃しなさい。病が酷くなる」

「……病?」

 眉をひそめると、賢者は「違ったか?」と首を傾げた。


「重度の潔癖症だと聞いた」

「誰に……」

「ファーリアスとカイラーナ、ファルマソールにもだ」

「そんなに? ……え、マソイとも話したのですか?」

「『仲間』だと話していただろう。危険物を所持していないか確認しに行った。彼は君より余程しっかりしているな。気難しいが根は優しい子だからよろしくと頼まれた」

「マソイ……」


 シラは渋い顔になったが、掘り下げたところでどうせろくでもない話が出てくるばかりだろうと見当をつけて、部屋の本棚について尋ねることにした。

「自分で並べるようにとは、外の書架からここへ本を持ってきていいのですか」

「構わぬ。しかしその資料が私の研究に必要な場合は一期的に戻していただくことになるので、個人で所蔵したい書籍は地の日に訪れる商人へ注文するといい」

 食品も含め、代金は勝手に引き落とされるようになっている。賢者はこだわりなさそうにそう言うと、シラが返事をする前に「茶を淹れよう」と言って部屋を出て行った。後を追うと、水をたっぷり注いだ鍋に茶葉をばさばさと振り入れようとしていたので、慌てて駆け寄って制止した。


「トルムセージ、水から煮出すおつもりですか」

 味も香りも台無しになりますよと言うと、賢者は「大袈裟な、大差ないだろう」と呟いて面倒そうに首を振った。


「私がやりますから」

 少々強引に奪い取ると、賢者は肩を竦めてシラに場所を譲った。彼はひと続きになっている談話室に移動してソファーに腰掛け、鍋を片付けて薬缶を取り出しているシラを見ながら「賢者様トルムセージと呼ぶのはやめてくれないかね、仕事ならば容認するが、これから毎日となると大仰だ」と言う。


「わかりました、アトラスタル様」

「ふむ……それも少々、親しげでむず痒いな」

「では、先生」

「それで頼む、弟子よ」

 その呼び名に思わず口元が緩んでしまって、シラはさりげなく賢者に背を向けた。静かに深呼吸して顔を元に戻すと、談話室へ移動して温めておいたカップに茶を注ぐ。


「どうです」

 まともに淹れた茶を一口含んだ賢者は、まず頷いて「美味い」と言った後、じっとカップの中を見つめて「しかし……私が淹れたものとそう違いがあるようにも思えぬが」とぼそぼそ言った。

「そうですか」

 本気でそう思っているらしい様子に苦笑する。確かこの人は王族出身だったはずだが、その割に茶の味の良し悪しには興味がないらしい。


「……それで、一服したら出られるかね?」

 すると唐突に賢者がそう尋ね、シラは首を傾げた。

「どこへ?」

「月の塔」

「え?」


 聞き間違いだろうか?


「行きたいと泣いていただろう。疲れているならば明日でも良いが」

「えっ」

 ぽかんとしていると、賢者は優雅に茶を飲みながら「行くならば部屋で着替えてきなさい。休むならば浴室へ案内しよう」とのんびり言った。


「……先生は、私の保護観察官を引き受けられたのでは」

 そもそも魔術師との繋がりを疑われて異端審問にかけられたのに、神殿を出たその日に月の塔へ行くなんてことがあるだろうか。


 しかし賢者は言う。

「引き受けたとも。故に今後五年は君が異端に触れぬよう、見守るつもりでいる」

「しかし」

「つまり風持ちである君の場合、学びを拒み、記憶を捨て、知への道を閉ざさぬよう気を配っていればいいわけだ。或いは空気のこもった密室にばかりいるようであれば、時々風に当てるとか」

「風に当てる……」


 本の虫干しか何かのような言い方にたじろいでいると、賢者は余裕たっぷりに目だけで微笑んだ。

「魔術は異端ではないと、君が監察者に証明したのだろう。自説には常に疑り深く、しかし自信もきちんと持ちなさい──して、どうするかね?」

「行きます」

 後先考えず衝動的に言うと、賢者はパチンと指をひとつ鳴らしてカップを浄化し、黒いローブをバサリと翻して立ち上がった。その腕にはいつの間に呼び出したのか、魔力でできた灰色のミミズクがとまっている。


「……着替えてきます」

「そうしたまえ」

 賢者が伝令鳥へ向き直ったのを見届けて、シラは食器を戸棚に押し込むと与えられたばかりの寝室に駆け戻った。寝台の上の着替えを広げると、質の良い漆黒の布を使ったローブとマントだ。縁取りは流石に銀糸ではなく、美しい染めの灰色の糸だが。


 彼は袖を通してマントを羽織り、少し迷ってから部屋の隅の鏡に姿を映して、黒い服を着た自分の姿をじっと見つめた。なかなか……少なくとも神殿の装束よりは、似合っているのではないだろうか。シラは自分のそんな思考が恥ずかしくなって目を逸らし、そして南西を向いた窓──月の塔のある方角を向いた窓から満月の沈んだ朝焼けの空を見て、その向こうにいる月光色の妖精へと思いを馳せた。





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