ベンチ(過去)
第1話。ファーストインプレッション・バケーション
キーンコーンカーン。
聞きなれた音色に繰り返される旋律。いつからか習慣と化した足取りは、昼休みの開始を告げるチャイムと共に、人気のない校舎裏へと向けられるようになっていた。
ほどなくして見えてくる一つのベンチ。ひっそりと佇むその上へと腰を下ろしては、そのままの流れで横になる。
少しばかり長さが物足りないが、それでも膝から上はベンチの上だ。
――視界に映る青空を静かに見送っては、そっと目を閉じる。
早朝からのバイトに早すぎる弁当。若干の空腹感に苛まれながらも、疲れからくる眠気には到底勝てそうもない。
携帯のアラームはすでにセット済み。時間が来ればその身を震わせることで穏やかな起床を促してくれることだろう。
瞼の裏側をぼんやりと眺めていると次第に薄れていく意識。眠い。飾り気のないたった一つのそんな思いに身を任せては、暗闇へと深く沈んでいく。そして――。
『気が付くと膝の上には女子生徒がいた』
ホワイ……。思いもよらぬ光景に開けた目を咄嗟に閉じる。薄っすらと瞼を開けては、ゆっくりと目の前の現実を垣間見る。
ぼやけた視界に映るのはスラリと伸ばされた背筋に特徴的な長い黒髪。着崩されていない制服は、どこか凛としたその横顔に似つかわしい。
一言でいえば清廉潔白。付け加えるのなら大胆不敵。膝の上にはこの学校に在籍していれば誰もが知る有名人がいた。
『会長』だ。
――いや名前は?
寝起きの頭に無駄な労力をかけたところで、そもそも誰に対してもほとんど接点を持たない自分のことだ。例えどこかで耳にしていたとしても、自身には関係のないこととして、恐らくは聞き流していることだろう。
とりあえず会長の名前は暫定的に会長ということにしておいて、今は分からないことはそのままに、優先すべき事柄に専念することにする。
要するに何故会長がこちらの膝の上にいるのかということだ。
まぁ、考えたところで分かるわけもないのだが……。
元より寝ている人間の膝の上に座り込むというぶっ飛んだ発想の持ち主ゆえ。実行に移す大胆さと豪胆さを加味すれば、最早通常の思考回路で推し量れる相手ではない。
プラスアルファ。会長は膝の上に座るだけでは飽き足らず、会長自身の膝の上に弁当箱を広げては昼食に勤しんでいる。
一体会長の何がそうさせているのかは知る由もないが、ただ一つだけ言えるのは、その正された姿勢と気品を感じさせる動作。その二つだけは正に話に聞く会長像そのものだということだ。
だからこそ余計に今目の前にしている会長が、異質なものとして際立って見えてしまうのであろうか。
会長は言うならば、一見無秩序に見えながらも極めて秩序だった状態で常軌を逸し続けている。その堂々たる振る舞いは、むしろ今の姿こそが本来の姿だとでも言わんばかりだ。
生徒という分野においては、完璧を体現したような人間。当たり前のように会長という立場にあるのは教員と生徒、その双方から寄せられる信頼と人望の厚さにただ会長が応えたというだけに過ぎないのだろう。
文武両道、高潔無比か……。
会長を勝手に自分とは縁遠いところに位置付けては、ちょっと待てよと急に冷静になる。
いくら優れていようともその前提として膝の上に座っているようでは、いいところチジョだ。
ただそれを除けばむしろ会長は誰よりも会長然としているというのだからもう何が何だか分かったものではない。
「ごちそうさま」
気が付けば綺麗に片づけられた弁当箱を前に手を合わせている会長。膝の上に座っているという点を考慮しなければ、それは極々普通の食後の挨拶といえるだろう。
ふと――、気を抜いていたところに何の前触れもなく会長から向けられる視線。薄っすらと開けた視線のその先で、うっかりと目が合ってしまったような気もするが……それはきっと気のせいだと誰か言ってほしい。
どこまでも誤魔化すように落ち着いた呼吸を繰り返しては、眠っているという体を装い続けるこちら。当たり前だが、瞼を完全に閉じていては、視覚的な情報も一切入ってこない。
頼りは耳だけなのだが、あからさまな物音も聞こえてこない以上、完全に警戒されてしまっているのか、状況の把握もままならない。
静寂の中で繰り広げられる不毛な我慢比べ。いつ終わるのかも分からない無言のやり取り。しかし永遠に続けられるものでもない。
ほどなくして訪れる歓喜の瞬間。解放の時。膝の上から消えた重さにさよならを決め込み――続けざまに置かれた新たな重みに対して、無表情の下で目を引ん剝く。
束の間の安堵も急転直下。どうやら会長にこちらを解放するつもりは元からなかったようだ。
ベンチから徐々に遠のいていく足音。完全に聞こえなくなったところで、周囲を窺いつつゆっくりとベンチの上へと上体を起こす。
「弁当箱……?」
桃色の無地のハンカチに包まれては、自然と浮かび上がる角のない輪郭。つい先ほどまで目にしていた、同色の弁当箱と形状が瓜二つだ。
しかし軽い。これだけ軽いと逃げ出せるのではないかと一瞬錯覚してしまいそうになる。
ただやり過ごすことを念頭に狸寝入りを決め込んだ以上、今更その方針を覆したところで待っているのは自白以外の何物でもない。
百歩譲って逃亡を図るとしても、道中に会長ともし出くわしでもしたらと考えればあまりにもリスクが高すぎる。
「万策尽きたか……」
膝の上の包みをぼうっと眺めながら、人一人とどめておくのに必要な重さはこんなものなのかと無駄に感心していると、微かに耳に届けられるそれらしい足音。慌てて体を横にしては、どんな体勢だったっけと身じろぎしながら目を瞑る。
予期した通りにこちらのすぐ傍で音が止んでは、作られた静寂にしばらく耳を傾ける。不意に額へと乗せられるひんやりとした冷気の塊。滴り落ちる水滴が額を伝う。
間を置かずに役目は果たしたと言わんばかりに重みを失くす弁当箱。離れていく軽快な足音が聞こえなくなったところで、またゆっくりと目を開ける。
額に乗せられた『それ』を落とさぬようにと手にしては、一人ベンチの上へと腰かける。
「アップルジュース……」
胸元の携帯が緩やかな起床を促している――。
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