十三 魔術


 信じられない。こんなことが、現実にあるものだろうか?


「ト、ルム、セージ」


 途切れ途切れにそう言った。書架の賢者様がこちらに目を遣ると、「運命を告げる、灰色のミミズクに呼ばれたものでね」と短く言う。だがそんな賢者の目の前に、白い衣の裾を揺らしてダナエスが立ちはだかった。神殿長は空中にくすんだ色の顕現陣を大きく描き、言う。


「ようこそ、賢者殿。しかし我らの審判を邪魔するとなれば、我らとてそれを防がねばならぬ。これを見たまえ、もしや汝ならば目にしただけでわかるかね? 記憶を奪う気の術だ。叡智の祝福を受けた者にとっては何より恐ろしいものであろう。どうする、全ての記憶を犠牲にすれば救えるやもしれぬが──」


 賢者は何の葛藤も浮かんでいなさそうな目をして、手にした長い杖を軽く振った。顕現陣が粉々になって吹き飛び、まだ何か続きを話しかけていたダナエスの体も宙を舞って、奥の壁に叩きつけられる。頭を打ったらしく、そのまま床にずり落ちて動かなくなった。


「ナシル……ナシル!」

 と、賢者の横をすり抜けるように人影が駆け込んできて、ナーソリエルとフラノは纏めて抱きしめられてもみくちゃになった。フラノが怯えた猫のようにするりと腕の中から抜け出す。ナーソリエルも腕を突っ張って無理やり顔を離すと、なんと半泣きになったヴァスルだ。


「ファラに助けを求められて……心配、本当に心配したんですよ。なぜ私の同席を望まなかったのです。そうしたら弁護人として、私は」

 そんなことをすれば真っ先に殺されていただろう、ナーソリエルは遠い目をしてそう言おうとしたが、それではまるで自己犠牲的にヴァスルの身を案じているように聞こえるのでやめておいた。


 彼らがそうしている間にも、賢者はカツカツと靴音を立てて審問室を横切り、そして部屋の中央でぼんやり立っていた監察者の胸ぐらを乱暴に掴み上げている。

「この程度で簡単に惑わされるとは、今代の光は余程無能と見える。思考を見失った君に、叡智の祝福を授けて進ぜよう」

 そして杖を持っている方の手で白い布をざっと捲り上げ、額に口づけを施した。祝福というより魂を吸い取っているように見える。しかし効果はてきめんで、どこも見ていないようだった菫色の瞳が急に目覚めたようにハッと見開かれた。露わになった年齢不詳のそのかんばせは、その珍しい瞳の色もそうだが、こんな状況でも息を呑んでしまうようなものすごい美男子だ。


 賢者が胸ぐらを掴んでいた手をパッと離し、監察者は「あっ」と小さく漏らしながら床に崩れ落ちた。そして黒衣の男はナーソリエル達の方を振り返って──目を見開くと「後ろだ!」と叫ぶ。


 ヴァスルの方が反応が速かった。必死な顔をした青年がナーソリエルに覆い被さったと同時に、彼は身を引き裂かれているような、身の毛のよだつ悲鳴を上げた。ナーソリエルは何が起きているのかわからず、立ち上がろうとするのをヴァスルが絶叫を噛み殺しながら強い力で押さえつける。そして突然その力がふっとなくなって、ナーソリエルは戦慄した。


「ヴァスル!!」

 悲鳴のような声が出た。倒れゆく彼に手を伸ばし、その生死を確認しようとした途端、目の前に円環杖の先端が差し込まれた。壁のランタンが逆光になって、見上げたナーソリエルの上に黒い影が落ちる。


「哀れな異端者は、罪の子を庇って神罰を受けました。次は汝、の──」

 嘲りに満ちた声が途切れ、ソロの体がぐらりと傾いで、そしてゆっくりとこちらに倒れ込んできた。咄嗟に手を突き出して、ヴァスルの上に倒れぬよう押し除ける。何が起きたのかと目を上げれば、小さくしゃくり上げ両目から滝のように涙を流しているフラノが全身を内炎魔法で淡く光らせ、両手で槍を握りしめて立っていた。背後から頭を殴りつけたらしい。


