二 勉強会



「こっちは鍛錬の神の書か……へえ、怠惰の章。本当に、どこから見つけてくるんだか。あ、紅の鐘まであとどのくらい?」


 振り返って壁の時計を見る。できるだけ魔術を排除しようとする神殿らしく、完全な機械式だ。

「四十分」

「おや、今日はもうあまり時間がないね。次はいつにしようか」

「祝祭の後に。歌の練習をせねばならぬゆえ……」

「そうか、声も安定したものね。楽しみにしているよ」


 二年ほど前に声変わりを終えているマソイが、弟分を愛でるような微笑ましげな目をして言った。

「もう成人だなんて、ナーソリエルも大きくなったなあ。そろそろ背も追い越されそうだ」

「煩い」

「ほら、言葉遣い」


 説教は無視して、持ち込んだ木綿紙に重要そうな箇所を書き写す。本当は万年筆を使いたいが、気の神殿なのでミミズクの羽ペンにインク壺だ。先をナイフで削って整えるのは結構面白いので、そこまで不満は大きくないが。


 一年ほど前から、こうしてマソイと図書館に籠もって定期的に神典の検証をしていた。葉神官の時には少々間抜けだった彼だが、何でも素直に吸収する性格が良い方向に働いたらしく、何事も偏見なく見聞きし判断できる優秀な気の神官になったようだ。嫌いなものが多すぎるナーソリエルを手のかかる子供のように見るのと、雲の布団で眠る虹色の小鳥がどうとかいう夢見がちな詩を日記帳にしこたま書きつけているのが玉に瑕だが。


「そうだ。新作が溜まってきたから、食事の後に見せるよ。十編くらいあるんだ」

「結構だ。トルスかアミラに見せれば良かろう」


 また面倒なことを言ってきたので手を振ってあしらうが、マソイは何をどう勘違いしたのかにっこりして頷いた。


「勿論、見せる時はトルス達も一緒だよ。いつもそうしているじゃない」

「トルスとアミラに見せれば良かろうと、そう言っている」

「だってナシル、なかなか鋭い批評をくれるんだもの。かなり辛口だけど」

「なぜ辛口なのか、考えてみたことはあるかね?」

「厳しい指導には愛が隠れているものだって、カイラーナが言っていたよ」

「あの水のような御仁と同じにしてくれるな」


 言い合っている間に夕食の時間が近づいてきたので、うんざりしながら長い階段を下りて食堂へ向かった。しかし今夜は確かトルスが食事当番なので、味には期待できる。


「──我らが敬愛する風の神エルフトよ、大地の恵みをもたらす女神テールよ、この食卓に与えられた恵みを、感謝と懺悔をもっていただきます。我らのために失われた獣達の命に祈りを捧げ、その命に相応しく生きることを誓います。世の飢える同胞らにこの恵みを譲れぬ弱き我らをお許しください」

「ユ・アテア=ティア・ハツェ」


 地の枝神官の祈りに合わせて、古語で合唱する。朝昼は仕事の合間を縫って各自でとるが、夕食は皆で揃って食べる。故に食前の祈りも、皆で共同だった。相変わらず謝ってばかりで、大変気に入らない。


 薄味のスープとぱさぱさのパン、チーズ、ハムが一切れに、酢漬けの野菜。多少の変動はあるが、神殿の食事はおおよそこんなものだ。質素だが、元々少食なので特に不満はない。問題は、この後に控えている風呂の時間だった。こればかりは、神殿に入って五年経った今も苦手なままだ。


 食事を終えると談話室に移り、マソイがいそいそと取り出した日記帳を遠い目で受け取る。今度は茜色の夕雲に小さな竜の子供がすやすや眠っているらしい。駄作だというほど粗末な詩でもないが、思考が甘ったるすぎて読んでいられない。


「そろそろ着替えを取りに行こうか」

「そうだね」


 回し読まれた詩集を受け取りながら言ったマソイに、トルスが頷く。彼は出会ったばかりの物静かな印象のまま、ぐんぐん背が伸びたナーソリエルと反対に、少し小柄で中性的な容貌をした枝神官になっていた。おっとりと優しい印象なので、気というよりは地の神官に見える。この若さで葉神官が三人も枝に上がるのは珍しいらしく、一時はそれなりにもてはやされたが、一人試験に落ちて取り残されたアミラが焦ってしまうので、ナーソリエル達は階位についてあまり口にしないようにしていた。


「じゃあ、おやすみなさい。気の祝福を受ける良い夜を」

「貴女にも、夜半の神の恵みが豊かにあらんことを」


 女子塔へ上がってゆくアミラを見送ると、一度部屋へ戻って軽く歯を磨き、着替えの入った籠を取って大浴場の階まで下りる。浴槽は術で出した水を浄化しながら使っているので、浴室は汲み上げの楽な地下ではなく、男女それぞれの塔の真ん中あたりに作られていた。


