第3話

 ごくたまに、彼女はこんな顔をして何かを考えている時があった。でもそれが何を考えてるのかは分からない。私には考えつかないようなことを、単に隠しているのかもしれない。ただ、その目はひどく残酷に世界を見ている気がして、私なんかよりもよっぽど世界をわかっているんじゃないかと錯覚させる。茶髪の見た目よりも、そっちの方が怖かったし、興味があった。そしてその得体の知れなさが恐ろしかった。私のことも、何もかもお見通しって言われているみたいな目をするから。その異様に鋭い眼光を隠すために、あんな恰好までしてわざとバカのふりをしているんじゃないか、なんて思わせる。だからと言って何を隠しているのかは分からないけれど、普通なら話もしないような人種の彼女に惹かれるのは、その不思議さによるものなのかもしれない。

「でも、そんなに意外だった?」

「何が」

「だから、あたしが進路の話なんかしたこと」

「そんなことないよ」

 失礼なことを言ってしまったと気がついて、慌てて取り繕う。

「大丈夫。いつも言われるから。海ってギャップ萌えだよねって」

「確かにそうかもね」

「あと、何考えてるか分からないとことかも」と付け足すと、海は「確かに」とうなずいた。

「でもしょうが無くない? あたしら話すようになったの、三年になってクラス同じになってからだし。あたしも、あんたのことなんて全然知らないよ」

「しかも夏休み前に季節外れの席替えをして席が近くなってからだしね」

「そうそう」

 と言って頷くと同時に三時間目のチャイムが鳴って、齋藤が入ってくる。横目で私達の方を憎らしげににらんでいる。海は何かを感じ取ったのか、気怠そうに後ろ向きだった体を前に戻していった。

目の前の細い背中を見ながら、彼女の言葉をしみじみと考えると本当にその通りだった。だから正直に言うと、私は彼女のことを本当は良く知らないのだ。あんな見た目だし、学校で一番派手で目立ってる彼女と、自分が喋るようになるなんて思ってなかった。何も知らなかった頃の小心者の私は、できればお近づきになりたくないなあ、なんて思っていた。でも、こうして話すようになってみると彼女はとっても魅力的だった。何故なら彼女の眼は、容姿通りのバカの眼じゃなくって、私と同じ、未来の無い匂いを放っていたから。

 将来。未来。夢。彼女にはそれが無かった。というより、そんな物欲しがっていなかった。それなのに、ああして笑っている。何事もなく生きている。だから私も彼女と同じものが欲しかった。本当のバカは海と同じようなかっこうをして、下らないことにはしゃいでいるけれど、彼女はどこか違うのだ。

 でも彼女にそんなことは直接言えない。恥ずかしいし、「馬鹿にしてんの?」なんて言われかねないし、何より失礼だ。それに言えない一番の理由は、やっぱり恥ずかしさ。「人に流される未来なんていらない」なんて言ったら、誰が聞いたって中学生の背伸びした哲学ごっこにしか聞こえない自覚くらい私にもある。

 ああ。言いたい。言ってしまいたい。

 「なぜか未来が無意味だ」、と。

 なのに一部の人はそれを言っても許される。偉い学者の先生とか、私の本棚に入ってる文庫本を書いてる人とか。私もおんなじ事を言ってる筈なのに、私の声はかき消される。

 そんなタワゴトを言ってもいい力が欲しい。だってこんなの不公平だ。

だから私はどうしたらそんな力が自分のものになるのかを考える。「やっぱり、死かなあ」なんて考えていたら、「でも、努力はしないのにね。努力しないで未来が無意味なんて言ったって、誰も聴いてくれないよ」そんな思考が、海の声で再生された。

我ながら、言いそうだなあ。余計にいらいらしたから、「うるさい、どこかへ行け!」。私は聞こえないふりをした。


 そんなことを考えていると、号令がかかって、礼をして、椅子に座る。

机に頬杖をついていると、齋藤は黒板にチョークで何やら汚い字をのたくらせていた。

 黒板に『旅立ちにあたって』という下手くそな字が書かれている。三時間目は何だったっけ。教室の掲示板に張ってある時間割を確認すると、カラーで色分けされた、安っぽいコピー用紙の時間割に「道徳」という文字が見えた。

