第4話
第二章 「夢と夢」
土曜日の朝。外は異様に晴れていた。秋晴れに近い空。自分の部屋、二階の窓からは場違いにきらきらした光が流れ込んできていて、昨日飲んだ缶チューハイの空き缶が光を反射していた。眠れない日はお酒を飲んで寝てしまう。ほぼ毎日に近いけど。それでも私がお酒を覚えたのはほんの最近のこと。商店街の裏路地には、まだ年齢確認なしでお酒が買える古い自動販売機が残っていた。数ヶ月前にそれを夜の散歩中にたまたま見つけたのだ。だからアルコールへの耐性はそれほどなくって、チューハイを二本も飲んで、感情のままに頭をぐるりぐるり振り回して暴れたらすぐに眠気がよってくる。そして、起きたら肩や首すじの筋肉がこわばって体中が重たい。そんな感覚。そして気分も下を向く。途方もない量の無為が押し寄せて来て死にたくなる。
そんな不健康なことはやめたらいいと思いもするけど、そんなことをしなくっても、どうせ眠れなくて不眠を続けた頭は毎日重たい。「どっちでも同じなら、眠れた方がましだよね」そう結論付けてそんなことを繰り返すのだ。そのうちアルコール中毒になるかもしれない。「そうしたら、その時は医者に行けばいいよね」そんな軟弱な発想だった。お酒に溺れるかわいそうな私に酔っていたのもあるのかもしれない。
だから、今日も今日とて、私は死にかけていた。部屋の塵が舞い、半透明な空気がゆらゆら揺れる。だけど私の眼はそれを不衛生なものとは写さない。美術の教科書で見たことのある、蒔絵で描かれた絵巻物の雲のように、銀にたなびいているように映るから。そうして、そんな部屋の中で輝くアルミ缶の、重さの無いかがやきが無性にきれいに見えた。どうでもいい光景がいやにきれいに見える。死にたい気分もそんなに悪いことばかりでもないのだ。そのくせ夜景とか楽しげな写真の納まった卒業アルバムとか、みんなが「いいね」とか「きれいだね」なんて言うものを見たって、「死んでしまえ」としか思えないけれど。
酔った景色もなかなかいいものだけど、今はさっさと空き缶を片づけてしまわないと。母に見つかったら、せっかく不可侵になっていた私たちの関係は、「常識ある大人の責任」によって、「親子」に戻ってしまう。そうして少々ヒステリー気味な説教を長々とされてしまうに違いない。しかも的外れな。
「なんでそんなことばかりするの! 大人になればいくらでも飲んでいいんだから! 不良ぶった好奇心は捨てなさい!」なんてことを言われるのは目に見えている。それはいやだ。だってそんな考えでやってるんじゃないのに。的外れな理由で怒られるなんて、そんなの理不尽だ。だからコンビニの茶色いビニール袋に、潰した空き缶を入れてバックの中へ隠す。海と遊びに行く時に、どこか通り道にある自動販売機の横のゴミ箱へ捨てればいいのだ。
そんな姑息なインペイ作業が終わると、私はまた布団の上へ倒れ込む。海との待ち合わせは一時から。枕元の携帯をたぐり寄せて画面を見たら、海から一件メールが入っていた。送信時間は夜中の三時。
そんな時間まで何やってるんだろう。
疑問を抱きながらも、私はただ時の過ぎゆくままに待った。そうして待ち合わせの一時間前、ようやく適当な服を見繕うと、誰もいない室内に分かれを告げて家を出る。真昼の日差しは強く、背中を押されるような力強さを持っていた。でも、季節は真夏のようなゆらめく幻想の香りを失っていた季節だから、私にはその日差しが、ただ終わりゆくものの寂しげな視線に感じられて、孤独の幻影に悩まされた。歩みすらままならなくなった私は、満たされない何かを痛みで埋めるしかなかった。しばらく道ばたにしゃがみ込んで虚無と焦燥の過ぎ去るのを十分ほど待つ。それからなんとか歩き出せそうだと感じて、近くのコンビニへ入ると小走りにトイレへ逃げ込んだ。そうして鞄からカミソリを取り出すと、利き腕とは逆の左の袖をまくり上げて、カミソリの刃を皮膚に押しつけた。刃が肉に食い込むような感触を無視してゆっくりと刃を引く。ぴりぴりと皮膚の裂ける音が骨をつたって耳の奥へ入り込んでゆく。
痛みは私の孤独を恍惚に変える。
血は赤く、熱を帯びていて、自分が「生きてる」って実感をくれる。「病的な私」という自意識は、私が周囲よりも思想家であることの証だと信じている。
だからこの儀式のような行為は、私が私であることの証明なのだ。「取るに足りない一般」として社会の大きな流れに消費される存在ではなくて、かけがえの無い、他の誰かでは代わりの効かない「特別」であることの証が、手首を切るという簡単な行為で手に入るのだ。
感傷の大きな重力に耐えきる為に自分の手首を切り刻み、その結果として自分が取り替えの効かない自分であることが証明出来る。
この三つの意味のために、今、流れ落ち、滴り落ちる、真っ赤な色彩とぬくもりが私には必要なのだ。
痛みのやさしさに包まれて、満足した私は、鞄のポケットから止血の道具を取り出す。一旦ちり紙で血を拭いて、傷口を縫ったように止めるテープを幾本も使って塞ぐ。それから大きめの絆創膏を貼ると、包帯を少しきつめに巻いて締め付ける。これで血がたれてこなければ止血は完了。海に「少し遅れる」と短いメールを送ってトイレの個室を出る。
トイレの前では、空くのを待っていたおばさんが何か言いたげな視線をこちらへ向けているのを心の中で「何見てんだよ」と、罵った。何も買わないのも悪いから、ミントのガムをひとつだけ買って外へ出る。何も変わらない日差しがまた私を押しつぶそうと照りつけていたから、私は世界を呪いながら、さっき買ったガムを一粒口に含んだ。ミントの人工的な香りが鼻腔を駈けるのと一緒に、海のところへ向かう為、私も駅のホームへと駆け抜けた。
「遅い!」
私が待ち合わせの場所へ着いたのは、予定の時間を二十分も過ぎてから。長袖で隠されたはずの私の手首を流し目に見ながら、海はそのことには何も触れずにいつも通りの口調でふくれた。
海は私を特別扱いしない。私は病気であることで自分の特別なことを証明しようとしているけれど、彼女はそれを知っているのだろうか。私のこの気持ちを。だから何も告げないのだろうか。それともいつもみたいに「そんなことしても、特別にはなれないよ」って笑うのだろうか。なんにしても、直接的なことは、核心をついたことは言わないのだろう。それが彼女の主義なのかはわからないけれど、あえて遠回しに私に現実を見せることしかしないのだろう。
「ごめん」
そう謝ると、
「別にいいよ。早く行こう」
とだけ簡単に言った。
映画を見て、洋服を見て、安っぽいアクセサリーを買って、とりあえずは楽しくないことは無かった。一通り遊び終わって、私たちは暗くなった歩道をぶらぶらと歩いていていた。
空は暗い青の色をしている。まばらな星が街から響く人工の大きな音とか大気の流れに薄められて、いつもと変わらないはずの空の色は違って見えた。私の頭は日常的な大勢の流れにしびれてしまって、嘘だと思っていた筈の、楽しげな世界に呑みこまれてしまっていた。
