第32話 行ってきます

 この二週間ばかりの怠惰な生活と打って変わり、今朝の目覚めは爽快だった。それもその筈で、今日から二学期が始まるし、僕にとって大事な日になるのだから気が入るのも無理は無い。


 身支度を整えてリビングへ向かうと母さんがコーヒーを片手に驚いた様子を見せた。


 「あら、今日はやけに早いのね。まだ、六時前よ。学校に行く気になってくれているのは嬉しいのだけれど、少し張り切り過ぎじゃないかしら?」


 「母さんこそ、昨日も夜勤だったっていうのに早いよ。どうかしたの?」


 「何でもないわ」と首を振って母さんは僕にもコーヒーを注いでくれた。そうは言っても僕の事を心配していたに違いない。僕は母さんの傍に行って、生まれて初めて自分の意志でハグをしたのだった。


 突然の僕の行動に驚きを隠せないでいた母さんだったけれど、そっと静かに腕を回してくれる。僕の想像と違い母さんは華奢で、か細かったが誰よりも優しく温かい温もりを感じた。


 「ちょっと早いけど学校に行って来るね」


 「そう、もっとこうしていたかったけれど残念ね。行ってらっしゃい」


 「行ってきます」


 僕は家を出て学校へと向かう。いつもの通学路、ペダルを回す足に力が籠る、徐々に高まる血流が僕の体温を上昇させた。遠目から学校が見えて来る。いつもの大通りに捕まり、ようやく息が切れていた事に気が付くほどだった。

 

 この場所を見る度に事故が起こった日の事を思い出す。


 二度目の入学式を終えて自分にとってはありえない時間を過ごせた。色彩が賑わう華やかな高校生活、僕が渇望して求めたものが今はあった。こんなに毎日が楽しくて、幸せな事なんてこれ以上に無かった。


 信号が切り替わるのを呼吸を整えて待っていると、横断歩道を渡った先に海崎さんの姿が見えた。僕と彼女を隔てるのは大きな道路のみ、辺りに人の姿は無かった。僕は気持ちを抑え切れずに恥ずかし気も無く叫んだ。


 「海崎さん、おはよう! 一華さんは?」


 彼女は僕の呼びかけに気付いて、顔を上げてこちらを見つめていた。彼女はゆっくりと僕の方を指差すと、後ろから声がする。


 「私もここにいる。また、小さいから見えなかったとか言うなよ」


 振り返ると一華さんがいつの間にか傍に居たのだ。僕は図星を突かれたのを誤魔化すように一華さんの手を取った。


 向こうに渡らないと海崎さんと話しづらいと思ったのだ。


 赤く点灯する信号機、僕は左右を確認した。よし、車は来ていないな、逸る気持ちで赤信号のまま渡ろうと足を踏み出した。その瞬間――。


 「ダメ! 来ないで!」


 今まで聞いた事の無い彼女の叱責とも取れる大声に、僕の心臓はきゅっと小さくなった。こんな大通りを赤信号のまま渡ろうとした僕が悪い。叱られても当然だ。


 「ごめん! 早く傍に行きたかったから」


 彼女は首を横に振り静かに口を開く。


 「あの時の返事を教えてくれるんでしょ? でも、その前にもう一度私の話を聞いて――」


 彼女の口からは様々な思い出が紡がれていく。その話の合間合間に声のトーンが沈んだり明るくなったりしていた。僕が関わった出来事一つ、また一つを噛み締めるみたいに――。


 気持ちの良い声に僕も耳を傾ける。海崎さんの笑った顔、困った顔、悲しい顔、どれも目を閉じれば浮かび上がって来る。それに初めて僕の手を握ってくれたあの温もりは忘れない。そこに一華さんの入る余地は、もう無かったのに僕は差し出された手を取りそうになって逃げだした。


 僕自身が逃げ出した事に一番許せなくて、折角また初めから高校生活を送れているのに、これじゃ、あの時と同じだと思った。変わろう、変わりたいと願って行動して今があったのに――。


 信号機は赤色のまま点灯していて、普段交通量が多いこの通りで存在するのは僕と彼女達のみ。不思議な光景で、まるで一枚絵になったみたいだった。


 「覚えてるか? ここで蓮は一度私の手を取った」


 「うん、そうだったね」


 本当は忘れたかった。あの事故の時、歩道側から差し出された手とは別の手を僕は取った事を。それが一華さんだったなんて、祭りの日に言われるまでは知らなかった。知りたくなかったから逃げ出したんだ。でも、知ってしまったから決めないといけない。


 「辛いなら、私を選べば良いだろ? 私ならずっと蓮の傍に居てやる事が出来る。ずっと――」 


 僕と繋いだ彼女の小さな手は少し震えている。あの夜みたいにその手は怖く無くて、僕に勇気を与えてくれる。


 この場所は僕にとって居心地が良くて、僕が欲しかったものがここにはある。失いたくない、戻りたくない、考えたくない、そんな僕の弱い部分を一華さんは肯定してくれる。


 「佐野君がそうしたいなら私は止めない。決めるのは佐野君だから」


 ここでそんな突き放す事を言うなんて海崎さんはずるいな。僕だって本当は、もっとここにいる皆と高校生活を楽しみたい。ずっとこのままが良いよ。でも、それはたぶん違うんだろうな。


 「佐野君、あの時の返事を聞かせて」


 「蓮、私の手を取って」


 二人の声が重なり僕に選択を迫る。二人共、真剣な眼差しで僕を見つめていた。


 僕は以前に比べてマシになっただろうか? 少しくらい変われたかな? 僕だって、こんなにも自分にとって心地の良い場所を失いたくは無い。ここで感じた喜びや後悔に人の温かさ、色んな感情を踏まえて、今日、僕は彼女達に伝える為に来たんだ。

 

 深く深呼吸をして、一華さんの手をそっと離した僕は思いっきり言葉を振り絞った。


 「僕は海崎さんが好きだ、大好きだ!」


 哀惜の念に堪えれずに眼から溢れ出る涙を流して必死に想いを伝えた。僕の顔はクシャクシャだったろう、もっと理想的に格好良く伝えたかった。他にも、もっと言いたい事があった筈なのに今の言葉を出すだけで精一杯だった。


 「ありがとう。私も同じ気持ちだよ」


 風が吹き花弁が視界を遮る、その隙間から見えた彼女の表情は、今まで見たどの笑顔よりも優しくて、穏やかで、目から一筋の涙をこぼしていた。


 僕が離した手を一華さんは大切そうに胸に抱えて聞いて来る。


 「そっか……なぁ、蓮。もう一度答えてくれるか? もし、私がまた迷子になったら探してくれるか?」


 「もちろん、僕は一華さんを探すよ。必ず」


 僕の視界は涙でぼやけていたけど、一華さんは微かに微笑んだように見えて、それから静かに離れて行った。


 海崎さんに想いを伝えた事で、僕の二度目の高校生活は終わりを迎える。これは僕の中で決めた選択だった。


 「一華さん、僕を助けてくれてありがとう。けど、もう行くね」


 「……うん。また、いつかな」


 掠れるような声で返事をした彼女の方を、僕は振り返る事はしなかった。振り返ると決心が揺らぐかもしれないから。


 相変わらず信号機は赤色のまま点灯している。一歩、また一歩と足を出す。その歩みを海崎さんは優しく見守ってくれている。横断歩道の真ん中に差し掛かった頃、唐突に車のブレーキ音が耳に響き渡る。


 そして――。僕の視界は暗転したのだった。

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