「みんなはもうすぐ卒業が迫ってるよな」

 気合の空回りした声がいつものようにざわめく教室に響く。

「前の時間から少し考えてきたと思うけど、今日は黒板に書いた通り、卒業にあたって将来の目標を書いてもらうから」

 とたんに教室はざわめき出して、

「えーとか、うーとか言うな!」

 と言うと、すかさず誰かが

「あーとか、いーなら良いんですか」と言う声が挙がってみんな笑った。さっきよりも教室がうるさくなった。下らない一つのことを共有して、みんなが同じように笑う。どうやらこれが一体感というものだろう。「私はそんなものいらないけどね」なんて納得していると、

「死ねばいいのにね」

「は?」

 あざ笑うような目つきで教室全体を眺めて、私の方へ振り向きながら海は唐突に笑う。あまりの変化について行けないでいると、

「みんな死ねばいいのにって、そう思わないかって事だよ」

「なんでそんなこと言うの?」

「周り見てみなよ」

 顔を上げて回りを見てみると、一部を除いてほとんどの生徒が半分授業を受けながら、近所の席の友達と戯れているいつもの光景だけ。変わったものは別に無い。「どこの高校受ける?」とか、「将来の仕事なんて決まんないよなー」なんてはしゃいでいる。板書をするような授業じゃないから、こんな場合には教師も一緒になって笑ってる。

 ただ、何がそんなに楽しいのか、なんでそんなに自身満々につまらないギャグを言えるのだろうか。どうして空っぽの考えからそんなに笑いが出てくるのだろうか。私にはわからなかった。「何も考えてないくせに、馬鹿みたいに騒いで笑っている。私はああなりたくない。だから私はお前らが嫌いだ!」でも、「私が孤独なのは、私が間違っているからなのだろうか。もしそうだとしたら・・・・・・」そんな思考もいつも通りの私。全てがいつも通りだった。

「何が言いたいの?」

 不機嫌な気分を抱いていても、それが最近の私の普通だから、自分の感情なんて気にも留めずに聞き返したけれど、海は心の中を見透かしたように、

「お前、あいつら嫌いだろ?」

 一言で今の感情を言い当てた。私は戸惑いながら、

「まあ、そうだけど」

 と、答えると、海は満足げな顔をしてまた笑った。

「あいつらも私らのこと嫌いだよ」

「知ってる」

「なんで嫌いか知ってる?」

「みんながせっかく盛り上がっているのに、わざと冷めたような態度の奴がいると不愉快だからでしょ」

 正解、と海は頷く。

「でもさ、あんたの方はなんであいつらが嫌いなの。理由ってなにさ?」

 答えなんて決まってる。あいつら、必死になって勉強してるのに、自分のためになんかやってない。周りの流れで、高校に進学する。その勉強をする。なんとなくやらなくちゃいけない習慣だから。それに従わなくちゃいけなんて思い込んでるから。だから嫌いなの。

 それに、勉強しない奴等も嫌い。馬鹿みたいにうるさく騒いで、充実した生活を送ってる気になってる。本当の馬鹿で迷惑で目障り。

 そんな奴等の中で生きて行くには、馬鹿の仲間になるか、意思のない奴等の仲間にならないとだめって空気が流れている。平穏のために、あんな奴等といっしょに友達ごっこをする気もない。一人でいた方がまし! 「どうせあんたは私の答えなんて見抜いているくせに」

 そんなふうに言ってやりたかった。でも、みんなの居る教室で、そこまでの決定的な一言を言いだす勇気は無くて、

「さあ、なんとなく……」

 と言うしかない。

 すると、「本心じゃないよね」という意味が込められた、するどい眼光が私の網膜へと反射しているのを知っていながら気付かないふりをして、海は軽やかに笑った。薄くリップクリームの塗られた桜色の唇の粘膜が左右に少し広がって、朱色がかった羽毛の肌触りをしていそうな頬が口角に控えめな楕円を描く。

