第33話 目覚め

 朦朧とした意識の中、何かに揺さぶられている感覚、人の喧噪や電子機器の機械音。脈を打つ音がどこか心地良い、じんわりと意識が染み渡って行くような不思議な感覚。


 しかし、身体は動かせる事を忘れたように、ぴくりともしない。海崎さんはどうしたのだろう? いや、もうここにはあの子海崎さん居ないのか――。


 再び遠のいて行く僕の意識が、次に目覚めたのは白いベッドの上だった。


 窓からは桜が咲いている様子が窺がえる。鼻に着く独特な薬品の匂い、腕から伸びた透明な管の先には液体の入った袋が吊るされていた。


 カーテンで遮られたこの場所からでも病院にいるのは直ぐに分かった。


 シャッとカーテンが開かれた方に目を向けると、母さんが佇んで居た。


 「そう、目が覚めたのね」


 そう言い残し再び何処かへと行ってしまった。再び、母さんが現れた時には白衣に身を包んだ初老の医者と警察の人と一緒だった。


 その医者は僕の目にライトを当てて、名前と年齢、自分の身に何があったのか思い出せるかと問いかけて来た。その質問に僕は淡々と答えた。


 例の大通りで僕は何かに押されて車道へと飛び出した。いや、そうじゃないと、首を横に振って自分を叱る。僕は誰にも押されてなんかいない、自分の意志で飛び出しのだ。


 朝起きて学校や仕事に行って、帰っては寝る。この繰り返しが後、何十年も続くのかと、不意に頭をよぎった時には、もう何もかもどうでも良くなった。そんな悩みを打ち明ける事の出来る友達も家族も僕にはいない。


 補足する様に医者は僕が助かった理由を教えてくれた。僕に気付いた運転手は咄嗟にハンドルを切って、突然飛び出した僕を僅かに霞める程度だったらしい。その刹那の衝撃で地面に頭を打ち僕は気絶してしまったそうだ。


 「ふむ、軽い脳震盪のようですね。精密検査にも異常はありません。もし、心配であれば一日入院して頂いても構いませんが?」


 母さんは僕を一瞥する。


 「どう? 歩けそう?」


 僕は体の具合を確認してゆっくりと頷いた。


 「じゃ、早く支度なさい帰りましょう」


 「ああ、奥さん。お子さんの証言は概ね事故現場と合致しています。また、不明な点あればお話を伺わせて下さい」


 入院する件と事故の件に対応する母の後ろ姿は、とても淡泊なものだった。支度を済ませた僕は母さんの後に続いて病室を出た。


 病室を出てから家に帰るまでの間に、親子の会話は一言も無い。自分の子供が事故に遭ったというのに、この人は何の反応も示さない。これが僕の家族であり、親子関係だ。殆ど家にいないこの人が、病室にいただけでも僕にとってはあり得ない事だと思わせる。


 日々の食事変わりだと言わんばかりに、無造作にテーブルへ置かれた千円札。たまに帰って来てると思ったら、玄関先に知らない男物の靴。


 一度その現場に立ち会ってしまってからは、男の人が来る日には必ずSNSに始まりと終わりの文字が送られてくるようになった。


 自分の親が誰かと身体を重ねる所なんて想像するだけで嫌悪感で一杯になる。 


 そんな時には、通学路にある喫茶店で時間を潰すのだ。店主はそんな僕を不審に思っていたに違いないけど、何も聞いては来なかった。普通、通い詰めればそれなりに仲良くはなるのにだ。


 しかし、そうはならない理由を僕は知っている。近所の奥様方の噂話を小耳に挟んだ事があったのだ。その噂話の中には佐野さんの家から、喫茶店の店主が出て来たのを見た事があるというものだ。


 店主の立場からしたら、噂でも僕と親しく話せはしないだろう。喫茶店は接客業で印象は大事だ。それくらい僕でも分かる、本当にそれが噂話だったなら――。


 それからしばらくして妹の様子も変わっていった。中学生の頃はまだ、大人しい雰囲気だったが、高校に進学すると同時に家出しては、戻って来たりを繰り返している。そんな状況にも関わらず、目の前を歩くこの人は特に何も言わない。


 この人にとっては僕達兄妹の事なんてどうでも良いのだ。学校にも家にも僕がいる意味は何も無い。だから僕は終わらせようとした。何もかも全部投げ捨てた。だけど――。


 家に帰って来た途端に母さんは上着をその辺に投げ捨てて、冷蔵庫に沢山入った缶ビールに口を付けていた。


 「どうして何も聞かないの?」


 母さんはどういう状況で僕が事故に遭ったのか知っている筈だ。僕がわざと車道に飛び出した事も――。


 母さんは手に持った缶ビールを勢い良く机に叩きつけ、目元に敵意を滲ませて洪水の様にまくしたててくる。


 「あんた何がしたいの! 私を困らせて楽しいわけ? 私はね朝晩に働いているの! 疲れているのよ! 愛も好き勝手しているだけでも頭が痛いって言うのにあんたまで……私にどうして欲しいって言うの――」


 初めて僕に向けられた感情の衝撃、例えそれが罵倒や叱責だったとしても僕に対しての言葉だと思うと苦痛では無かった。


 言葉を尽くす度に涙が溢れ、鼻を啜り感情のままに物を投げつけて来た。ああ、この人も……母さんも一人ぼっちだったのかと初めて気が付いた。誰にも言えない悩みを一人で抱えて、その問題を直視すると細い糸が解れてしまうのが自分で分かっていたんだ。


 自然と僕の目からも一筋の雫が流れ、鼻の奥がツンと熱くなる。今までは嫌なものは、見て見ぬ振りをし続けていた。


 物心ついた頃から母さんの事が怖いと感じていた。僕達兄妹に向ける表情は能面が張り付いたようで、何を考えているか分からなかった。けれど今なら分かる、母さんも僕と同じだったんだ。


 やりきれない思いを自分の身に宿し、耐えて溜め込んで、決して僕みたいに投げ出さなかったのは親としての愛情か、世間体か。でも、確かにそこには何かがあって、それは僕達兄妹が裕福と言えないながらも成長してこれた事を考えると、きっと前者だと思いたい。


 僕があの世界で海崎さんに好意を抱いたように、母さんも僕が顔も知らない父と恋をして、それから僕達が生まれたのだ。そこに何の情も存在していなければここまで育つ事はなかっただろう。


 残念ながら僕が体験した思い出は全て絵物語、そうであったら良いと言うただの虚妄だった。『人生をやり直してみたい』と、誰もが一度は考えた事がある物語。


 僕達が現実で体験する物語には、ボードゲームの様に一マス戻るなんて言うのはありはしない。端的に言ってしまえば進むか、進まないかの二択だけ――。人生はその連続した選択を歩んで行く事になる。その中で正しい道なんていうのはあるのだろうか。


 だけど、あの世界で感じたものは全てが嘘だとは思いたく無い。こうありたい、こうしたいと自分が思った感情は本物だ。今、僕がしたいと思う事は――。


 「ごめん、母さん。僕もどうしたら良いか分からなくって迷惑かけてごめんね。これからどうしたら良いか話そう。愛も含めて、僕達家族で」


 そうして僕は母さんに包み込むように抱き着くのだった。

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