絶望は薄められて、都合のいいフィクション映画や、まぶしいほどの洋服やアクセサリーの幼稚なゆらめきが、隣にいる海の体からとけ出すセンチメンタルと混じり合って、眠たくなるような熱を発している。
「今、楽しいって思ったでしょ」
海は私の横を並んで歩きながら、いたずらっぽく笑った。
「そんなことないよ。死にそうだよ」
深刻な自分を見せてしまったから、今さら遊んでたことが楽しいなんて言えなくて、嘘をついた。本当は、一般という名の大衆が放つ熱にうかされて「楽しいな」なんて、少しだけ思ってしまったのだ。彼女はそれを目ざとく感じ取って、心臓にささる一言を投げつけてきた。
「馬鹿だ。やっぱり馬鹿。楽しいって思ったくせに」
「……」
彼女にはなんでもお見通しで、何を隠したって無駄な気がした。だけど、
「あたしもそうだよ」
「えっ」
海は突然目線を落としてつぶやいた。
「ほんとは楽しいんだよ。遊んでる時とかは。でもさ、そんなの一時的なもので、普通の生活に戻ったら、急にかなしくなるんだよ」
私は戸惑ったけれど、海はそんなこと関係なさそうに歩く。
「その時だけは忘れていられる。でも、いくら遊んだって現実は変わらないし、遊んでいられるってことはそれほど深刻じゃあないってことになってる。だからあたしは病気だなんて言えない。言いたいけど言えない」
「でも、今はいいや」と海は話を途中で終えると、「こっち来なよ」と私をしたがえて駅の方へと戻って行く。
「どこ行くの」
「どっか」
「池袋駅」という表示が遠くから見えるくらいまで戻ると、海は「こっち」と言って脇道をどんどん進んで行った。小さな酒場やスナックや風俗やホテルの看板ばかりが目につくような道まで進むと海は立ち止まった。人通りは少なく、コインパーキングの車の影や、よく分からないさびれたビルの玄関の暗闇から何かが私達を伺っているような気がする。街頭の明かりで暗くはないけれど、人気の無い空白があって、ビルに切り取られた夜空は水槽の中のように水性の闇が満たされていた。
海は座り込むと、鞄の中から白地に金と赤色のロゴマークの入った紙の箱を取り出した。
「なにそれ」
「たばこ」
当然、と言った口調で言うと、慣れた手つきでしなびた箱からたばこを一本抜き取って火をつけた。白い煙が吐き出されて、ちりちりゆらゆら、赤い火がくすぶっている。
「チクってもいいよ」
道の反対側の小さなアパートの入口を見つめながら、どうでもよさげにつぶやく。私は少し迷ってから、
「一本ちょうだい」
返事の代わりにそう言うと、彼女は少しだけ意外そうな顔をして何か言おうとしたのか、まばたきをする程の空白の間に、あきらめたように小さく口元をもごもごさせて、それからあの白い箱を私に差し出してくれた。
「火をつけたら吸い込んで」
「うん」
犯罪という非現実の香りが頭をゆらして、「いけないこと!」「だめだ!」とは違う、何か得体の知れない不安に包まれている心地で、私はくらくらとまどろみに身を任せる。
なぜか生きて行くっていう時間は、たばこの煙とはまた別の眠気がして、本当はそれを振り払おうとがむしゃらに暴れ回ってやりたいけれど、それはあまりにも幼稚だから、そんな眠気を覆い隠してくれるような行為が必要だった。つまり現実逃避。
「私のそんな感情も海は知っているのかな、だから何も言わなかったのかな」なんて考えながら、慣れない手つきで恐る恐る鉛筆くらいの太さの白い犯罪の欠片を一本つまみ出した。
初めて見る、火のついていない新しいたばこ。物珍しくて、指先で軽く押してみたり見つめたりしていると、笑われた。吸うことを迷っているように見えたんだろう。
「やめる?」
「ううん、たぶんだいじょうぶ」
正直、まだ迷いが消えたわけじゃないけれど、だから余計に自分に言い聞かせるように言う。そう言いながらも保健室前の掲示板や、テレビで散々おどされているせいか、たばこを吸う
のはやっぱりためらわれる。だけど、「たばこを吸う」っていう犯罪的な響きに私はどうしても触れてみたくて、思い切ってフィルターに口を付けた。
「はい、火」
口にくわえると、海の細くて白い手がするりと伸びてきて、コンビニの棚の上で見慣れた百円ライターの硬質で透明な色を近づけて、かちんと火を灯す。見慣れたコンビニの店内を飾る、どうでもいい背景の一つだったものは、急激にそれまでとは違う危険な物のように変化した。「いけない事をしている」って自覚が、気分を高揚させて、血のめぐりが速まるのがわかる。
でも、いざ火をつけたのはいいけれど、やっぱり怖いような気持ちも抜けきらなくて、白い巻紙を朱色に蚕食するたばこの先を凝視して、もう一度覚悟を決め直す。
「吸わなくちゃつかないよ」
「うん」
うっすらと笑うような、優しげな横目で海は私を見ながらそう言った。悪いことをしているのに、彼女の仕草はなぜか優雅で、私はそんな彼女に付き添われて同じ時間の中にいることが、甘い青春の中にいるような錯覚に陥った。守られているような安心感に促されるままに息を吸い込むと、火は鮮やかに、官能的な赤色に燃え上がって、体験したことのない味と煙が気管を通って、体中の毛穴をぞわぞわと刺激した。
「あはは」
「なにこれ……」
強い吐き気がしてむせ返る私を、海は横で笑い続ける。
「初めはね、みんなそうだよ。あたしもそうだったし」
「たばこ、たばこってみんなが美味しそうに吸ってるから、どんなもんかななんて思ってたけど、こんなに不味いなんて知らなかった」
「あはは」
いつまでも咳き込む私を、海はいつくしむような目つきで見ながら、細い指にはさまれた、自分のたばこをまた口元へ運んでいた。
なんとか一本を吸い終わる頃には、たばこの煙にも若干慣れてきたようで、始めに思っていた疑問をようやく思い出した。
「ねえ、ここで何するつもりだったの。わざわざたばこ吸うためだけに来たんじゃないんでしょ。さっきチクってもいいって言ってたんだから、人が多い少ないなんて気にしてるわけじゃないのに」
「待ってるの」
「何を」
「先輩」
短く答えながら、彼女はまた新しいたばこを抜き取って火をつけた。
「今付き合っててさ、たばこくれるんだよ。」
「その人が?」
「そう。コンビニでバイトしてるからさ、発注ミスのふりして、タダでカートン一つぐらいくれるの。店長とオーナーは年よりのじいさんとばあさんだから、あんまり気にしてないみたい。先輩がわざとミスしても気が付かないし、自分が頼んだと思ってるんだか、律儀に買い取りもやってくれるしね」
不良が自分の悪さを自慢するようないやらしさではなくて、本当に自然な声色が滲んでいた。良いも悪いもなくて、ただ当然みたいな感覚で満たされている。彼女の指の間に引っかかっている二本目のたばこは、まだ吸い終わっていなかったけれど、地面に落としてローファのつま先で押しつぶすとジュッという音がして火は消えた。