 美しく、恐しげな二人だけの秘密。「ばらしちゃおうか」、海の笑いはそう語っていた。

「やめて」

「いいじゃん。どうせあたしらに居場所なんてないんだし。失うものなんて持って無いんだから。ためしに全部投げ捨ててみれば、結構、」

「絶対にやめて!」

 私の机に寄りかかる海の腕を強く握りしめた。

「確かに私は、あいつらがきらいだけど、それは何か…… それを言ってしまったらなんとなくいけないような気がするから」

「要するに、正当な理由が無いからだろ。うらやましいだけだからなんだよ」

「うるさい!」

 急激に机を引くと、椅子の脚を半分浮かせて、私の机によりかかっていた海の体は支えを失って、大きな音と一緒に倒れた。教室中が森閑として、ある意味で神聖でもあるような緊迫が空間に満ちた。

 「出て行け!」という齋藤の大きな声に従って、だらだらと廊下に出ようとしたら、クラス中の視線がこちらに向いて、そこには蔑むような感覚を感じた。だから、私もクラス中の奴らを馬鹿にする。「何のために生きているかなんて、お前らは考えたこともないくせに!」そんな私の表情から何を読み取ったのか、海は、

「無駄だよ。はやく行こう」

 とささやいた。海の後に続いて廊下に出ると、彼女はまるで行先が決まっていたかのように、すたすたと歩き出す。それにつられて、海の背中を追うために歩き出すと、「どこに行く気だ!」という齋藤の怒鳴り声が廊下に響いた。私達は歩き出していて、隣の教室の前にいたから、二つの教室から好奇の眼で見られた。授業をサボりたい生徒は過剰に反応して、ここぞとばかりにざわめき出した。どうせ「指導が長引かないかな」なんて思ってるんだろう。

 教室の扉が開いて、齋藤が勢いこんで出てくるなり、私の頭は混乱した。脳をゆさぶる何かが起こって、一瞬の間視力が失われた。時間差で顔の半面が熱を帯びる。「痛くなんかない」。そんなふうに強がって見せたかったけど、強い刺激を受けた私の体は正直に涙を滲ませた。

「頼むから、普通の生徒の邪魔をしないでくれ」

 私達を打った手を、だらんと下げると、つられて全身の力が抜けたかのように、齋藤は溜息をついた。「普通の生徒」という言葉が私の胸を辛くする。私は普通ではないのだろうか。生きることに悩んだり、泣いたりするふつうの中学生ではないのだろうか。そんな考えがぼんやりとした頭にぼんやりと浮かんでくる。でも、奴はそれに気がつかない。気がついてくれない。

「もういいから、教室に戻れ」

 怒りも呆れも通り越したようなその顔は、なんだかかわいそうにも思えて、

「はい」

 と、気まぐれな首肯をして私達は教室へ舞い戻った。

 「うらやましいだけだからなんだよ」という海の言葉が私の頭の中で何度も反響した。うらやましい? あいつらが? そんなことは無い筈だ。私は自分に言いきかせるように否定の言葉を探した。確かにあいつらは充実した気になっているのかもしれない。何も考えないで、遊んで、笑って、勉強して。でもそこにはなにも無い今日という時間だけがある。何も産み出さない今日。その日一日が良ければいいって考え。私だって遊んで、笑ったって、勉強したっていい。でもそうやって、何も考えないで何かをした後、この手の上に握られているのは、いつだって虚無だけなのだ。何か考えて遊ぶんならいい。何か考えて笑うんならいい。何か考えて勉強するんならいい。だけど、考えた結果も今の私には虚無しか残さないのだ。そんなものに意味があるの? って疑問だけが残るのだ。

 齋藤は横目で私達をちらちら見ながら教師用の机に腰掛けてパソコンをいじっていたから、私はまた不毛に怒鳴られることを避けたくて、おとなしく原稿用紙に向かってみた。けれど、「未来」とか「将来」ってそもそもなんなのだろうか。また私の悪い衝動が起き上がってきた。授業で書かされる「夢」なんて、事務的に片づけてしまえばいいのだろう。だけど私はそこに形而上学的な美しい意味を夢見たかった。  夢想家であり、思想家でありたかった。だから、夢を職業と同じ意味には捉えたくなかった。

