五 音楽の授業




 楽しいことを考えながらなんとか掃除をやり過ごした後は、昼食まで音楽の授業だった。ヴァーセルスと顔を合わせるのは気が重いが、しかし予定表をもらった日から楽しみにしていた科目なので、やっぱり少し心が踊る。


「専門的には声楽と、新しくリュートも始めてみましょうか。その後は擦弦楽器さつげんがっきもいくつか。様々な楽器に触れておくと、歌声にも幅が出ます」


「あの笛の演奏を、教えていただけませんか」

 勢い込んで願った。「笛?」と首を傾げたヴァーセルスに説明すると、彼は「ああ、ルフィアルの竪琴ですか」と呟いて難しい顔をする。


「あれは、あなたには向いていません」

「練習します」

 胸の前でぎゅっと手を握って懇願する。が、枝神官は聞き分けの悪い子供を見る目でナーソリエルを見下ろし、言った。


「体質の問題です。ナーソリエル──あのロウソクの火を、陣を使わずに消すことができますか?」

 ヴァーセルスが振り返って、少し離れた窓辺に置いてあるロウソクを指差す。指先から魔力の気配が飛んで、ポッと小さな火が灯った。


「……できません」

「あのロウソクを倍の距離で三十本、それぞれの炎を全て違うリズムで揺らすよりも、もっと力を消費します。もしそれが可能な程度までの祝福を授かったら、その時には教えて差し上げましょう」

「……はい」


 また、魔力だ。

 また魔力が足りなくて、美しいものに手が届かない。


 想定よりもずっと落胆が大きかったからか涙が滲んできて、ナーソリエルは俯いた。あの綺麗な音を、自分も奏でられると思ったのに。あの音色があれば、ここでもやっていけると思ったのに。正面から「……えっ」という驚いたような声が聞こえたので、顔を背けて表情を隠す。


「……泣くほど、好きな音色でしたか?」

 ヴァーセルスが小さな声で言った。顔を上げると、魔力に恵まれた若い枝神官は椅子から半分立ち上がり、中途半端に持ち上げた両手を迷うように空中でゆらゆらさせている。随分と間抜けな格好だ。


「……いいえ」

「……一枚手に持って、音を出してみますか?」

「……いいのですか」

 思わぬ提案に、声が少し上ずった。


「……ええ、まあ」

 ヴァーセルスが壁際の木箱に歩み寄り、程なくしてナーソリエルの頭ふたつ分くらいの大きな楕円形の板が渡される。淡い灰色に染められた艶のある木製で、顕現陣の意匠に近い細かな蔓草紋様が描かれていた。そして真ん中に、三本の弦が張られた細い隙間。


 ふうっと息を吹きかけるが、鳴らない。祈りで増幅させなさいと助言され、今度は魔力を込めながら吐息以上の風を巻き起こす。風の魔法は苦手だが、全くできないわけではなかった。


 ヒューと、か細く掠れた音が鳴った。全く美しくない。眉を寄せてじっと板を見つめ、もう一度。今度は少し音が太くなったが、掠れも大きくなった。


「息の届く範囲で五、六枚なら演奏できるようになるでしょう。空き時間に練習なさい。今日はこちらです」

 板笛を取り上げられ、リュートを渡される。梨を半分に割ったような形をしていて、表の板には貝が嵌め込まれた美しい楽器だ。もう少し笛を練習していたかったが、こちらにも興味を惹かれてそっと磨かれた胴を撫でてみる。


「竪琴をたしなむならば、右側の細い弦が高音、そこから太くなるにつれ低音になるのはわかりますね? つまみが大きく上段と下段に分かれていますでしょう。まあ調弦は曲によって変えるものですが、ひとまず下段の高音から二本ずつファ・レ・ラ・ファ・レ、上段は一本ずつミ・レ・ド・シ・ラです。合わせてご覧なさい」