「ずるいよね」
取るに足りない物のように、小さな火が消える瞬間を、虚ろになりかけた網膜に映していると、自然とそんな言葉が漏れていた。
「何が?」
「何も無いことが、だよ」
だってそうでしょ。と私は続ける。
「人に迷惑をかけなければ、何をしたっていいんだ。バンドをやろうが、たばこを吸おうが、勝手なんだ、本当は。先輩がカートンをちょろまかすのはいけないと思うけど、自分が生きていられればそれでいい。何も背負わないってことなんだ。欲しくもないもののために必死な演技をする必要なんてない。そんなこと思ったりしないの?」
自由な彼女を見ていると、そんなふうに感じられる。
「私なんて、なりたくもないものを追わされて、そのくせ自由に夢を見なさいなんて、言われる。何をしたら良いのかわからないよ」
「要するに、勉強したくないんだろ」
海は私の本心を見抜くように笑った。客観的に自分を見ても、どうせ私は勉強がしたくないだけなのだ。隠せていたと思っていたことを見透かされて、恥ずかしいのと、彼女のなんでも包み込んで、見抜いてしまう瞳が羨ましく思えた。
「まあ、確かにそれもあるけど、なぜかそれだけが理由じゃない気がするの」
苦し紛れにそう喘ぐしかない。だから海は余計に面白がって、
「へえ、言ってみてよ」
困らせようとするような、からかうような口調で言われて、私は言葉に詰まった。何がそれだけじゃないのか、まだ答えなんて出ていない。なのに原因不明の何かが生きることを苦しくしてしまう。それでも、今ある言葉で伝えるしかない。伝え切れないことを伝えようとすることは、なんだか私が今抱えている問題そのもののような気がして、たとえ伝わらなかったとしても、その行為自体が必要に思えたから。
「だからね、私は何をしたって世界に私だけの私を表せそうにないんだよ。勉強したら、私が発明でもできるようになると思う? それとも、女優にでもなれると思う?」
「無理!」
即答すぎて、「やめてよ」と言いながら彼女のうでを弱く叩く。
「だって、ほんとの事だろ。裏ビデオくらいなら、今すぐ出られるだろうけど」
笑うに笑えない冗談は、今の憂鬱な気分ではあまりつっこむ気にもならないから、無言で受け流す。
「海もそう思うでしょ。私には自分の限界が見えてるんだよ。たかが中学生が何もしないうちから諦めたようなことを言うなって散々言われたけど、私はもう無理だって、自分にはわかるの」
話しているうちに強く感情が乗ってしまうのは、私の悪いくせだ。それに彼女と話していると、昔懐かしい安心感が伝わって来る。母さんにはもう何年もそれを感じたことが無かったのに。こんな話をためらいなくしてしまうのは彼女のそんな謎めいた力のせい。
「今まで散々勉強したよ。去年までだけどね。でも、一定のところまでは楽しかった。勉強すれば、したぶんだけ問題はわかるようになったし、テストの点数も上がったし。だけど、それ以上には行けないことがわかったの」
海はそんなつまらない、センチメンタルをただじっと聴きながら、抱え込んだ両足のつま先あたりを眺めているから、耳を傾けてくれているようで私は余計に調子づいて、告白じみたことを続けた。
「自分はここまでなんだって、これ以上はもう進めないことがいやって程見えたの。私がどんなに勉強しても、私だけの私なんて存在は見つけられない。誰かがやることを、たまたま私がやっているに過ぎない結果しか残せないんだよ。誰でもできることしか私にはできない。世界に私がいる意味が分からないんだよ」
彼女なら少しはその意味を分かってくれるかもしれない。そんな期待に目がくらむ。だけど、海は、
「下らないよ」
と一言で切り捨てた。
「泣くなよ」
唯一解ってもらえそうな相手に見捨てられて、本当に泣きそうだった。母さんとか教師に何を言われても、「お前は私のことなんて何も知らないくせに」とはねのけられる自信はあるのに、今はどうしてもそんな言い訳ができなかった。それは相手が海だからなのか、中学生っていうような場所で、今まで私と同じ側にいると思い込んでいた人間だからなのか分からない。とにかく、必死に悩んでいることを否定されたみたいで悲しかった。それを見て、言い過ぎたと思ったのか、
「って、みんなが否定するんだろ? だからよけいに悲しいんだろ?」
と、しばらくの間を開けて言った。
「え……」
「お前の言ってることは正しくない。頑張れば何とかなる。って、そう言われ続けてきたんだろ?」
突然、手のひらを返したみたいに優しくなった海に私は戸惑って、何も返す言葉が出てこない。
「こんなあたしが言うのもなんだけど、お前の言ってることはあたしも感じたことはあるよ。
でも、あたしは別に味方ってわけじゃないんだよ。味方でもないし敵でもない。あたしはあたしで、お前はお前だから」
「何それ」
「さあ。そんな、意味ありげな言葉でごまかすくらいしか、あたしにはできないってこと」
「……」
海に特別な幻想を抱いているからか、彼女にとってのこの世界なんて、いつものどこか冷えた調子で、言い切ってしまえるものなんだろう。なんて勝手に決めつけていたけれど、海をもってしても「あたしも感じたことはあるよ」って、そんなセンチメンタルの滲んだ言葉で慰めることしかできないことを思い知らされた。海だって自分と変わらない中学生なのだ。
だけど、お洒落な言葉遊びで憂鬱をごまかして生きている私には、まさに「今」が自分の生き方そのものだったから、同じ感情を無力な言葉でやり取りすることの中に、強い一体感を感じたのだ。だから私は満足した。言葉なんて無力だ! 無力だけど、今は無力の中で二人より添っていることがうれしかった。でも、そんな甘い幻想は続かない。
「遅いよ」
私にでは無くて、道を通りゆく人の方へ向けて海は言った。彼女の視線の先には、やせ気味で、背の高い男の人がこっちを向いて立ち止まっていた。細身のジーンズを履いて、シャツの上に薄手のカーディガンを着てスニーカーを履いた、よく見かける大学生のような恰好をしている。
「ごめん、ごめん。今日はバイト無かったんだけど、昼寝してたら起きられなくて。すぐ行こうと思ったんだけど、急に持病が出ちゃってさ。しょうがないから、くすりかじってた」
海と同じ制服を着て隣に座っている私に、先輩と思われる人は時々控えめな視線を向けながら、海と同じたばこの箱を取り出した。
「こいつ、あたしのクラスの問題児で、智美って言うの。今日も悪い遊びに付き合わされてんだよね」
海が勝手な紹介をすると、先輩は
「そっか。いつも海がお世話になってます」
と、言って半分は社交辞令的に薄く笑顔を作ってくれた。「くすりをかじってた」という言葉が気になったけれど、「初対面だし」という理由で、聞かなかったことに決めた。