「……ヴァスル!」

 一瞬呆気に取られたが、ナーソリエルはすぐにかがみ込むとヴァスルの頬に手を添え、軽く叩いた。

「ヴァスル、ヴァスル?」

「……心肺が停止しているな」

 いつの間にか隣にいた賢者が、難しい顔で呟いた。そして手早く意識のない体を仰向けに転がし、顎を持ち上げて気道を確保する。そして胸に手を当てると複雑な紋様の顕現陣が現れ、発現すると共にヴァスルが呼吸を始めた。


「良かった……」

「術で動かしているだけだ。時間稼ぎに過ぎぬ」

 胸を撫で下ろしたナーソリエルに、賢者が釘を刺した。そして右手の術を動かし続けながら左手だけで器用に灰色の神官服を切り開き、肌に直接手を当て直して眉を寄せる。


「魔力経路が……破壊されているな」

 服の下の肌が紫色に染まり、その色が腹を中心にじわじわと全身へ広がり始めていた。

「自らの魔力に焼かれ、傷つけられているのだ。水に鳥を、いや、しかし呼んだところで治療法が」


 治療法が、ない?


 氷水に放り込まれたような絶望に苛まれ、ナーソリエルはヒュウッと細く息を呑んだ。汗をにじませながら苦しんでいるヴァスルの顔を見つめ、必死で考えている様子の賢者を見る。不安と恐怖に呼吸がどんどん浅くなって、肩で息を繰り返し、じわりと全身が痺れてくる。


 とその時突然、フラノを助けようと動いてから全身を強く巡っていた魔力が、奇妙な動きを見せた。喉が詰まったように息が苦しく、小さく咳き込む。頭に血が上るように上へ上へ収束し、たらりとした感触に手を持ち上げると手のひらにべったり鼻血がついた。反射的に浄化の陣が縫い取ってあるハンカチを取り出して手と顔を拭うと、賢者が奇妙なものを見る目でこちらを見ている。


「……大丈夫かね?」

「ええ、全て拭き取れました」

「いや、そうではなく」

「大丈夫です。ひとつ、試したいことを考えつきました」

「いや、そちらでもなく……まあ良い、考えを聞こう」


 しかし、詳しく話している猶予はないと思った。もう一度ハンカチを鼻に押し当てて、おおよそ血が止まっていることを確認する。この程度ならば、ヴァスルの上に滴らせてしまう心配はないだろう。


「賢者様、魔力経路を可視化することは可能ですか?」

「経験はないが、知識はある。試してみよう」

 賢者は余計な聞き返しを一切することなく、すぐさまヴァスルの胸に乗せた手にもう片方の手を重ね、心肺蘇生を維持しながら大きな魔法陣を描き出した。いや、これは魔法陣と言って良いのだろうか? まるで祝福紋を幾何学紋様化したような線が緻密にヴァスルの肌の上を走り、そして影色の魔力で描かれたそれがすうっと体内に染み込むように消えると、今度は全身に血管のような細かい模様が浮かび上がってくる。


「……ヴァスル」

 その模様が全身に渡ってあまりに細かく千切れ、散り散りになっていて、ナーソリエルは彼の名前を呟いたきり絶句した。しかし賢者が「これで良いかね?」と言った声に気を取り直して、ナーソリエルは手を伸ばすと賢者のベルトから勝手にナイフを抜き取った。


 神殿基準で考えなくとも明らかに無作法だったが、何も言われなかった。ナーソリエルは小声で謝罪しながらヴァスルの服を切り裂いて、全身の皮膚が見えるようにした。そしてへその少し下、魔力の渦の中心にそっと手を触れ、そこに魔力で大きな九芒星を描く。ヴァスルのそれよりも濃い気の祝福を含んだ線が、黒々と紋を刻む。


