九 来訪者



 談話室に通されたナーソリエルがそわそわしながら待っていると、廊下の方から足音がして、賢者様──ではなく気の神殿長ユーシウスが現れた。この人も来るのかと気が重くなったが、考えてみれば当然だ。居眠りの件についてまた罰を与えられるのだろうかと思ったが、彼女は神経質に部屋の中を歩き回るばかりで、ナーソリエルには見向きもしなかった。


「夜明けに水の恵みを、ユーシウス神殿長猊下」

「汝にも、カイル」


 笑顔で挨拶したカイラーナに、ユーシウスが上の空で返す。彼には返事をするのだなと思うと胸が鈍く痛んだが、ナーソリエルはその痛みを意識から振り払った。言葉を返してほしいなんて感傷は、彼が最も馬鹿馬鹿しいと思うことのひとつだったからだ。


「金の鐘はもう鳴ったが……」

「ええ、もうすぐいらっしゃるかと思います」

「用件について、詳細は聞いていないのか」

「緊急としか」


 高位神官達が小さな声で話すのを聞きながら、ナーソリエルも手持ち無沙汰にトーガの端の刺繍を指でなぞった。用件とは一体なんだろうか? 期待すべきか覚悟すべきか、一体どちらなのだろうか?


「──いらっしゃいました」

 案内を任されたらしいマソイの声がした。談話室内の人間が一斉に立ち上がる。重い木の扉が軋みながらゆっくりと開けられ、黒いマントをひらりとさせた長身の人物が足早に入ってきた。


「君は呼んでいないが」

 そして開口一番、賢者様は神殿長猊下に向かってそっけなく言った。ユーシウスはたじろいだ顔をしたが、すぐにいつもの不敵な笑みを浮かべて言い返す。

「ナーソリエルは異端審問の上、私の責任下で執行猶予中だ。同席させていただく」


「……ふむ、異端審問」

 賢者がナーソリエルをちらりと振り返り、視線で「がばれたのか?」と訊いてくる。僅かに首を振ると、ひとつ瞬きをして神殿長へ向き直った。

「まあ、その理由ならば致し方ない。監察者へかけ合って、保護観察を私に移譲していただくとしよう」


「何を言っている?」

 ユーシウスが眉をひそめた。

「枝神官ナーソリエルは、弟子として私が引き取る。本日、すぐに」


 すうっと息を呑んで、ナーソリエルは片手で口を覆った。信じられない。神が、本当に、助けを寄越してくれた。それも彼の夢を叶える形で。


「……何だと?」と神殿長。

「これは神託によるものだ。君達はこれに意見する権利を持たぬ」賢者が冷たく告げる。

「神託?」


 神殿長の体がふらりと揺らいだ。カイラーナに支えられながら椅子にかけ、彼女は驚くような鋭い目をしてナーソリエルを睨み、そして嘲笑った。

「賢者様の弟子とは光栄なことだが……生憎と、彼には不可能だ」

「一介の神官が神託を覆すと」間髪入れずに賢者が言う。


「その神託の真偽はともかく……ナーソリエルは現在、神に知を奪われ、文字も読めぬようになっているのだ。賢者の弟子などとても務まらぬ」

 一言ずつはっきりと区切って、神殿長が思い知らせるように言った。叶いかけていた夢が崩れようとしていることに焦って、ナーソリエルは必死に首を振った。違う、神に奪われたのではない。ここを離れれば絶対に治る。だから、だから……!


「文字が……?」

 賢者が深刻そうな声で呟いた。やはり彼も、ナーソリエルを文盲に成り下がったと、価値が失われたと考えるのだろうか? 黒い衣の男がゆっくりと振り返る。立ち竦んでいるナーソリエルを視界に入れ、こちらへ一歩踏み出して、そして何かに気づいたようにぎゅっと眉を寄せた。


「……君」

 早足に距離を詰められ、大きな手が額を覆った。きょとんとして、見上げる。

「……ふむ、座りなさい」

 腕を取られ、椅子に座らされた。賢者は腕に掛けたままだった煙水晶のリースリーを見て、顔をしかめる。


「熱が高いようだが、神殿はこのような体調の者を祈りの間へ入れるのか」

「その祈りの間で祈りを疎かにし、眠りこけたことで風邪を引いたようだ。神罰だろう」

「朝食はとったのか」


 賢者が尋ねる。「昨日の朝に食べたのが最後です」と言うと、彼は低く唸ってマントの留め金を外し、それをばさりとナーソリエルの肩に掛けた。分厚い布に包まれて初めて、自分が寒さに震えていたことに気づく。急に具合が悪くなった気がして、椅子の背もたれにぐったりと寄り掛かった。