 脱衣所に入ると一番隅を陣取り、部屋の角に体を向け、入浴用のトーガを背中に掛けてその陰でさっと服を脱ぐ。そして素早くそのトーガを体に回して腰で結ぶと、簡素だがひだが美しい湯浴み着になった。


「相変わらず見事な手際だよね……ナシルも、トルスも」

 ナーソリエルと、反対側の角でこそこそ着替えているトルスを交互に見て、マソイが笑った。その周りで着替えている枝神官達も、釣られて笑い声を上げる。その声に苦笑いで振り返ったトルスと目を合わせ、やれやれと小さく首を振る。一応皆の方へ背は向けるものの、上半身裸になっていてもあまり気にしない様子の彼らの思考は、五年を経た今も全くの謎だった。


「トルスは、実は女の子だったりしてな」

 近くで着替えていたドノスが朗らかに笑った。そしてあろうことか、さっとトルスの正面に回って着替えを覗き込もうとし、その前にヴァーセルスが彼のトーガを掴んで背中からぐいと引いた。


「やめなさい!」

「うわ、脱げるって!」

 ドノスが慌てて腰の結び目を押さえ、目を丸くしていたトルスがその隙にさりげなく距離を取る。


「全く、ちゃんと話し声も歌声も男声でしょうに。トルスはナシルと同じ、病的な恥ずかしがりなのですよ。ナシルと違って重度の潔癖でないだけ、まだ健全ですが」

「病的って、ヴァスル……」


 マソイが楽しそうにこちらを見てくるので、眉を寄せて見返す。トルスがこちらへ逃げてきたので、珍しく三人並んで浴室へ向かった。


 水の祝福豊かな大浴場は、貴族の屋敷の風呂のように洗い場と浴槽が分かれておらず、全体が大きな泉のようになっている。ぬるめの湯にざぶんと頭まで潜ると、床に仕込まれた浄化の陣が全身の汚れを分解してくれるのだ。こんな薄着の状態を他者に見られる苦痛を無視すれば、大変に気持ちの良い風呂だった。


 はじめに全身を浄化してから陣の真ん中に少し魔力を補充し、端の方の浅い場所に腰掛けてゆったりと疲れを癒す。水中は浄化だけでなく癒しの領域でもあるので、浸かってしまえば心の負担はそう感じない。それに、葉の頃は種の子供達が溺れないか見張る仕事もあったので、枝になってずっと気楽になった。特に火持ちは水に潜るのを怖がる子供が多く、そうでなくともナーソリエルの顔を見るだけで泣き出すことも多いので、世話が面倒なのだ。


 脱衣所の空いている頃合いを見計らって手早く寝巻きのローブに着替え、暗い階段をランタンで照らしながら部屋へ戻る。歩いているのはナーソリエルひとりきりで、トルスとマソイはいなかった。着替えを見られたくないトルスは誰よりも先に上がってしまうし、ナーソリエルも他者と逐一連れ立って行動するような趣味はない。


 部屋に入って鍵を掛け、壁の釘にランタンを下げる。「ルシラ」の顕現陣が刻まれているだけの神殿のランタンと違って、ナーソリエルのそれはこっそり改造した魔導式なので、光の保ちが抜群に良い。カーテンに仕込んだ遮光の陣が発現していることを確認し、ランタンの底面に隠された魔法陣のひとつに触れると、ナーソリエルの少ない魔力でも光が大きく広がって部屋中を煌々と照らした。こうしておくと、真夜中まで好きなだけ作業ができるのだ。


 枝神官になると、葉までと違って自分の研究を進める時間が与えられるものの、ナーソリエルの研究室の鍵は指導役であり共同研究者であるカイラーナも持っている。「本当に研究したいこと」の資料を置いておくのは危険だった。


 物入れを利用して作った魔導金庫から昼間図書館で写した資料を取り出し、以前から集めている書類と比較しながら文献の信憑性を探る。あまり夜更かしすると階段の上り下りで体力が尽きるので、短時間で終わらせようとナーソリエルは紙束を睨んで全神経を集中させた。彼はあまり夢中になると時間を忘れて空が明るくなるまで続けてしまうような性格をしていたが、しかしその心配はない。きちんと時間を計算してランタン魔力を注いであるので、ある程度のところで明かりが消えて真っ暗になるのだ。


 そしてナーソリエルは時間まできっちり神典の分析をして、寝る前に少し読書でもしようと枕元に弱い明かりをつけ直し、寝台で横になって植物学の本を開いた。途中で明かりがチカチカと弱まったが、そうすると無意識に手を伸ばして魔力を補充していたことに、かなり空が明るくなってから気づいた。


 結局寝不足になって次の日は貧血を起こし、お節介焼きのマソイとヴァーセルスにかなり長々と叱られてしまった。





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