 どうぞというように手で指し示され、ナーソリエルは手の中のリュートを見下ろして困り顔になった。

「あの……音叉とか、何か」

 基準になる音がないとどうしようもない。見上げると、ヴァーセルスは一瞬きょとんとした顔になって、そして「おや、そうでしたね。しばらく使っていませんから、どこへやったか……」と言いながら後ろの棚を漁り始めた。


「……ルーレの耳をお持ちなのですか」

 音楽の神に愛された、あらゆる音を記憶できる特別な耳のことである。

「え? ああ、そうですね。私はエルフト神というより、彼の愛娘であるルーレ神の祝福を強く受けているようですから。故に神殿音楽と、副学として数学の研究をしています」


「音楽は数学であるから?」

 確か父がそんなことを言っていたなと思い出しながら問うと、ヴァーセルスは引き出しのひとつから小さめの音叉を引っ張り出しながら振り返って微笑んだ。


「数学者はそのように言いますが、私に言わせれば『数学は音楽である』と、そう思いますね。複雑に絡み合いながらも調和する楽曲のように捉えると、数式は途端に全てが精緻に意味を成し始めます」

「数式を、楽曲として捉える」

「ええ」


 この人に数学を教わるのは少し楽しそうだ、と考えながら音叉を受け取る。時々意地悪な物言いをするが、それでも綺麗なものを綺麗だと言える大人ではあるらしいと、簡単な和音の弾き方を教わりながらナーソリエルは思った。


 が、その後はやはり喧嘩になった。はじめは「葉神官達とはどうですか」とかいった意味のない雑談だったのだが、何かにつけてすぐに懺悔する神殿の祈りがおかしいと指摘したナーソリエルに対して、ヴァーセルスが一切聞く耳を持とうとしなかったのだ。


「──人間は欲深い性質を持った生き物だ。己の言動を振り返り、悔やむからこそ、人は善の存在でいられるのです」

「ですから、そうして自分の在り方を見つめ直すような祈りそのものが間違っていると言っているのです。祈りとは神を賛美し祝福を願い、また忠誠を誓うものだ。自らの心根がどうこうというのは関係がないでしょう。そういうことは自分自身で解決すればいい」

「個人的な事柄については祈ってはならないと? 果たして神はそこまで狭量でしょうか? 敬愛する神に導きを願うことは誤りではありませんよ」

「たとえそうだとしても、他者に分け与えられない自分について神へ謝罪するのはおかしい。我々は創造神の被造物であれ、神の持ち物ではない。神が造られた世界を手放されたからこそ、全てに自由があるのだから。未だ己が神の手の中にあるように振る舞うのは傲慢が過ぎる」

「愚かな。もう自由だと言って勝手に振る舞うことこそ、恩恵を忘れた傲慢な振る舞いではありませんか」


 そこでヴァーセルスが叱りつけるような低い声を出したので、ナーソリエルの心は呆気なくぺしゃりと潰れてしまった。唇を噛んで黙り込み、ヴァーセルスがやっていられないという様子でため息をつく。


「──まあまあ。どちらも正しく、どちらも間違っていると私は思いますよ。人は愚かで、小さなものだ。きっとこうして問答を重ねることこそが、叡智の神の望まれるところです。言葉をぶつけ合っても、決して心をぶつけ合ってはなりません。ほら、笑顔になって」


 通りすがりに音楽室での言い争いに気づいて仲裁に入った神枝長のカイラーナが、穏やかに微笑んで二人の肩に手を置いた。慈しみを感じる優しい触れ方だが、正直に言うと気安く触らないでほしい。諭されたヴァーセルスが「そうですね、議論は闊達に生き生きと為されるべきだ」と呟いて笑みを作る。しかしナーソリエルはまだ気持ちの整理がつかなかった。


