第7話 説得

 自宅へ近づくにつれて、スパイスの効いた良い匂いが漂ってきた。玄関を開けると、その匂いは正しくここから発生しているのだと確信が持てた。


 洗面所で手洗いを済ませて、リビングに行くと母さんが愛と一緒にカレーをテーブルに並べている所だった。僕に気が付くと、母さんはおかえりと言ってくれた。


 皆と別れてから自分なりに思考を巡らせてみたけれど、どうやったら菊林さんを連れ出せるのだろうか。


 「あら? どうしたの? 何か悩み事でもあるのかしら」


 「どうして?」


 「私は蓮ちゃんのママよ。何でも御見通し、言ってごらんなさい」


 「お兄ちゃん恋の話? 愛も聞きたい」


 「そんなのじゃないよ」


 そんなに僕は変な顔をしていたのだろうか。それに折角の食事の時間なのにこんな話を持ち出しても良いものかと僕は悩んだ。けれど、母さんの考えを聞いてみたかった。


 「もし、僕が引き籠りになったら母さんはどうする?」


 母さんは想像もしていなかったという表情で、先程までの陽気な笑顔は無くなり、真剣な面持ちをしていた。


 「え~、愛はお兄ちゃんが引き籠りとか無理」


 「だから、もしだって言ってるじゃないか」


 「二人共、聞いてくれる? これはある人が、私に言った言葉なんだけど、人生の中で嫌な事って必ずあると思うの」


 母さんは何かを思い出しながら、少しずつ話し出した。


 「その嫌な事に当たった時はどうしても立ち止まったり、振り返ったりするものだと思うわ。でも、その一時の感情って言うのは、長い人生においては一瞬の出来事なのよ。平均寿命を八十歳とすると大体四千万分くらいの時間かしら」


 僕の隣で妹は頭の中で換算している様子が伺える。


 「そうやって考えると幾分か楽になると思わない?」


 「ああ~、数字が一杯だ」


 数字の羅列にでも襲われて、妹は頭を抱えて唸っている。その様子を見ながら微笑む母さんは話を続ける。


 「悩んだり立ち止まるのがいけない事だとは私は思わないわ。人それぞれ考え方が違うもの、物語の主人公の様に事が進むのは稀なのよ。二人共私の言いたい事が分かる?」


 「う~ん、愛は頭が爆発しそう」


 「まぁ、何となく」


 その返事を聞いた母さんは訝しむ表情で僕を見つめた。


 「寄り道しながらでも、その時間を歩んで行って欲しいと私は思うわ。さあ、カレーが冷めちゃうわ」


 そう言ってカレーを食べ進める母さんには申し訳無く思いながらも、僕は時計の針を見て気付いてしまった。


 「母さん、もう時間じゃ――」


 「あら、いけないわ! パートに遅れちゃう、誰か時間を止めて」


 先程とは真逆の事を言い放ち、慌ただしく母さんはパートに出かけていった。どこまで、本気なのか分からないけれど、僕が悩んでいるのを察する当たりは流石に母さんだ。


 食器を片付け、僕は明日の弁当の準備を始めた。週に二回から三回ずつを愛と分担して用意している。愛には彩が悪いとかのダメ出しをされるけれど、味に不満は無いらしい。


 僕は母さんから見ると、どう映っているのだろう。高校に入学した途端、急に身なりを気にしたりしてどうしたのかと不安にさせただろうか。それとも先程言っていた、長い人生の数分から数十分の時間で変わった、何かを決心したと思ってくれているのだろうか。


 僕を取り巻く環境は、確かに少しずつ変化している。クラス委員になった事も、暁彦君と昼を共にする事も以前に比べると太陽と月くらい交わる事は無かった。やった事と言えば、身なりを整えて、相手に聞こえる声で話をするだけ、仰々しい事は何一つしていない。


 あっ、そういうことか。いきなり大人数で友達になりましょうや、学校に行こうじゃ無理があるのは当然の事だったんだ。少人数から徐々に打ち解けて行けば、菊林さんも出て来てくれるかもしれない。


 卵焼きにウィンナー、今日カレーに使った豚肉の余りと玉ねぎで生姜焼きを作った。朝にもう一度加熱してから、サラダを入れて保冷剤で冷やせば完成だ。


 明日の準備も終わり、玄関の施錠を確認して僕は自室に戻った。


 翌朝、早めに起きた僕は、弁当の用意をして朝食を早めに済ませた。妹の愛はまだ寝ているみたいでリビングにはいない。母さんは眠気眼で朝食の味噌汁を啜っていたが、僕の行動には一切触れずに、行ってらっしゃいと送り出してくれた。


 いつもより早めに出たのには理由があった。登校前に菊林さんの家に寄りたかったからだ。オリエンテーションまで、もう数日しかない。登校前と放課後の二回会いに行こうと決めていた。


 菊林さんの家が見えてくると、家の前には一人の制服を着た女子が立っていた。どうやら、彼女も僕の姿に気が付いたようだった。


 「おはよう、佐野君。どうしてここに?」


 「おはよう。たぶん、海崎さんと同じ理由だと思う」


 彼女は責任感からか、僕と同じ様に一華さん家に訪れていた。僕達は二人して、玄関の引き戸に近づくと再び自動で開け放たれた。


 今度は一華さんの祖父であろうお爺さんが迎えてくれた。眉間にシワを作り、鋭い眼力で僕達を圧倒した。僕達は要件を伝えようと口を開いた瞬間に、お爺さんは中に入れと顎で示していた。


 一応、簡単に要件だけ伝えて、僕達は二階の一華さんの部屋へと向かった。


 その際、海崎さんは僕の耳元で囁いた。


 「お爺さん怖かったね、私一人だったら帰っちゃってたかも」


 彼女からふわりと漂うシャンプーの香りが鼻孔をくすぐり、息がかかる程の距離に僕の身体はぎこちなさを覚えた。


 「う、うん。でも、あのお婆さんが優しいって言うんだ。きっと、良い人なんだと思うよ」


 「ふふ、そうだね」


 お婆さんの、のろけ話を思い出したのか口元に手を当てて、微笑をもらしていた。


 そんな事よりも、扉の前に着いた僕は軽くノックをした。先に海崎さんが一華さんに声を掛ける。


 彼女は、クラスメイトや担任の事、授業はどうとか、全体の雰囲気が掴める様に話し出した。入学式で緊張して、挨拶文を教室に忘れた事も笑い話として話していた。その時、僕が名前を言い当てた事には驚いたと誇張していた。


 彼女なりに昨日考えたのだろう。扉一枚隔てた向こう側の菊林さんに見える筈がないのに身振り手振りで、一生懸命説明している彼女の横顔に僕は目が離せなかった。


 すると、扉の向こうからドンと、壁に物が投げつけられた様な鈍い音が聞こえて、海崎さんの話を遮った。僕はスマホを取り出し、時間を確認すると八時を回ろうとしていた。


 「そろそろ、出ないと遅刻するよ」


 「そう……だね」


 僕は離れる前に放課後にまた来るからと告げて海崎さんの後に続いた。海崎さんは、少し元気が無く重い足取りで、階段を降りて行った。一華さんの家を後にした僕は、ふと、振り返ると、お爺さんは僕達に向けて、深く頭を下げて見送っている姿があった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る