「ここへくる前に水の神殿で解熱剤と栄養剤を投与しています」

 カイラーナが穏やかな声で言った。賢者が頷き、ナーソリエルの前にしゃがみ込むと瞳をじっと覗き込んだ。

「……元の虹彩の色合いは」

「淡灰色です」

「ふむ、とても神に知を奪われた者の瞳には見えぬが」

「──故に私も、まだ神は完全に彼を見捨てたのではないと希望を見出し、教育を施しているのだ」

 苛立ちにひび割れた女の声が賢者の言葉を遮る。神の加護が完全に失われたのであればとうに審問官へ引き渡している、とユーシウスが顔をしかめ、カイラーナが困った顔で微笑んだ。


「どのような教育を?」不信感に満ちた声で賢者が尋ねる。

「魔術に傾倒するきらいがあったので、その類を徹底的に避け、神典と外伝の暗唱をさせていた。問答の際に異端に抵触する思想があれば、祈りの間で半日から一日過ごさせる」

「神典以外の分野の研究は?」

「今は他に集中力を削がれるべきではない」


「彼から文字を奪ったのは君だろう、ユーシウス」

 賢者が言い放ち、神殿長が見たことのない拍子抜けした顔になった。

「……私が?」

「君は少し、水の神殿長殿に話を聞いてもらった方が良い。そのような虐待を行って自覚もないなど、何らかの精神疾患ではないかね?」

「虐待だと? 私ほど彼の将来を案じている者はないというのに?」


 心底不思議そうにユーシウスが言う。罪を逃れるための演技ではなく、あれはおそらく本気でそう言っている顔だ。もしや彼女が突然厳しくなったのは意地悪でも何でもなく、彼女なりにナーソリエルに目をかけていたのだろうか? 不意にその可能性へ思い至ったが、ナーソリエルはそれをどう受け止めれば良いのかわからずに俯いた。


「では、教えて進ぜよう。ナーソリエルはどのような分野に興味を持っている? 君はひとつでも言えるかね?」

「魔術だろう。それが困るからこうして」

「──何か、必要に迫られるのでなく趣味として、研究したいものはあるかね? 魔術といっても、その分野は多様だろう」


 神殿長の言葉を遮って、賢者がナーソリエルに尋ねた。ナーソリエルはちらとユーシウスの顔を伺い、その表情が怒りではなく困惑に満ちているのを確かめると、勇気を出して口を開く。

「薔薇の……洞窟でも美しく咲く白薔薇の花の、品種改良がしたいです」

 ほら見たことか、という顔で賢者が微笑んだ。あまりに尊大な微笑に神殿長が怒り始めるかと思ったが、彼女は未だ戸惑った顔のまま静かに話の続きを待っている。


「品種改良がどのようにして行われるか知っているかね? 望む特性のある品種の雄蕊おしべを取り、別の特性のある品種の雌蕊に触れさせ受粉させるのだ。より良い形質が表へ出るように、花へ地の祝福を授けることもある。全く魔術と関係がないな、ユーシウスよ」


 そう言って賢者は腰に下げた大きな革の鞄の蓋を開けた。中には片手で開けるくらいの小さな本が何冊も収められていて、彼はその中の一冊を取り出すとナーソリエルに手渡してきた。「書架の賢者様」だから、常に書物を持ち歩いているのだろうか? 革張りの本が多い神殿では見慣れない、紙表紙の安価な文庫本だ。題名は『木綿紙に代わる新たな植物紙の可能性について』。


「私の本だ、目を通してみたまえ」

 そう言われて、表紙の題名がさらりと読めたことに気づく。内容は紙を作るのに最適な植物についての考察と、実際に綿毛の繊維の短い綿花を育てた記録のようだ。


 なかなか面白そうだ。そう思って微笑むと、賢者が満足げに「それは君に差し上げよう」と頷いた。

「薔薇の研究を望む君へ、なぜこの本を渡したかわかるかね?」

「後半は、望む形質を得るために綿花を品種改良した実験記録です。また、土地によって相応しい紙の材質が異なることについても記されているようです。品種改良を学ぶ上で良い教材になるとお考えになったのでは」

「良い子だ、ナシル」


 その時の賢者の声が自分を褒めてくれる時の叔父そっくりに聞こえて、ナーソリエルは思わず黙り込むと、目の端からぽろりと涙をこぼした。とはいえ彼は賢者様であって叔父ではなく、アレイのようにきらめくような笑顔で頭を撫でてくれはしない。それでも何か失われていた自分の価値が戻ってくるような気がして、ナーソリエルは目尻に神官服の袖を押し当てた。





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