「たばこちょうだい」
お前はそればっかりだな。というくらいに、海は合ってすぐの先輩にたばこを要求した。
「今日はこれね」
そう言って先輩が鞄から取り出したのは、私たちが今まで吸っていたたばこの箱とは違う、緑色の箱だった。どうやらたばこのメニューは日替わりらしい。海は、
「あたし、メンソール嫌いなんだけど」
と言いながらも、三つほど箱を受け取ると鞄に仕舞い込んだ。
「それって、さっきのと違うの?」
好奇心から、何気なく訊ねると、先輩がまた鞄から海に渡したのと同じ箱を取り出して、「まだ持ってるんなら、ちょうだいよ、ケチ」という海をよそに私に差し出した。
「吸ってみる?」
「は、はい」
先輩の優しそうで控えめな笑顔に、少しおどおどしながら、私は手渡されたたばこの包装を開ける。初めて開けるたばこの箱は、空け口が見つからなくて、まごつきながらも封を切る。中の包み紙をもそもそと開くと、そこには茶色いフィルターの群れが蜂の巣のように詰まっていた。どんどんいけない方向に行ってしまう自分が怖くて脈が速くなる。同時に、その緊張感のようなものが心地良くも感じる。
どうしてだろう。いけないことって、こんなにも心が躍る。ちっぽけでみじめな高揚感。
「はい、火」
海の差し出したライターを受け取って、蜂の巣の一つを引きずり出す。そうして口に咥えようとしたら、
「走れ!」
海は強い言葉と、今まで見せたこともない腕力で私の腕をつかんで、無理やり立ち上がらせた。
吸おうとしていたたばこは唇から落っこちて置いてきぼり。恨めしそうにこっちを見ている錯覚。
私は引きずられるままに駆けだしていた。先輩は、三人分の鞄を片手でぶら下げて、目の前数歩先を走っている。どんくさい私は、何が起きたのか理解できなくて、海の手を振り払う。
「逃げないと捕まるよ」
そう言われて、ようやっと何が起きているのか理解した私は、二人を追い越す勢いで走り出した。彼女の目ざとい瞳は警察か何かの影を捉えたのだ。
「案外、元気だね」
なんて、海が息を切らしながら後ろを走る。いくつかの路地を曲がって、振り返る人を追い抜かして走る。歩いている人、風俗の呼び込み、バイトへ行くか帰るかする人達。みんな私達が走るのを振り返って、何事かって見ている。それはなんだか気分が良かった。通り過ぎていくいろんなものを、「俗物めっ」て振り払いながら、同じ目的のために、全力で駆け抜けるのは、群像映画の「青春」のような気分だった。
一通り走ると、先輩は、「もう大丈夫だよ」と、立ち止まった。私と海も、その言葉に、荒い呼吸を重ねて立ち止まった。
「智美さんて、早いんだね」
先輩は、いくらか他人行基の顔をやめて、自然な今まで通りの柔らかな笑いで言った。
「そう、ですか、ね」
私も、荒い息をさせながら笑い返す。
「たばこの吸い過ぎじゃないんですか」
「確かに、そうかも」
私達は、また笑って、それからはにかんだ。なんだか恥ずかしかったから。
それから、やけに海が静かだな、と思って彼女が居た筈のななめ後ろを振り返る。でもそこにいつもの茶髪頭は無くて、くるりと見回すと、スナックの看板の陰にしゃがんで、ライターを探していた。
「勝手にいい雰囲気になるなよ。あたしがいるのに」
私の視線に気が付くと、わざとふて腐れたような顔をして、先輩の方へたばこを咥えた唇を突き出した。火をつけろと言いたげな目をしている。
「ごめん、ごめん。でも智美さん、ほんとにかわいいよね。なんか必死なとことか」
かわいい? 私が?
「そんなことないです」
あはは、と照れて後ずさったら、知らないおっさんに肩がぶつかった。「すみません」と小さく謝ったら、
「そういうとこだよね」
と先輩は、海のたばこに火をつけながら言った。
「はあ……」
恥ずかしくて、余計に顔が赤くなる。
「本気で照れるなよ。こっちまで恥ずかしいし。それにこいつ、たらしのタラちゃんだから気をつけろよな」
と言って海は一人でウケていた。
空に煙がのぼってゆく。私はそれをながめている。海の口から吐き出された煙、私の口から吐き出された息。二つの空疎な揺らめきは、空中でとけあって孤独と青春の形を描く。
空と空中はどこから分かたれるのだろう。私はそんなどうでもいいようなことを思い描きながら、この切ない不幸と弱さが、一人ぽっちのあの月に届くことを祈った。
「行こうか」
ひとしきり落ち着いた後、海は突然言い放った。
「またどっかに行くの?」
と私が訪ねると、当然とでもいったように、「こいつの部屋」と言ってたばこの先で先輩を指さした。先輩も驚かずに笑っている。私の知らないところで、どんな取り決めがあったのだろうか。
知らない人の家、それも男の人のプライベートな部分。そこに踏み込むことになるのが、私は少なからず怖かった。海が一緒だから、何かされるなんてことはないのだろうけれど、それでも未知の領域であることに違いはなくて、足を踏み入れるのは怖い。
「大丈夫だよ。何もしないから」
「そうそう何かあったらあたしがただじゃ置かないしね」
そう言って歩き出す二人。私はただ何も言わずに、寄り添う二つの影の後ろ姿について行った。
私と海が映画を見るために待ち合わせた駅から二つ目の駅で先輩は
「乗り換えるよ」
と、言った。その声はふんわりとしたぬくもりの中に、何か得体の知れない黒い空洞が隠れていた。私はその正体が分からなかったけれど、この後私に何かをしようって意味の空洞ではないと思った。それよりも「くすりかじってた」って言葉に本当の意味が隠されているんじゃないかと思った。私はその言葉の意味を知りたいと思った。だから胡散臭い誘いについて行こうと思った。
「はい」
私は頷いて鞄を抱えた。それからどれだけの駅が過ぎただろう。いつの間にか眠ってしまっていた私は
「智美さん」
という先輩の声に起こされた。
「着いたよ」
先輩と海はすでに立ち上がって私を見下ろしていた。急いで立ち上がり鞄の持ち手を握り直す。車両から外に出ると、外気は冬の窓ガラスのように、人々の吐く息に曇っているような気がした。世界の大気は人の放つ存在感に満たされているようだった。「健康」と言われる人達の息や存在感が、この大気を支配しているんだと思うと、私には居場所がないように思われる。そう考えてしまったら、どうにも気分が悪くなって吐き気に襲われた。でもなるべく誰にも分からないように振る舞う。それが私の日常。でも、先輩はそんな私に、
「大丈夫?」
と声をかけてくれた。「なぜ気づいたのだろうか。私の周りに居る、健康と言われる人は、私の演技を見抜いたことなんてないのに」という疑問もあったけれど、それに気づいてくれる人もいることが、驚きであり、うれしくもあった。
駅を出ると、風が肌を撫でていった。海が「たばこ」と言うと、先輩は海を優しくいなして「もう少し歩こう」と、私に言った。