 今、私は職業を書くことを求められている。「だからいやなんだ。何も疑わない人間も、「夢」に職業以外の意味を仮定しない人間も」青臭い反発が息を吹き返す。「思想のないやつは馬鹿だ」「思想家は孤独だ」いつか読んだ小説の、青臭いことばが思い出された。孤独が私を特別な存在にしてくれる部分もあったけれど……

それでも普通になりたいなあ、なんて考えが私を誘惑する。教室に戻る時に、流し見をしてきた他人の夢を考える。一番端の席の橋本は、「私の夢は薬剤師です。」なんて書いていた。斜め前の木原の夢は声優になることらしい。原の夢はパイロットで、乃木の夢は消防士。

 みんなして頭がおかしくなるくらいの平和な答え。声優もパイロットも、なるのは難しいかもしれないけど、なれなくたっていい夢。実現の困難なだけの、普通な夢だ。本気でそんなことを考えてはいないのかもしれないけど、抱かなくもない夢に分類されるもの。

 それに比べて、私の原稿用紙の右端には、「美しくなること」なんて文字が、気合を入れて書いてある。美しくなることなんて抽象的に美化された、精神の問題だ。お金を稼ぐような、生活の夢じゃなかった。でも生活の在り方よりも、精神の在り方の方が私にとっては生きる上で重要だから、重要な方を優先しただけ。精神の在りかが無ければ、生活することさえ難しいのだから。それに私はなぜか、無意味な平和には反発しなくちゃいけないような強迫観念を感じていたから。

 書き上がった原稿用紙を持って、ふてくされた態度が分からないよう、できるだけ静かに、そっと齋藤の座っている古びた灰色の机まで歩いていった。誰よりも遅く書き始めたけど、書き上がったのは私が一番最初。そのことに私は少しだけ優越感を感じた。

「美しくなること」なんて書いて提出しようとするなんて、あいつらからしたら、いつもの馬鹿が、また何かやってるって程度なんだろう。

でも、別に奇をてらったわけじゃない。私にはどうしてもそう書かなくちゃいけないと思えてしまうから。

なのに……


「書き直し!」齋藤は出だしの一行を見ると、私の夢を投げ捨てた。

「そういうことじゃないんだよ。そんな漠然としたものじゃなくて、将来なりたいものを書かなくちゃいけないんだよ。言葉の意味をはき違えるな、もう三年なんだから」

「はき違えてなんかいません」

 私は断言した。すると齋藤はうっとうしそうに、

「だからぁ……」

と語尾を伸ばした。「だから」の語尾を伸ばすことが、どれほどイラつく言葉かも知らないで。

「うるせえハゲ。だからぁ、って言葉には、何度言ったら分かるんだ、って意味が意図せず込められてしまうものなのです。それは生徒の心を傷つける言葉です。その一言で人がどれほど傷つくか分からないんですか? あなた教員に向いてないんじゃないですか?」と心の中で言い返してどうにか我慢する。

「なりたいものを書きました」

「いつまでも、舐めた口きいてんじゃねえよ。職業、何に就きたいかだよ」

 ハゲ頭から覗いた頭皮が心なしか赤くなっているようにも見える。

「お前はそうやって人のこと馬鹿にして楽しいんか。そうか楽しいか。あっそう。そうだよな。楽しいよな、いくら怒らせても俺らは怒鳴ることしかできないもんな」

 そこまでまくし立てると今度は溜息を吐いて今までとはうって変わって、かわいそうなものを見る目で私を見て、疲れたような口ぶりになる。

「そうやって安全な所から攻撃して楽しむことしか、お前らにはできないんだろ。お前らみんなそうだよ。うさ晴らしだよ。いい迷惑だ」

 確かに教師からしたら、私達なんてただの問題児なんだろうな。という自覚が頭をよぎる。だけど、それは行為だけの問題だ。本当は得体の知れない不安に駆り立てられて、走り方も分からない道の上を進んでいるから、色んな所にぶつかったりしながら、むちゃくちゃに走る方法を探ってる。正確に比喩するなら、終わらないとひどい罰を受ける宿題を出された子供が、解き方の全く分からない問題にあたって、癇癪を起して暴れているようなものだと思う。

