八 失読



 ざぶんと、頭まで温かい湯に潜る。泡立つような浄化の気配が全身を撫でるように通り過ぎて、胸の痛みが少しだけ軽減された。ナーソリエルは小さな泉を思わせる丸い浴槽から頭を出すと、壁の鏡に背中を映してため息をついた。


 浄化の術が、この紋も洗い流してくれればいいのに。


 怒ったユーシウス神殿長は、あの審問の次の早朝にナーソリエルを呼び出して、彼の背中に祝福紋と呼ばれる顕現陣を焼きつけるような奇妙な術を施した。とはいえ術の仕組みとしては簡単で、魔石の代わりに被術者の魔力を使って発現し続ける顕現陣でしかないのだが、問題はその術の内容だった。食欲、睡眠欲、肉欲……つまり知識欲以外の欲求を薄くする術に、あの「神の窓」と同じ、嘘をつけなくなる自白術。反抗的な感情を抑える術。極めつけは「神の耳」──つまり、周囲の音を拾って術者に届ける盗聴の術。最悪以外のなにものでもない術だった。


 とはいえ、肉欲の剥奪だけは自分には不要だが──


 肩まで湯に浸かって白い石の天井を見上げ、ナーソリエルはぼんやりそう考えた。同期の神官達は思春期を迎え、男性神官はそういった欲求を制御するため魔力を用いた特殊な精神統一を学び始めていた。加えてマソイはどうやら最近アミラのことが特別気になっているようだとトーラが言っていたが、ナーソリエルに関しては、十六になってもその手の話題にはさっぱりついてゆけないのだった。異性に興味を持ってしまうようなこともなければ、体が熱を帯びて困るような経験もない。どうやら自分は少しおかしいというか、どこかが壊れているような気もしたが、しかしそのような感情を得るのは神殿云々と関係なく個人の嗜好として気持ちが悪い気がしたので、特に気にしてはいなかった。


 ふうともう一度ため息を漏らし、腕を回して手の甲で背中をそっとさする。「祝福紋」が始終ピリピリと弱く痛むのだ。動いていれば気にならない程度の痛みだが、こうして浴槽でゆったりしている時などには、気になってつい触ってしまう。


 しかし魔力的に相性の悪い地の術を焼きつけられたならまだしも、思考や感情を制限する気の術でこのような痛み方をするなど、理論上は有り得なかった。どうにも、風の神の祝福が愛し子の体から異端の呪詛を弾き出そうとしているように思えて、そんな馬鹿なと苦笑する。


 魔力があればこんな術、すぐに剥がせるのに──


 神殿長の強大な魔力で描かれた大きな紋様は、ナーソリエル程度の力では取り去れなかった。否、強引に破壊することは可能かもしれなかったが、そんなことをすればただでさえ少ない肌の魔力経路が引き千切られて、今よりもっと魔法が使えなくなるかもしれない。


 三度目のため息をついて湯から上がり、服を着ると髪も乾かさずにふらふらと食堂へ向かった。流石にこんな日も昇っていない早朝に食事の準備はできていないので、厨房で手早く卵を焼いてパンに挟み、作り置きの酢漬け野菜を皿に取り分けた。


 誰もいない食堂でひとり食前の祈りを捧げ、朝食をとる。ナーソリエルはあの審問の日からもう半年、そんな生活を続けていた。初めは少し調子が狂ったが、今はこのひとりきりの静かな時間も悪くないと思う。


 食べ終えた食器を洗い、一度部屋に戻って資料の山を抱えると、研究塔へ向かった。階段を上るにつれ、段々と指先に力が入らなくなってくる。立ち止まって一度深呼吸をし、ポケットに入れた白薔薇の匂い袋を少し触って、再び神殿長の研究室を目指す。