──魔術だ


 ナーソリエルは祈るように強くそう考え、その星の頂点の一つから滑らかな曲線を心臓に向かって引いた。魔術は、魔法陣は、きっとこんな時のためにあるものだ。強い祈りの力は持たないが、しかしそれだけ人の願いに寄り添って、自由に望みを叶えてくれる。日々の小さな不便を解消したい、或いは運命に抗っても、神に逆らっても、大切な人を救いたい。そんな願いを抱いた時、魔術は顕現術よりもずっと強くて、ずっと自由だ。


 ナーソリエルは集中のあまり唇の端を噛み切りながら、ヴァスルの全身に紋様を描いていった。弧を描き、星で繋ぎ、円で閉じる──どれも魔法陣の中を魔力が縦横無尽に巡るよう、魔法陣と魔法陣の間を魔力が行き来できるよう、道筋を作るためのわざだった。


 途中でヴァスルをうつ伏せにひっくり返し、胸に当てている手を下敷きにされて微妙な顔をしている賢者を無視して、背中まで緻密に線を繋げる。そうして血管であれば大動脈と大静脈にあたる部分の線を描き切ったナーソリエルは、彼をもう一度仰向けに戻すと、丹田の星形紋に右の手のひらを当てた。


「──ヴェルトラ=ミル=カトラール!」

 根となって、溶かし、繋げ。祈りの言葉であるアルレア語ではなく、魔法言語であるエルート語で叫んだ。


 ぶわりと魔力の気配を燃え立たせて魔法陣が発現し、描いた線の間に仕込まれた小さな術が一斉に効力を発揮する。千切れて行き場をなくし、全身を傷つけていた魔力経路の欠片が魔法陣の線に吸い上げられ、やわらかくとろけながら陣と一体化し、そして体の一部となって全身へ広がる。魔力の循環が始まって、青紫色になっていた肌が、少しずつ白く戻り始めた。


「……これは、また」

 賢者が目を丸くして、そして慎重に胸元から両手を離した。顕現陣が消えても、穏やかな呼吸が止まることはない。賢者はそれを数秒確認した後、じっと睨むように宙を見て何か考えると、床に転がっていた日蝕杖を手に取って、カーンと鋭く石突きで床を突いた。


「ネライ」

 一言そう唱えると、体表で脈打つように魔力の流れを作っていた魔法陣が、吸い込まれるように体内へ沈んでゆく。


「……あ、そうか」

 ナーソリエルはそれを見て、そこまで考えが至っていなかったことに恥じ入った。肌に描いた魔法陣だけでは、全ての魔力が体の表面を通ることになる。生命力と同じものだと言われている魔力を全部体の外に出してしまうなど、考えてみれば危険極まりなかった。


「ありがとうございます」

「いや、私にも助力できる部分があって良かった。弟子にしたばかりの少年の発想に縋るばかりでは面目が立たぬ」


 月光に光る金属めいた薄い青色の瞳が、少年のように楽しげにきらめいてナーソリエルを見下ろした。賢者は息を吹き返したヴァスルをもう一度口角を上げて見つめると、さっとマントを脱いで服をバラバラにされてしまった彼の上に掛けてやった。借りたマントはまだ返していなかったが、どうやら複数枚持っていたらしい。


「私は革命の始まりを見たよ、シラ。破壊された魔力経路を弧と星で繋ぐなど、なんと斬新で自由で、幻想的な思いつきだろうか!」

「……そうですか」

 賢者は何やら興奮した様子で話していたが、ナーソリエルはヴァスルの容体が気になってそれどころではなかったので、上の空で相槌を打った。手を握り、耳元で名を呼んでみるが、反応はない。


「まだ寝かせておいてやりなさい。水の神殿へ運ぶぞ」

 賢者が生き生きとした顔のままそう言ってヴァスルを抱え上げようとし、小さな声で「重いな」と言うと口の中で低く呪文を唱えた。すると今度は足を踏ん張る様子もなく、それなりに上背がある青年を軽々と抱き上げる。内炎魔法だ。火持ちでないのにここまでのことができるのは、相当魔力が多いのだろう。ナーソリエルではせいぜいジャムの瓶の蓋を開けるくらいしかできない。


