第二章 水の愛し子

一 十五歳



 神殿の生活は丁寧で美しいがやたらと規則的で、目新しいことは初めの年にほとんどやり尽くしてしまう。いつだって昨日と同じ、去年と同じな代わり映えのしない日々をしかめっ面で繰り返したナーソリエルは、前の冬で十五歳になっていた。


「春の祝祭では歌えませんでしたからね、雨季の音楽会は五曲予定を入れておきました」

 リュートの練習を終えて廊下を歩きながら、ヴァーセルスが明るい声で言う。ナーソリエルはそれを聞いてはたと立ち止まり、額に手を当てて再び並んで歩き始めた。


「ヴァーセルス、曲数は増やさぬ約束だったはず」

「おや、本来は春の分と合わせて六曲とするべきところを一曲減らして差し上げたのです。感謝なさい」

「そなた……」


 成人し枝神官ししんかんになって、ヴァーセルスとも多少気安い会話をするようになった。相変わらず周囲には煙たがられていたので枝の試験は危ういと思ったが、カイラーナの指導を受けながら進めた「既存の魔法陣を効果を維持したまま顕現陣へ描き直す」という研究は、魔術嫌いな上層部のお気に召すところだったらしい。ふたつは実は同じものであるという証明をしてやろうとナーソリエルが目論んでいるとは知らず、愚かなことだ。


「全く本当に、声変わりをしても貴方の美しい歌声が失われなくて良かった。新しい声にも慣れたようですし、水の神もお喜びになるでしょう」

「……はあ」

「おや、雨壺あまつぼの伴奏で歌えるのが楽しみではありませんか?」

「……まあ」


 雨壺は、水の神殿の儀式に使われる楽器である。周囲をぐるりと取り囲むように床下へ三十のガラスの壺が埋められ、そこに神官達が雨粒のように水滴を落としてゆくことで演奏する。水の神殿らしい美しくも不思議な音色の音楽は、確かに一度合わせて歌ってみたいと思わせるような魅力があった。


 とはいえやはり、祝祭の日のことを思うと気が重い。皆の前に立って歌うのはいつまで経っても慣れず、前日の夜はほとんど眠れない。


「五曲……」

「ああ、そうだ。最後の一曲は共通語で歌っていただきますよ」

「……なぜ」


 問えば、音楽会の準備となるといつも上機嫌になるヴァーセルスが滅多に見ない浮かれた笑顔で言った。

「フォーレス神殿から水の葉がひとり、移籍してくるのです。少しばかり特別な才能のある愛し子なので、祝祭の日に披露目をするそうで……ああ、貴方にはしばらく、彼の通訳をしていただきますから」


「……通訳」

「共通語が堪能な神官の中で、貴方が最も歳が近いのです。日常会話程度ならば水の神官の多くも可能ですが、神典の解釈や問答までも共通語でとなると、水では高位の方々に限られます。猊下達に通訳をさせるよりは、あなたがこちらの言葉を教育する方が望ましい」

「……教育」

「枝神官になったのですから、当然です。ファラの語学がある程度自由になったら、今度は気の種の名付けから担当することになりますよ」

「名付け……から」


 気が遠くなった。自分に五歳の子供の教師役など務まるはずがない……というより、絶対に泣かれるに違いないと思うと、考えたくない。


「……ならば私の名は、もしやヴァーセルスが?」

 ちらっと見上げると、この五年で随分視線の高さが近づいた元指導役は、気まずそうに目を逸らした。


「……ええ、まあ」

「感謝いたします。美しい名をいただきました」

「……いえ、別に」

「ふむ、『別に』とは……『神の導きあってのことです』ではなく?」

「ナシル」


 優位に立ったのを感じて、ふんと鼻で笑う。すると間髪入れずに「その笑い方はおやめなさいと言ったでしょう」と説教がきたが、ナーソリエルはもうその程度で泣いてしまうような子供ではなかった。笑みを浮かべて──なぜか側から見ると笑顔には見えないらしいが──数歩追い越し、階段の方へ向かう。


「では、私はここで」

「……また『勉強会』ですか」

 引き止めるように声をかけられたので、立ち止まる。

「ああ」

「最近、魔術のことを口にしなくなりましたね」


 ヴァーセルスの目が疑うようにすっと温度を下げた。彼のことはもうどこが嫌というわけでもないのだが、好き嫌いの激しい人であることには変わりなく、気に入らない言動をひとつすれば途端に冷たい目で見下ろしてくるようなところがある。