 今までに教えられてきた公式はどれも役に立たなかった。そうだ、私は駄々をこねる様子を見た誰かが、やり方を教えてくれるのを期待していた。それが私の行動理由なのだ。助けて欲しいだけなのだ。でも、齋藤はやり方を教えてくれそうになかった。と言うよりか、私の期待する方法は知らないみたい。

「そんなんじゃありません」

 と否定しているのに、

「俺らじゃなくて、その辺のチンピラにでも喧嘩売って見ろよ。出来ないだろ?」

 齋藤は得意げにニヤ付く。根性のねじ曲がった、やな笑い方。でも、このままいたちごっこを続けたって何にも前に進まない。

「わかりました。書き直します」

 ついに私の方が根負けして引き下がる。こうやって世界は直進しないで曲がって行く。諦めと妥協。

「ねえ、何て書いたの」

 席へ戻ると海がすかさず聞いてくる。

「なんでもなっ」

 私に答える気が無いのを予測していたのか、返事を聞くまでも無く、節約の為に白黒で印刷されて配られた、きたない作文用紙を横から掠め取って行った。

「ちょっと!」

「何?」

「なんで諦めたの。このまま出せばいいのに」

「無理だよ」

「なんで? 面白いじゃん」

 やりたいことは特にない。だけど私達には欲しくも無い未来が迫っている。進む道は無いけれど、みんながそうしているから、なんとなく同じように惰性で進むふりをする。真っ暗な岬の先で前に進めって背中をつつかれてるみたいな不安ばかり。

 今の私の場合、「私が貴校を志望した理由は、外国語学習に力を入れており、交換留学の制度があるためです。これからの多様化する社会の中で、多角的に物事を判断し、円滑なコミュニケ―ションをはかる能力を養いたいと考えているためです。」なんて在り来たりなでっち上げを志望理由の欄に書き込んでいく毎日のことを指す。

そんなことをしても、何にも前に進んでない気がするんですが。

「じゃあ、バンドしたら?」

「うん……」

 バンドがやりたいなんて言ったのは、本当のところ、適当な嘘。あの歌のように美しくなりたかっただけ。「バンド」なんて言ったのは単なるカンシャク。

「じゃあ、海はどうするの。卒業したら」

 何か恐ろしく決定的に私を殺す言葉が、「バンドやりたいなんて、ほんとは嘘だろ?」って言葉が、ほんの偶然のように彼女の口からこぼれてしまいそうで、私は急いで彼女への質問で話を遮断した。

「私?」

「うん」

「結婚する」

「は?」

 そんなことを聞いたのは初めてだった。「相手は?」とか、「なんで?」とか慌てることしかできないでいると、彼女は私の顔をはっきり見て、何か値踏みでもするかのように何度か頷くと、

「やっぱ無理だよ」

 と、結婚の質問には何も答えずに笑った。困惑して

「結婚が?」

 と、馬鹿みたいに尋ねる私を、長いまつげの目で面白そうに観察しながら、

「違うよ、ばか。それは嘘!」

 と手を振り上げる真似をした。

「お前は歌手にはなれない。向いてないって話」

 また、触れられたくない話に戻ってきた。

「話、戻るんだね?」

「まあね」

 その笑顔が冗談であって欲しいと私は願っていた。でもそれが否定できないことも心の奥で既に感じていて、やっぱり彼女は頭が良かったのだと私は落胆した。彼女は見抜いているのだろう。私が本当に欲しがっているものが歌手なんかじゃないことを。それを分かって否定している。

 あの歌のように美しく死ねば、私の青臭い感情は、簡単に、努力もしないで受け入れてもらえる。「ああ、あの子はあんなにいっぱい考えて、悩んでいたのね」って。本当に欲しいのはそれだろうって。

 だから、「向いてない」って一言に潜む遠回しな否定は、胃の底が急にとろけ出してしまったみたいな恐ろしい真実だった。

「やっぱり、あんたじゃ無理だよ。歌下手だし、顔も微妙だし」

「知ってるよ」

 なかなか言えそうもない事をさらっと言われて、私は強がってそう答えるしかなかったけど、見た目とか声を否定の理由にしているうちは、まだ私を完全には否定する言葉じゃなくて安心もする。でも彼女は言わないだけで、私の本質を見抜いている。それでも、決定的な言葉を言われなかったことは、安堵の材料足りえた。