駅から離れて、住宅やアパートやマンションが建ち並ぶ道へ来ると、先輩はポケットから銀色の丸いものを取り出した。
「吸い殻はちゃんと捨ててね」
と言ってそれを海に手渡した。海は銀色に光る丸い金属を受け取ると、その蓋を開けた。私はそれが携帯灰皿なのだと知った。
海のつけたたばこの火は、赤のようなオレンジ色に揺らめいて、深い森の中で遠くに見つけた明かりのように、安心感と「幻影かもしれない」という少しの不安を持って燃えていた。
「終わった」
海がそう言って灰皿にたばこの火を押しつけると、先輩はまた歩き出した。
「もう、すぐそこだから」という先輩について行く。百メートルも歩くと先輩と海は立ち止まって一つのアパートの方を向いた。
「ここ?」
「そう」
私が尋ねると、先輩に代わって海が答えた。そこまで古くも無く、新しくもないアパート。二人は階段を上がって行く。私もそれに続く。三階まで来ると角の部屋まで歩いて、先輩はそのドアノブに鍵を際し込んだ。「上がって」という声に従って部屋の中に入ると、そこには一人暮らしの割に片付いた、一般的な部屋があった。「座って」と先輩は言って、冷蔵庫の中からビールを三本取りだした。そして、部屋の中心に置いてあるテーブルの前に座る私と海に、それぞれ一本づつ差し出した。
「それ、お酒じゃないですか」
「そうだよ」
先輩は、悪びれることもなく微笑んだ。
「だって智美さん、そんなにいい子じゃないでしょ。海から聴いてるよ。いつも飲んでるって」
「・・・・・・」
恐ろしくなった。来なければ良かったと思った。人の良さそうな人ほど信できないと、感じた昔の経験を思い出した。私もいい子じゃないけど、この人もいい人じゃない。私の直感がそう告げていた。これを飲んでしまったら、寝てしまったら何をされるんだろう。どうやって逃げればいいのだろうか。でも、そもそもこの部屋に入ってしまった次点で、逃げ道がない。逃がしてくれる訳が無い。そんな思考が頭の中でぐるぐると回る。
「だいじょぶだよ、ただ飲んで寝るだけだから」
海はそう言ったけど、私は海を信用し過ぎていたと思う。彼女の放つ独特の哀愁と、中学生らしからぬ冷たい世界観は魅力的に見えていたけれど、その世界が具体的に何を表していたのかを私は知らないままだった。たばこにしてもそうだ。犯罪の欠片に触れてみたくて、ちっぽけな好奇心を起こして吸ってしまったけれど、彼女はそんなことを思って吸っていたのではなかったのだろう。今になって思えば海は私が想像していたよりも、もっと大人で、犯罪的で、大人な分、大人の怖さも黒さも持っていたのだと思う。大人が自然にたばこを吸うように、海も自然に吸っていたに過ぎなかったのだ。
「帰ります!」
半分泣きそうになりながら、立ち上がろうとすると、
「落ち着けよ」
海は私の腕を握って引っ張った。
「ごめんね。警戒させちゃったかな」
と言って先輩は袖をめくった。
「これならどう?」
そう言って見せた先輩の腕には、私のよりもっと深く太い切り傷が数え切れないほど浮かび上がっていた。
「え・・・・・・」
「智美さんもそうだって聞いたから」
先輩は袖を元に戻した。私は何も言えなくて、ただ立ち尽くした。
「お前、あたしが気付いてないとでも思ってた?」
馬鹿だなって顔で海が私を見ていた。海と出会ってから私は腕の傷を見せたことは無かった。体育の時は必ず長袖を着ていたし、普段も長袖を着ていた。初めて手首を切ったのは海と話をするようになる前。だから海はそのことを知らないと思っていた。だって知られてしまったら、また決定的に私を傷つける言葉を投げかけられると思っていたから。「死にたいなら、死ねよ。死ねないのは本当に死にたいなんて思ってないからだって言われるぜ」なんて言葉があの口から流れ出すに決まっているだろうから。
「言ったろ、知り合いがそういう奴だって」
「そうだけど・・・・・・」
「あんまり可哀想だからさ、二人で傷でも舐め合ってればって思ったんだよね。あ、本当に舐め合うなよ? 気持ち悪いから」
海はいつものように面白いのか、面白くないのか、よく分からない冗談を言った。
「で、そういう訳で今日は呼んじゃったんだ。急にごめんね」
私は少し緊張が和らぐのを感じた。こんな所に連れてきたのは私のためだったのだ。
傷を抱えているのが自分一人だけじゃなかったことへの安心。それから、この孤独な思想は私だけのものじゃなかったことへの少しの落胆を感じた。だって、孤独な思想は私を一人にするけれど、私を「唯一」の存在にしてくれる。世界に替えの効かない私だけの私をもたらしてくれる。先輩のあの傷は、私の唯一をかき消す傷になってしまう。
だけど、今は安心の方が勝った。私は座り直すとテーブルの上に置かれたビールの缶を手に取ってタブを開けた。それを見た先輩と海もビールの蓋を開けた。
ビールを飲むのは人生で二度目だった。始めて飲んだ時のあの不味さは今でも覚えている。私はためらいつつも、意を決して口に含むと、やっぱり不味かった。苦さと麦特有の味と香りが攻めてきて、飲み込むことを体が拒否した。何とか口に入れた分を飲み込むことができたけれど、とても二口目を飲む気にはならなかった。先輩はそれに気付いたようで、
「ごめんね。今違うの出すから」
と言って冷蔵庫の方へ歩いて行った。
戻ってきた先輩は、茶色の液体の入ったグラスを持っていた。
「カルーアミルク。これなら大丈夫でしょ」
「ありがとうございます。大丈夫かどうかは分からないですけど」
「智美さんがもし慣れてなかったらと思って買って置いたんだ。薄めに作っておいたから、ペースにだけは気をつけてね。うちで死なれたらさすがに困るから」
先輩はやさしい。でもやさしい人ほど傷を抱えているのは何故だろう。カルーアミルクを一口飲む。それはほとんど普段飲むコーヒー牛乳と変わらなかった。違うとすれば、少しコーヒーの味が薄いくらい。「薄めに作っておいた」という先輩の言う通りだ。お酒を飲んでいるという気は全くと言っていいほどしなくて、ジュースでも飲むように二口目を飲み込んだ。
「でも、いきなりこんなの見せちゃってごめんね」
先輩は自分の腕を見つめながら謝った。
「そんなことないです。自分とおんなじ人が近くにも居るんだって思うと安心します」
「そうかな。そう思ってくれるならいいんだけどね」
その会話を最後に私達の間には空白が横たわった。
私のグラスが空になる度、先輩がカルーアミルクを作って運んでくれる。先輩と海のビールが空になる度、先輩が冷蔵庫に新しい缶を取りに行く。それだけの作業が繰り返された。
「ごめんね」
グラスを置く「かたん」という音や、車や電車の通る音が窓を隔てた闇の中から聞こえる音だけが響く中、先輩が急に口を開いた。謝られる理由が分からなくて、私は海の方を見た。でも海は肩をすくめて小さなため息をつくだけだった。