「ご不満か? 口にすれば叱責し、口を閉ざせば疑うと……一体私に何を望んでいるのか」

「ナシル」

「魔術ではなく、神典の研究しかしていない──それでは」


 研究棟を出て、図書塔へ向かう。人目の少ない最上階へと向かう途中で、何冊か追加の文献を手に取った。神典の外伝と呼ばれる、真偽不明の神話について解説された書だ。何かの参考になるかもしれない。


 重い足を少々引きずりながら十五階に脚を踏み入れると、書架の陰から砂色の髪の枝神官が顔を出した。

「──遅かったね?」

 疑問の視線をよこしたので、無言で両腕に抱えた本の山を見せる。


「ああ、たくさん持っていたから途中でへばったのか。相変わらずの体力だね」

「……これを探していて遅くなったという話だ」

「そんなに息切れしていたら説得力がないな。もう少し普段から運動したらどうだい?」

「黙れ」

「ナシル、言葉遣い」

「ふん」

「全く……で、それは何?」


 持ち込んだ文献にマソイが瞳をキラキラさせて興味を示したので、窓際の閲覧席へと歩きながら表紙を見せる。

「ハークの書の解説だ。著者は玻璃はりの賢者」


「……一体どこで見つけてきたのかな? 誕生の眷神けんしんハケアについて、神殿は外伝を一切認めないと教わったけれど」

「八階の隅だ。どうやら検閲を免れたらしい──見たまえ。ここに、ハークの書について『大地の書、第三章』との記載がある。かつては外伝ではなく、正典として編纂されていたようだ」

「……玻璃の賢者って三代前だよね? つまり除かれたのはそれ以降の時代? 随分最近だな……」


 ナーソリエルの隣に椅子を引きずってきたマソイが腰を下ろしながら該当箇所を目で追い、ぱらぱらと捲って全体に目を通すと、ちょっぴり顔を赤くしてパタンと閉じた。


「ねえ……ナシル、これ」

「多少気色が悪いが、とはいえ検証する価値はある」

「……気色が悪いの? 恥ずかしいのじゃなく」

「吐き気を催す」

「ふうん……まあこの内容なら、正典から外されるのもわかるかな」


 マソイが視線をうろうろさせて、そっと閉じた本を机の奥の方へ押しやった。しかしナーソリエルはそれに首を振り、緑の背表紙の本を再び引き寄せる。


「そなたのその思考もまた、神殿によって誘導されたものであると私は思うのだ。ここの引用を読みなさい。『オレースに導かれたアテンとエナは、大地の恵み豊かな岩窟に草のしとねを作り、そこへ横たわった。アテンがエナの瞳の色を褒めると、エナは言った。"初夏の梢に浮かぶ光のような美しき緑の兎が、私の夢で告げました。私は貴方と──」

「わあぁ! ちょっとナシル! ナシルやめてよ!」


 案の定慌て出したので、尋ねる。

「何が、穢らわしいと感じる?」

「ええっ? 言わせないでよそんなこと……」

 すっかりもじもじとなってしまったマソイを、冷めた目で見る。


「よく読みなさい。オレース、つまり求愛の神に導かれた男女が、誕生の神ハケアの御使いの祝福を得て、地神テールの祝福豊かな地で新たな命の誕生を成す──神の導きと恵みに関する事柄が、何ゆえ排除されたか……その理由について、詳細を洗う必要があるとは思わないかね?」

「……ナシルだって『吐き気を催す』とか言っていたじゃない」

「それは個人的な感情の問題だ」

「ああ言えばこう言う……」

「それに見なさい、エナの母親は樹木の妖精だという推論がここに記載されている。誕生の神秘に関する重要な箇所で、母体となる女性が人ならざるものとの混血であると。ならばなぜ、神殿では異種族間の婚姻が禁じられているのか……」


 寄り添って座る恋人達の挿絵を見ないようにしながら、マソイがふうむと眉を寄せ、曲げた人差し指の背を顎に当てた。

「……やはり、改訂前の過去の神典が手に入らないかな。ハークの書を丸々抜き取るようなことをしておいて、その経緯もわからないなんて」

「その一切の記録が図書塔に存在しないことも、懸念すべきだ」


 本を閉じると、生真面目な同僚がほっとした顔をする。ナーソリエルが次いでその隣の書籍を引き寄せると、マソイはそっと横から背表紙の題名を覗き込んで「これは大丈夫そうだ」と手に取った。





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