 コン、コン、コン。ゆっくりしたノックをすると、短く「入れ」の言葉。


「失礼いたします、ユーシウス神殿長猊下。夜明けに水の恵みが──」

「始めなさい」

「……はい」


 こう毎度遮られるなら、もう挨拶はしなくて良いだろうか。失望なのか苛立ちなのかわからない気持ちが湧いたが、その感情は背中の術に吸い取られてすぐに鈍くなった。


 部屋の隅のいつもの席にかけ、用意された本の一冊を手に取る。表紙を開くとギュッと締め付けられるように胸が痛み、この先の情報を拒むかのように手から力が抜けた。もう一度、深呼吸。白薔薇の匂い袋を袖に隠して取り出し、少しだけ香りをかぐ。胸の痛みが少し落ち着いて、ぺらりと一枚ページを捲り、目次に目を通す。紙の端から端までざっと読んで、また最初から、丁寧に。これは一体何の本だ? 一体何が書いてある? 落ち着け、ヴェルトルート語だ。苦もなく読めるはずだ。


「どうした」

 ガタゴトと椅子をずらして立ち上がると、神殿長が手元から目だけ上げてこちらを見た。


「……辞書を。読めない単語があって」

「何が読めない」

「……ええと、綴りが……すみません、確認します」

「見せなさい」


 嫌だなと思ったが、ここで反抗しても良いことはないので、薄茶色の革が張られた本を手に取って神殿長に見せる。目次の最初の項目を指で差すと、ユーシウスは瞳孔の開いた恐ろしい目をしてナーソリエルをじっと見た。


「ロナイ、『月』だ。ナーソリエル、これは何の冗談だ?」

「いえ……冗談では」

「では、これは?」

「星、の……多い」

「スティラ=アネス、数多の星々。神殿の名すら忘れたと?」

 神殿長がバンと手のひらで机を叩いた。俯いて床を見る。


「……自分の名を書いてみろ」

 投げるように紙と羽ペンを渡された。インク壺に浸して、ペン先を宙に彷徨わせる。「ソリエル」は書ける気がするが、「ナ」の字が……いや、月の「ロナイ」の「ナ」を書けば良いのか。しかし、どんな文字だったか──


「記憶力も落ちたと思ったが、ついにそこまでか。ナーソリエル、ここへ祝福を」

 神殿長が立ち上がり、棚から大きな魔石の玉を取り出した。細かな蔓草紋様が彫り込まれている。確か、魔力を測定するためのものだ。そっと冷たい表面に触れて魔力を流すと、墨のように真っ黒が力がどろりと注ぎ込まれ、水晶玉はみるみる漆黒に染まった。それとは反対に、表面の紋様が下から順に少しずつ青白い光を放ちだす。


 あれ、魔力が増えた?


 紋様の大半が淡く輝いているのを確かめて、ナーソリエルは少し嬉しくなってそれを見つめた。これだけあれば、十分魔術師になれるどころか父や兄を超えるかもしれない。しかし神殿長は難しい顔で眉を寄せ、不機嫌そうに腕を組む。


「祝福が奪われたのではないが……記憶力に割かれていた分が、体内を巡っているようだ。ナーソリエル、これがどういうことかわかるか」

「……心労で」

「祈りが足りぬのだ。異端に染まりかけている汝が悪しき知を取り入れぬよう、神が取り計らわれている。魔術のことなど忘れ、一心に神へ仕えよ。今日の学習は終わりだ。祈りの間で明日の朝まで、サフラの祈りを捧げなさい」

「……はい」


 胸に手を当てて一礼し、ナーソリエルはふらふらと机の上の資料を片付けると、退室の挨拶をして神殿長の研究室を後にした。伝令が行っていたらしく、部屋を出ると憂い顔のカイラーナが待ち構えていて、煙水晶の玉が連なった長い首飾りを手渡してくる。リースリーと呼ばれるそれは、同じ祈りを何度繰り返したか数えるためのものだ。


「感謝いたします」

「神の望まれたことです。……ナーソリエル、毛布を一枚持ってきましたから、それを使いなさい。明日の朝も私がお迎えに上がりますから大丈夫です。それから、体調が悪くなったらすぐに私へ伝令を出すように。夜中でも構いませんから」

 ナーソリエルの背の紋の存在を知っているカイラーナが、術で拾えないようにか顔を寄せて耳元でこそこそと言う。


「ありがとうございます、カイラーナ様」

 そう頷いたが、真夜中に二人きりでこの男と会うなんてごめんだった。気遣いはありがたいのだが、ここであまり素直に頼ると妙な発作のきっかけを与えかねない。


 根神官のねぐらとはまた別の地下通路に降り、簡素な木の扉が並んだ廊下を歩く。一番奥の扉を開けると、寝台より少し広いかという程度の狭い部屋の中が見えた。室内には小さな神の像を置いた祭壇と、長時間跪くためのクッションが乗った台。それから奥の扉は小さな洗面所に続いている。体を休められるような場所はない。