「そんな顔するなよ」

 私の疲れた安堵を、歌手を否定されたことの無念さと受け取ったのか、海はふうっ、と溜息をつく。

「でもさ、あんたの考えてること、たぶんあたしの知ってるやつとそんなに変わらないと思うから」

「えっ」

 驚いて目を逸らす。以外過ぎる一言だった。私と同じことを考えている人なんているはずがない。こんなかっこ悪いことを本当に考えているんだろうか。こんなかっこ悪い病気を抱えてる奴なんて、世界でも私くらいのものだった筈。そう、これは病気だ。やる気が出ない病。未来が欲しくなくなる精神病。でもその病気が病気認定されてないから、私は健康でいなくちゃならない。ふりをしていなくちゃならない。病気は私を孤独にするけれど、孤独が私を孤高にしてくれる。私の考えは私しか持っていないもので、それにともなう感傷も私しか持っていないものだという自意識を満足させてくれるものだ。だから、同じような考えを持ってるのが、私が認めた人以外の人だというのは、嫉妬にも似た感情を起こさせる。

「なんとなく苦しいんだろ? なんとなく悲しいんだろ? 理由なんて、分からないんだろ? 進路のことだけが原因じゃなくってさ、いろんなもんが混ざり合って、理由も無く息苦しくなるんだろ?」

「海もそうなの?」

 知らない国で、同じ国の同胞を見つけたみたいに私が安堵しかけると、

「ううん」

 と首を横に振った。今度は落胆していると、

「あたしはわかんないよ。でも、あたしの知り合いがそういう奴なだけ」

「へえ、そんな人いたんだ」

「うん。でもただの引きこもりだよ」

「そうなんだ……」

 さらっと言われたけれど、引きこもりという言葉に若干の居心地の悪さを感じて戸惑ってしまう。

「引きこもりなんてみんなそんなもんだよ。現実がつらいとか、耐えられないとか言って人の金で引き籠るんだよ。「俺はみんなとは違うんだ。人が何も感じない、何気ないことがすごく気になって、悲しくなって、生きて行くことが耐えられない」なんて言って人の金で生きてるんだよ。耐えられないなら死ねばいいのに。不幸ぶって、近代の文学者か、哲学者にでもなった気分で自分に酔ってるだけ」

 拾った空き缶でも投げ捨てるように、いつもより大きな声で言った。

「……」

 それは完全に私のことだ。なにもかもが適格で、正論で、「死ねばいいのに」の、その一言が突き刺さる。

 だけど私はごく自然に振る舞う。本当は今すぐ死んでしまいたいところだけど、そうしたら他人の目の前で、自分の考えてることが、引きこもりと対して変わらないことを認めることになってしまうから。

「嫌いなの?」

「何が?」

「その人のこと」

「ううん。好きだよ。そうゆうの、見てて面白いから。不幸ぶって何かしようともしてないくせに。不幸ぶるなら、何かしてみてからにすればいいのにって思うけど、まんざら分からなくもないからね」

「……」

「ごめん、ごめん」

 話に耳を傾けるふりをして、平静を装う私に海はあやまった。

「別にあんたのことじゃないから気にするなよ。あいつはニートだけど、あたしらは学生だから。ちゃんと立派な職業に就いてんだから」

「うん」

 頷きながら、「それはやっぱり現実と向き合えってことか……」と自分に言い聞かせる。

「じゃあさ、明日ひま?」

「まあ、ひまだけど」

「んじゃ決まりね。デートしようぜデート」

「は?」

 何を言ってるんだ、こいつは。おっさんの誘い方と対して変わらない、品のないユーモア。そんな風につっこみつつ、「あしたどこかに遊びに行こう」ということだろう、と笑えない冗談を意訳して受け取った。

「どこに?」

「池袋。映画でも見ようよ」

「え……」

「どうしたの」

「いや、海にしては普通だなって思っただけ。もっと渋谷とかで、すごい色の服とか見に行くのかと思ったから」

「お前はあたしを何だと思ってるんだよ」


私は、蔑んでいるはずの、下らない会話に笑った――

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