「賢者様、彼は──」

「──今のを、見たか」

 その時、暗い地下室に男の声が響いてナーソリエルは飛び上がった。すっかり存在を忘れていたが、振り返ると声の主は監察者だ。


「魔術であった」

 顔を隠した白装束の男が、ぽつりぽつりと話しながら倒れ伏したダナエス神殿長を見下ろしていた。


「祈りではなく呪文であった。蔓紋様でなく星が描かれた──しかし、彼がその魔術で人を救うのを、私は見た。ダナエスよ……聞く耳を持つべきは、汝の方なのやもしれぬ。そしてまた私も、視野が狭められていたのだと……今は感じる」

 監察者は顔を上げ、片手で布を持ち上げて、その紫の瞳で真っ直ぐにナーソリエルを見た。

「ナーソリエルよ……魔術に関して、神殿はあまりに不寛容であったと私は判断する。その発現に神が御力を貸されていると、私は汝の術にその気配を感じた。がしかし……汝が不服を唱えた聖典の改訂箇所については危険思想と判断されて致し方なく、また審判に抵抗し審問官ソロの術を魔術で打ち破った狼藉も、無罪として見逃すわけにはゆかぬ」


「彼は私が引き取るぞ」

 賢者が強く口を挟んだ。監察者はそれに応えず、菫の瞳がゆっくりと一度瞬いて警戒するナーソリエルを見つめ、そしてランタンの細い明かりに少しだけ明るくその色を光らせた。


「全てを鑑みて、審判を下す。枝神官ナーソリエルよ、汝の処刑を取り消し、五年の保護観察を言い渡す。しかし十年は塔とその周辺の森に留まり、汝が賢者として完全な中立となって、我らの信仰を脅かす存在ではなくなったと証明せよ」

「……光の雨のお言葉の通りに」

 恭順を示すと、監察者は賢者へ視線を向けた。


「書架の賢者アトラスタル、汝を保護観察官へ任命しよう」

「何者も賢者である私に対して任命権を持たないが、此度に関しては承ろう」

 賢者が尊大に微笑み、一言「重くなってきたので失礼する」と言って、さっさと出口の方へ歩き出した。慌てて監察者に礼をして、後を追う。と、踵を返す寸前にフラノが見当たらないことに気づいたが、火の審問官の一人が「あの子ならば、気絶したので第四が水の神殿へ運んだ。疲労か心労だろう」と言ったので、頷き返して審問室を出た。


 入り組んだ地下道を、少し目眩でよろめきながら進む。魔石もないまま大きな術を使って、気を抜くと眠ってしまいそうだった。疲れ切って道順もよく思い出せなかったが、途中で細い地下水の川が流れている隣を歩いたので、行きとは違う道だ。


「彼を水へ届けたら、荷物を纏めなさい。夜明け前には出るぞ」

 賢者が静かに言った。

「──わかりました」

 頷いて、未だ目を覚まさないヴァスルを見る。一命を取り留めた安堵の波が過ぎると、ずきりと鋭く胸が痛んだ。


 たとえ目を覚ましても、きっと彼はもう二度と魔法が使えない。ナーソリエルが魔術で繋いだのはあくまでも生命維持のための魔力経路だけで、緻密な肌の魔力経路までは再現できなかったからだ。体表に繋がる魔力の道筋がなければ、人は魔力を外に放出できない。


 つまり、あの美しい風の竪琴の音色はもう二度と聞くことができないのだ。


 ヴァスルが最も愛する魔法を、ナーソリエルが彼から奪ったのだ。


 それを考えるだけで涙が出たが、しかしそれを乱暴に袖口で拭って前を見た。夜明けには神殿を出るナーソリエルにどんな償いができるのか見当もつかなかったが、それでも彼が絶望していたら、命がけで庇ってくれたヴァスルの心を無下にすると、そう思ったからだ。





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