「どうして謝るんですか」
「いや、せっかく来てもらったのに、何にも言えなくてさ。海に智美さんのことを聴いて何か言えればと思ったんだけどね・・・・・・」
「そんなこと、私は気にしてません」
「ありがとう。智美さんは本当にやさしいね」
先輩ほどではないです、と思いながら私は照れ隠しにグラスの中身を飲み干した。
「僕らはさ・・・・・・」
先輩は急に告白でもするかのように真面目な顔つきになって告げる。
「得体のしれない恐怖を感じて、自分を傷つけようとするけどさ、何を感じてその行為に走るのかはそれぞれ違うと思うんだよ」
先輩が一体何を言っているのか、理解しかねた。私が首をかしげると、先輩は語った。
「つまり、僕が手首を切るのと、智美さんが手首を切るのは、行為だけ見ればおんなじだけど、その理由は違うものだと思うんだよ。似ている部分もあるだろうけどね。人の思考が全く同じなんてことはないと思うんだ。僕らは言葉を使っているから、何かを表そうとしても決められた言葉しか使えない。決められた言葉でしか表現できない。口にすれば同じでも、頭の中で思っていることには多少のズレがあってもおかしくない」
私はただうなずいた。海はその先輩の横で、いつも聞いていることでもあるみたいに、つまらなさそうに半分くらい残っているであろうビールの缶を爪で弾いていた。「カンカン」という音が四角い部屋に染み渡る。
「それなのに、分かったような口ぶりでこうしたらいい、ああしたらいい、君は僕とおんなじだ。なんていうのは随分傲慢だと思うんだよ。そう思ったら何も言えなくなっちゃってさ」
「そうですか」
私はその言葉で先輩を心から信用しようと思った。「君の気持ちは分かるよ」って簡単に言う人を、私は信用しないし、その言葉も響かない。分からなくても、分かったふりをしないで寄り添ってくれる人を、簡単に「分かる」という言葉を使わない人を、私は信用しようと思っている。
でも、と私は気になったことを聞いてみることにした。
「なんだか謝ってばっかりですね」
お酒のせいもあって段々打ち解けてきた私は、はにかみながら言った。
「そう?」
先輩が海を見ると、海は頷いた。
「そっか、そうだね。僕はさ、何をしても、何をしていても、自分が悪いんじゃないかって幻想が頭から離れないんだ。満員電車に乗っていれば、自分のせいで一人分の空間が無くなってみんながあんなに苦しそうな顔をしているんじゃないか。僕が歩いて行く方向と、向こうから来る人の方向がぶつかっていて、向こうから来る人が避けようとしないことがあったら、それは僕の存在がここに居るべきじゃないからなんじゃないか、ってね。だから切っちゃうんだろうね」
「それは自己満足と過剰な自意識だよ」と海は急に話しに割って入って、いつものように切り捨てる。
先輩は傷つかないのだろうか。手首を切るほど悩んでいるのに、あんなにばっさり、さっぱり切り捨てられてしまうことが。
「どうして、海と付き合ってるんですか?」
どうして自分が傷つけられることが分かっていながら、一緒に居たいと思うのだろうか。そんな意味を込めて尋ねてみた。
「自分の分身みたいに思えるから、かな」
「どういうことですか?」
「今、海が言ったけど、僕が感じる罪悪感が自己満足と過剰な自意識だってことは、僕自身分かってるんだよ。僕が罪悪感を感じる自分だとしたら、海はそれを否定する自分でもあるんだ。だから海に傷つけられても受け入れられる」
「でもそれって、悲しくはないですか?」
私は直感で感じたままに、何も考えもせず安易な質問をした。
「そうかな。でも、智美さんだって、そんな風に手首を切るほど何かに悩んで生きていて苦しくないのって言われたらどうする?」
先輩は私の答えを待った。少しの沈黙と海の薄笑いが過ぎ去った後、私は答える。
「苦しいけど、悩まなかったら生きている意味はない。と言うと思います」
先輩は「そうでしょ?」と頷く。
「そう考えずには居られないんだよ。智美さんと一緒だね。その考えが無くなったら僕の生が何も考えていない薄っぺらなものになってしまう。僕は自分が無意識に行っていることを問い直そうとしない、何も考えていないで生きている人が恐ろしい。まあ、何も考えていない人なんて居ないんだろうけど」
先輩のその言葉で、今まで私に向けられていた「苦しくないの」って問いが、健康な人達から無意識の内に出る理由がなんとなく分かった気がした。
先輩はビールをあおって、缶の中身を飲み干すと、空になった空き缶をゴミ箱に入れた。それからまた袖をまくって
「無意識の罪ってあるよね。僕はね、自分が誰かを無意識の内に傷つけてしまうことが恐ろしいんだよ。そういう経験をしてきたんだ」
「それが、理由なんですか?」
「そうだね。でも、それだけじゃないよ」
先輩は愛おしそうに海を見た。
「傷つけられて、それによって自分しか考えないだろうっていう、思想じみた感傷を抱くことが、僕の存在を孤高にさせてくれる。その孤高が僕のどうしようもない虚栄心を満たしてくれるんだ」
「そんなの陶酔だ」
待っていたかのように海は言った。
「ほら、こんな風にね。傷つけられることで、愛を確認するんだ。どうしようもないけどね」
海はしばらく止めていた「カンカン」という音をまた出し始めた。そうして、「気持ち悪いだろ?」と私に言ったけれど、私には先輩がなんだか満更でもないような顔をしているように見えた。
「人なんて傷つけ合って繋がっていくものだと思うんだよ。そう分かっているけど、僕は自分が誰かを傷つけることに怯えている。だから、自分が傷つけられる分には一向に構わない。それに、自分自身気がつかない所で罪を犯してしまっているかもしれないっていう恐怖があるんだ。自分を傷つけることで、その罪を償いたいと思ってしまう。それで少しは罪を償えたような気がするし、そのことによって一握りの安心を得られるんだ。だから陶酔と言われても、自己満足と言われても仕方が無い」
先輩は四本目のビールを開けていた。少し酔ってきたのだろうか、酔いが今まで隠して来た先輩の影をあぶり出して、その微笑はところどころ摩滅していた。
またしばらくの時間がひそやかに消滅していった。
「かなしいね」
先輩がぽつりと言った。ビールを五本飲んで、棚の上から取り出して来たウイスキーを、ロックで六杯飲み干した先輩はもう随分酔っているのだろう。目の周りが赤くふちどられていた。
「また出たよ」
海があきれたように言った。
「いつもこうなの?」
「そうそう。酔ったらこんなもんだよ」
海も先輩ほどじゃないけれど、相当飲んでいるはずだ。それなのに平然としている。それか平然を装っているのかもしれない。
「ああ、かなしい、かなしい」
海は大きな声で投げやりに言って、仰向けに寝転がった。
「あたし、少し寝るから」