「では、良い祈りの時間を」

 カイラーナが呟くように言って、さっと周囲を見渡すとトーガの中から一枚の毛布を取り出し、ナーソリエルに手渡した。それを受け取ると、もうひとつ小さな布の袋を渡される。


「これは」

「閉めますよ」


 パタンと扉が閉ざされて、外からかんぬきの掛けられる音がした。袋の紐を解いてそっと中を覗くと、角砂糖が十個ほど入れられている。本来なら口にするのは水のみの断食が鉄則な上に毛布も持ち込んではならないのだが、最近のナーソリエルの顔色があまりに悪いからだろうか、随分と多目に見てもらったようだ。


 ナーソリエルは祭壇の魔石に手を触れて明かりを灯し、持っていたランタンを消灯して壁に掛けた。こういった祭壇には蝋燭が使われることが多いが、この祈りの間という名の反省室は特別だった。扉の上が細かい格子になっているとはいえ、地下室での火の使用は望ましくないからだ。


 毛布と角砂糖を部屋の隅に置き、台の上に跪くと右の拳を胸に当て、その拳を左手の手のひらで包み込んだ。神殿長に指定された「サフラの祈り」は、魔法使いとして生きてきた若者サフラが、その魔法の力が実は神に与えられたものであったと知った時に捧げた祈りを記した、神典の一節である。


「叡智の神よ、私の過ちをどうかお許しください。私は愚かにも、この身に受けた祝福の恩恵を忘れ、その祝福を我が力として──」


 顔をしかめて祈りを止める。サフラの祈りは神典の一節であり、そして二十六年前に改変された一節でもあった。背中に意識を集中させ、慎重に「神の耳」の紋を魔法で包み込む。音を拾わせぬよう、部屋から音を出さぬよう、丁寧に。


「『我が叡智の神よ、私は知りませんでした──』」


 そして、改変される前の祈りを口にした。



 私は知りませんでした。この身に満ちる力が、あなたの祝福であったなど。私は、空を駆ける鷲獅子グリフォンのように無知でした。彼らがその重い体で飛翔し、遠く山の向こうまで咆哮を響かせるように、ただ心の赴くまま、力を使いました。しかし神よ、これが貴方によって私に授けられた恵みであったと知った今、私はなんと幸福なことでしょう。私はもう、知らぬままであった私ではいられません。知を得た私は、この力を貴方への祈りなしに二度と使えぬでしょう。ああ、この身に流れる祝福の気配を感じる度、溢れる感謝を捧げずにはいられないのです。



 囁くような祈りを終え、腕に掛けたリースリーの玉をひとつ、手首の内側から外側に滑らせて落とす。そしてため息をついて、虚無感にぐったりした。改変前と後、どちらにせよこの祈りはナーソリエル向きではなかったからだ。


 だって自分はどんなに努力したところで、ファーリアスのようにはなれない──ナーソリエルは心の内でそう呟いて煙水晶の玉を指先でいじった。彼は自分の身に満ちるその力が神の祝福だと知っていたが、そう毎度毎度感謝を捧げなければならないとはどうにも思えないのだった。ナーソリエルはあの日見たエルフの子供の淡いきらめきを思い出し、そしてその父親の描いたこの上なく優しい雨の魔法陣を思い出す。妖精達が息をするように動かす魔力の使い方も彼は間違っているとは思わなかったし、そして神殿長の言うようにそれを人間が真似してはならないとも思わなかった。だって神はそもそも人の信仰心を試すためではなく、そうして本能的に使うために人へ力を与えたのではないのだろうか。この右の手の五本の指が自由に動かせるのだって、創造神がそのように人間を作ったからだ。神に与えられた体を自由に扱って良いならば、神に与えられた魔力を手足のように使って、何が悪いのだろうか。


 最近癖になりつつある深いため息をついて、ナーソリエルは「神の耳」にかけた魔法を解き、祈りを機械的に唱え始めた。何時間も何時間も、昼を過ぎて夜を超え、朝になるまで。基本的にはこちらの音を聞かせておいてやらないと、不審に思った神殿長が押しかけて来かねない。胸が苦しくなってきたら少しの間だけ耳の術を遮断して、小さな小さな声で好きな歌を歌うのだ。