「私は……」

「ナシル、あなたは少し風に当たるといい。私の研究室の蔵書を見せてあげましょう、ヴァスルもそれでいいですね?」

「はい、猊下」


 ヴァーセルスが従順に頷く。「風に当たる」とはそのままの意味ではなく、「気分転換をして思考をすっきりさせる」という気の神殿独特の言い回しだ。ここに来てもうトルスからだけで三度も言われたので覚えた。カイラーナが微笑んでナーソリエルの手を引いたので、もごもごと小さな声で授業の礼を言い、音楽室を出た。


「……私は薬学と、それから顕現陣と魔法陣の違いについて研究しているのです。月の塔の魔術師達ともいつか互いに歩み寄れる日々がこないかと、そう思って。貴方もそういう考えをお持ちだと聞きましたよ。研究資料を見せてあげましょう。興味があるでしょう?」


 試験の問答で話した内容が伝わったのだろう、歩きながらカイラーナがにっこりとナーソリエルの顔を覗き込んだ。「いつかは共に祈りたい」なんて言ったのは嘘っぱちだったが、しかし二つの異なる体系の術式を比較するのは面白そうだったので、思わず笑顔になって頷いた。


「はい、神枝長猊下」

「好奇心旺盛な、良いお返事です。ふたりの時はカイラーナで構いませんよ。実はね、『猊下』なんて呼ばれると皆が少し遠く感じて寂しいのです」

「はい、カイラーナ」


 階段を上り、上層の研究室へ向かう。枝神官以上はこの研究塔に個人の研究室をもらえるのだそうで、ナーソリエルは今から十五歳が待ち遠しかった。


「神殿の扉に鍵など必要ない、と言う者もいますが……私はあった方が良いと思います。種の子達は無邪気ですからね、研究室を探検しようと思ったら危ないですし──部屋を間違えて着替え中に私室の扉を開けてしまったりしたら、お互い気まずいでしょう?」

 カイラーナが少し悪戯っぽく笑って、研究室の扉に埋め込まれた丸い真鍮の板に触れる。淡い灰色に花の絵が浮かび上がり、カチャッと鍵の開く音がした。


「どうぞ」

「お招きに感謝いたします」

 胸に手を当てて頭を下げる。神殿なので片足は引かない。


 少し薄暗くて狭い部屋に、天井までの大きな本棚。丈夫そうな樫の木の机には山積みの書類、羊皮紙と木綿紙が半々くらい。手元を照らす魔石のランタンには、今は光が入っていない。


 実に素敵な研究室に胸を躍らせながら、カイラーナの研究資料を見せてもらう。彼の話は難しかったが、どちらかというと教師然とした叔父と違って研究者としての気質が強いらしく、その小難しい口調が格好良くてわくわくする。


「御覧なさい、こちらが光の神官が使う明かりの顕現陣、こちらが魔導ランタンの中に組み込まれている照明の魔法陣。こうして薄紙に描いて重ねると、二重円環の直径比がピタリと一致するでしょう。それにほら、ここの弧と、顕現陣の蔓の曲線が、四ヶ所も重複しています」

「……本当だ」

「魔法陣は顕現陣から生まれ、その後独自の発展を遂げてきたと言われていますが……近い現象を発現させる陣は、こうして重複箇所が多く存在するのです。ナシルもご存知の通り、顕現陣は祈りの紋です。科学的な根拠でもって物理現象を引き起こすのではなく、祈りによって奇跡的な神の力を顕現させます。ならば神官より科学者に近いと言われている魔術師や魔導師達も、その実は自覚なく祈りの手順を踏んでいるのではないか──そういう視点でこの分野を研究しています」


「……魔術師も、祈っている」

 その可能性については考えたことがなかった。面白そうなことをまたひとつ見つけて、唇の端で小さく笑う。


 神殿は話せば話すほど孤独になってゆくような場所だったが、それでも全部が嫌なことばかりなわけではない。美しい音楽があるし、学べることもたくさんある。それに、彼にとってここはいつか賢者になって出てゆく場所だ。ちょっとくらいひとりぼっちでも、その間くらい我慢できる、できる──ナーソリエルはそう自分に言い聞かせ、少しだけ意識してピンと背筋を伸ばした。





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