海はまるで自分の家に居るかのように、先輩のベッドから毛布と枕を引きずって来ると、自分が今まで居た場所に寝床を作って寝てしまった。今まで平然としていたけれど、海はどうやら眠かったらしい。どこまでも自由で、奔放で、何にも縛られない。私は海のそんな所に憧れを感じたけれど、先輩は彼女のそんな所をどう思っているのだろうか。海は薄い毛布にくるまるとすぐに、すうすうと寝息を立て始めた。
「かなしいね」
先輩は海の寝顔を見ながら、私に対してもう一度つぶやいた。
「かなしいですね」
どうやら私も先輩に感化されたみたい。少し開いた窓の外からは金木犀の香りが、追憶の香りが揺らめいているのを眠気の向こうから感じた。あの日の散歩で見つけた痛みの続きが今、ここにあった。
「生きることは、かなしいですね」
「そうだね」と、先輩は頷いた。
「私達は虚無ですよね。虚無を背負ってしまったことがかなしい。でも私達が虚無を抱くのは、大切な人の死とか、大切な物を無くしたとか、そういう理由ではないですよね。満たされたように見える平穏の中で、そんなの違うって言いながら、平穏に生きるしかないからですよね。虚無は罪なことをしますね」
私は弱々しく笑いかけた。
「でも・・・・・・虚無が無ければ生きられない」
「どうにも救われないね」と先輩は笑ったから、私も「虚無が無かったら、ただ生かされているだけです」と答えた。
「ねえ、智美さん・・・・・・」
「なんですか」
「かなしいね」
先輩はまた同じつぶやきを繰り返した。
「そうですね」
私はそれに相づちを打つ。私達はそれぞれのグラスの中に残った液体を飲み干した。お互い、もう目が回るほど飲んでいる。私なんて、今まで体験したことが無いほど目が回っている。
「かなしいね・・・・・・」
「はい・・・・・・」
同じやり取りを何度繰り返しただろうか。もう数え切れないほどの繰り返しの後、先輩の目には涙が光っていた。そんな私達をよそに、海は起きる気配すら無い。
「トイレをお借りしていいですか」と言って私は席を立った。気持ちが悪かった。「玄関の右ね」と言われて席を立った。トイレの個室に入って鍵を閉めると、しゃがみ込む。今にも胃の中の物が全て出てしまいそうだった。
中身が出てしまうと、随分気分が良くなった。まだもう少し飲めるんじゃないかってくらいに。
トイレから廊下に出て、部屋の入り口に立つと、ガラス張りのドアの向こうに先輩が立っているのが、ガラス越しに見えた。
「どうしたんですか?」
ドアを開けながら、尋ねると、先輩はさっきよりも多く涙をこぼして泣いていた。うつむいて子供のように泣くのを堪えているように見えた。しばらくの無言が、私達二人の「距離」という名の空間に満ちていた。
「・・・・・・めんね」
「え?」
「・・・・・・めんね」
「なんですか?」
私の問いには答えずに急に動いたと思ったら、先輩は二つの腕を伸ばして立ったまま私を抱きしめた。耳元で、「ごめんね」という声がささやかに聞こえた。私は戸惑ってもう一度、
「どうしたんですか?」
と聞いたけれど、先輩は、
「ごめん、ごめんね。自分が傷つけられる分には一向に構わないって言ったけど、それでも傷つくことに時々堪えられなくなるんだ」
と泣きながら、私をただ抱きしめるだけだった。「ごめんね」というささやきは、私に対してなのか、海に対してなのか、それとも世界に対してなのか、どうやっても分からなかった。それに、どうすればいいのか分からなかったけれど、自然と体が動いていた。私は自分を抱きしめる腕を静かにほどいた。それから、背伸びをしてやっと届くほど高い所にある先輩の頭を撫でて、ゆっくりと先輩を抱きしめた。すると、先輩も同じように私の背中に腕を回して、私達はお互いの虚無を抱きしめ合った。
温もりが伝わってくる。でもその温もりは孤独で冷たかった。肌は温かくなるけれど、一向に満たされない温もりが私達の温度だった。
「ごめんなさい」
先輩の真似をするようにささやくと、
「かなしいんだ」
という答えが返ってきた。どこまで行っても満たされない温もり。それが私達。だから私達はお互いを求め合う。もっと深いところまで求めれば、暖かくなれるかもしれないという仮説を確かめるように。少しでも暖かい所を探す動物のように。
唇と唇が触れる。ささくれ立った、アルコールのせいで体温の上がった先輩の唇。それは柔らかく、触れている間、甘い衝撃が私の脳をしびれさせる。お互いの湿った吐息は、愛おしい破滅の匂いを含んでいた。その香りが肌を撫でると、くすぐったいような感覚が芽生えて、まどろみが私の体を飲み込んだ。私はこの後何をするのかを予感した。「ああ、ここで私は失うんだ」かろうじてまどろみの中から正気の世界に意識をつなぎ止めておきながら、何の感慨も無くただそう思った。
毛布の持ち去られたベッドに横たわると、先輩はまた私を抱きしめた。唇がもう一度触れ合う。先輩の手が私の服の中に入って来て、肌は手の温もりを感じた。しばらくしてその手は太股に伸びてきて、私は本能的に少しの拒絶をしたけれど、先輩はそれを振り払って私に触れた。
痛みはそんなに無かった。同時に感覚もあまり無かった。お酒のせいもあるのかもしれない。だから、全てはまどろみの中で起こったことのようにさえ感じられた。外の空間を包む闇の海潮が部屋の中まで満ちて来ているように思えたのだって、まどろみだったのだろう。
夜は孤独の痛みと哀愁の心地よさの同居する時間。今起こっていることでさえ、私にはその時間の中での一時の夢でしかなかった。だから結局、私達はどこまで行っても満たされない。愛なんてない。その虚無を何か新しいことや別のことで払いのけようとするけれど、どんなことをしても、虚無が消えたことは無い。それは先輩もおんなじなのかな、と思う。だから先輩は泣いているのだろう。
謝るのは、私を傷つけることになるかもしれないことに対してか、海を裏切ったことに対してなのか。もしかしたら違うことに対してなのかもしれないけれど、それは私には分からない。だけど、先輩の悲しみが肌の熱を通して伝わってくることは確かだった。言葉にならない悲しみが共有できたような感覚に陥る。錯覚なのかもしれないけれど。だから私も泣いた。虚無を無くしたいと思ってした行為の果てに得た物が、二人分の虚無だったこと。それから悲しみを共有できたことに。
これが私の求めていた感情なのだろうか。「たぶん違う」という自分の声が頭の中に響くけれど、今の私にはこれ以上どうすることもできなかったから、いつものようにあきらめるしかなかった。
「ごめん・・・・・・ごめん・・・・・・」
ベッドに寝かされてから全てが終わるまで、先輩は泣きながら、熱に浮かされたように繰り返していた。私達はもう正気じゃなかったんだろう。全て一時の夢。そういうことにしようと思ったけれど、「悲しみの共有」という感覚は、私に何かとてつもない気の迷いを覚えさせた。