 しかしやはり、私が間違っていましたお許しくださいと繰り返し懺悔する祈りは嫌いだった。できるだけ言葉の内容を頭に入れないように、耳でも聞かないようにしながら唱えていると、どうやら熱でも出てきたのか視界が揺らぎ始めたので、一度立ち上がって洗面所で水を飲み、毛布を羽織って少しだけ壁に寄りかかる。壁が冷たくて心地良い。


──叡智の神よ、私はどうしたら


 跪拝台きはいだいから離れると、ふと弱音が漏れる。神官でありながらあまり敬虔な方ではないナーソリエルらしからぬ、縋るような祈りの言葉だった。


──文字が読めなくなったのが貴方のなされたことではないと、私は知っています。私は、私自身の抱く恐怖から学びを退けているのです。叡智の神よ、ならばなぜ私に神罰をお与えにならないのですか。学ばざる私から祝福を取り上げないのですか。もし、もし私を憐れまれてそうなさるのであれば、どうか助けて、助けてください、神様……


 祭壇を見上げてナーソリエルが一筋の涙を流したその時だった。


 彼は奇跡を見た。


 祭壇の神像がふっと顔を上げ、その人智を超えて聡明な眼差しでナーソリエルをひたと見つめたのだ。


 その視線から目を離せずにいると、いつの間にかそこは地下牢のような狭い祈りの間ではなく、涼しい風の吹く夜の丘になっていた。頭上には満点の星が輝き、満月の白い光がエルフトの翼を神秘的に照らす。白い大理石の小さな彫像ではなく、灰色の髪に灰色の服を着た背の高い人影に変わっている叡智の神は、ほんのり唇の端を上げて微笑むと、肩にとまっているふわふわした灰色のミミズクに視線を投げた。ミミズクが翼を広げてどこかへ飛び立つ。すると神はナーソリエルを安心させるようにひとつ頷いてもう一度微笑み、三対の大きな翼を丁寧な仕草で畳んだ。翼のはためくやわらかな音がして、月桂樹の香りの風が吹く。ナーソリエルは歌うような風の音色にほんのひと時うっとり目を閉じ──


 ハッと目を覚ますと、そこは狭く寒々しい祈りの間だった。祭壇の石像に目を遣るが、神は元の通り白い石の瞳で虚ろに遠くを見ているだけだ。


 夢か……。


 考えてみれば当たり前のことなのだが、それでもどうしようもなく落胆してナーソリエルは袖口で目元を拭った。なにもかもにうんざりして両手で顔を覆うと、額が熱い。こんなところで居眠りをしたせいか、どうやら本格的に熱が上がってきているようだ。壁に寄り掛かったままずりずりと立ち上がって洗面所へ向かい、水を飲んで鏡の横の時計を見る。まだ黒の三時半、真夜中と呼ぶべきか早朝と呼ぶべきか迷う時間帯だった。しかし祈りの続きを唱えるには体調が悪すぎると毛布のところへ戻ろうとした時、突然扉を叩く音がしてナーソリエルはびくりと跳ねて縮こまった。眠っていたのが、神殿長にばれたのか?


「ナーソリエル、戸を開けますよ」

 カイラーナの声。彼が戸を開けに来るのは金の零時のはずだ。なぜこんな早くに?


「どうぞ」

 答えると、閂が持ち上げられるガコンという音がして、扉が開いた。ランタンを持ったカイラーナが中を覗き込んで、毛布を胸に抱きしめているナーソリエルを見て頬を緩める。


「まだ夜明け前ですが……」

「先程伝令がありまして、日の出後すぐ、緊急の用件で貴方にお客様が来るそうです。夜明けまでもうあまり時間がありませんから、すぐに支度をして……おや、具合が悪そうですね。水の塔へ寄って、お薬をいただきましょうか」

「客人? 一体誰が」


 半分熱に浮かされながら尋ねる。カイラーナはランタンを壁から外そうとしてふらついたナーソリエルに手を貸しながら、どこか嬉しそうににっこりした。


「書架の賢者、アトラスタル様ですよ」





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