海には悪いと思ったけれど、終わってしまったことは取り返しがつかない。私達は海に気付かれないようにベッドの上を整えた。改めて見ると、シーツには私達の手首から流され落ちた血がシミになっていた。自分の手首に目をやると、この間切った切り傷が開いて、切り裂かれた皮膚の溝から真っ赤で暖かい温もりを持った、甘い死の幻影を滲ませた血が、赤と黒の虹のように滲んでいた。ベッドを整え終わると、先輩は「寝る時はベッドを使っていいからね」と、ほろ苦い笑みを浮かべて、海と同じように床の上で寝てしまった。もう一枚の毛布は私のために使わないで置いたのだろうか。
今日会ったばかりの人の部屋に私だけが取り残された。少しの居心地の悪さと、みんな寝てしまった安心感から、私は勝手に部屋をうろついてティッシュを探した。止血をするために。テレビの横に置いてあったボックスティッシュを見つけると、何枚か取り出して傷口に強く押しつけた。しばらくそうやって居ると、血は止まって、本当にすることが無くなったから、私も寝ることにした。これで本当の眠りにつくことができる。何かが終わってしまったことの喪失感と、その中から湧き出たひとすくいの纏綿がまぶたを閉じさせた。着けっぱなしの部屋の明かりが気になったけど、強い眠気はそれさえ飲み込んで、重力のあやふやな、まどろみの世界へと私を導いた。
「あああっ!」
夜中、何の前触れも無く飛び起きた海は、絶叫と共に立ち上がった。寝ていた私はその声に飛び起きてしまった。
「びっくりした?」
返事もできずに、こくこくとただ首肯すると、海は満足げに笑った。
「お前、まだ酔ってる?」
「うん」
私はまだ酔っていた。
「あたしも酔ってる」
私がびっくりしたことに気分を良くしたのか、海は飲み残しのビールを飲み干して笑った。それから、へたり込んでいる私に顔を近づけると、小さな声で、
「悪い子」
と、面白そうに言った。
私達が何をしていたのか、海は知っていたのだと、私は直感的に悟った。苦い罪の味がゆったりと溶け出して、私の体を覆う。
「ねえ、何してたの?」
そんなこと言われても、本当のことなんて言えない。本当のことを言ったとしても、海はもう知っている。知っていて私をもてあそぶ。海を裏切ったのは私で、そんな私が言えたことじゃないけれど、彼女は傷ついているようには見えなかった。
「退廃について話してただけだよ」
私は知的虚栄心にまみれた言葉でごまかした。ごまかそうとした。頭の良さそうな言葉を使えば、私のしてしまったことを学問的に正当化できるような気がしたから。
「ほんとに?」
「うん」
頷くしかなかった。実際私達の行為は退廃以外の何ものでもなかったことは確かだ。言葉を使わなかっただけ。言葉を使わないで話し合っていただけ。それは満更嘘でもないはずだ、と心の中で言い訳をした。でも海は、
「嘘」
と、一言告げた。そうして空き缶をゴミ箱に入れると「眠ってたように見えた?」と聞いてきた。本当は寝てなんていなかったのだ。
「ほんとに退廃について話してただけだって言うなら、あたし達嘘つきだね」
私は何も言い返せなかった。
「で、何してたの?」
海は私から真実を聞き出すことを楽しんでいるようだった。
「その、先輩と・・・・・・」
「したの?」
はっきりと、きっぱりと海は聞いてきた。
「・・・・・・うん」
私はうつむいて、海と目を合わせられずに膝の上を見つめるしかできなかった。
「ま、仕方ないな」
「怒ってくれないの?」
海は「怒ってはいない」と言ってくれた。でも怒ってくれた方がまだ良かった。怒られることで罪が少しでも償えるなら、その方が良かった。そんな私を見て、海はふふっと優しく微笑んで、それから言った。
「怒らせたかどうかが問題じゃない。自分が何をしてしまったのかを考えるべきだと思うんだよね。怒るってことは、場合にもよるけど、善意の場合もある。好きだから怒ってくれてるとか、良くしようと思って怒ってくれてるとか色々あるけど、とにかく怒ってくれるという行為は善意だよ。怒らせるということは善意を裏切ることだぜ?」
その言葉を聴いて、私は自分のことしか考えていなかったことに気付かされた。私は自分の罪を認識して償いを探したけど、それはひとりよがりなことだったことに後悔を感じた。これも先輩の言う、無意識の罪ってやつだろうか。
「そんなに気にするなよ。あたしも気にしてないから」
「うん。ありがと」
「でも、一人だけいい思いするなよ」
そう言うと海は私の首筋に手を回してきた。
「え?」
海が何をしたのか、私は初め理解できなかった。海は私の頭をかきいだくと顔を近づけて、小さな堅く白い、かわいげな歯の覗く唇で、私の唇の熱と自分の唇の熱を同化させた。海が何をしたのかが分かってくると、体の中から未知の汚らわしい、甘い酩酊のさざなみが押し寄せてきた。舌が私の中に入ってきて、唾液はアルコールの味がした。私の心は苦みを感じた。口の中で海の舌が、別の生き物のようにうごめく。同性とのキスに、初めは拒絶を感じていたけれど、次第にとろりとした快感が私を包んで、どこかいけない場所に連れ去ってしまったようだった。「いけないこと」は生きる不安をどこかへ吹き飛ばしてくれるような刺激を持っているような気がするから、今までそれを求めてきた。だから私の愚かな精神は、これもそのうちの一つ、「いけないこと」に数えられる行為だと思ってしまった。だから徐々に自分から彼女の熱を求めてしまうようになって行った・・・・・・
「ねえ、最後までしようか」
口づけを終えると、海は口にしてはいけないようなことを言った。
「それはだめ!」
「なんで」
「それは、それをしたら、たぶんもう私は『いけないこと』の重さに耐えられないから・・・・・・」
「そう」
海はつまらなさそうに布団の中にまた潜り込んだ。
「こいつとした次点で『いけないこと』はとっくに通り越してるよ。なのにあたしとはできないんだ?」
布団から首だけをぽっこり出してそう言った。
「それは・・・・・・」
「それは、何? ま、別にいいよどうでも」
そうして海は、私には無いようなかわいらしさを纏った目蓋を閉じた。
また空白の時間が訪れた。
朝起きると二人はまだ寝ていた。借りたベッドの枕元に置かれた時計を見ると、時間は昼の十一時。日曜日になっていた。テーブルの向こうに海の入った大きな毛布のかたまりがある。ベッドの下には先輩が膝を抱えて、こちらに背を向けて眠りについている。死んだように眠る彼の背中には空疎な陰影が張り付いていて、見上げた夏の名残のような空にも、衰弱した孤独が滲んでいた。無機質な空気の中、私はさびしさに膝を抱えて無為に浸った。
ガラスの解剖 笹十三詩情 @satomi-shijo
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