第9話 言っておくけど!それはあんたの尻ではなくあたしの尻だからね
『僕はずっとほのかに伝えたかったことがあるんだ』
錦くんのアップが映し出されたあと、ほのかちゃんを足元からカメラが追って行って少し驚いたような表情で振り返る。
青空にプリズム。
桜の花が舞って真新しい制服に身を包んだ妹のきよかちゃん、クーデレでライバルの美しいなつみちゃんの前をやんちゃボーイの北斗くんが駆け抜けて。
歴史小説を持った無表情の次郎くん、みかん籠を背負った頑張り屋さんの不知火くん、珍しくデレの顔で笑っている陸奥くん――ほかにも色んなキャラが次々と映っているのを見てあたしは感動で胸がじ~んとしていた。
『錦くん、わたしもあなたのことが』
可愛らしいほのかちゃんのセリフは途中で切れて。
『恋人果実Lovers&fruits!もぎたて果実を振る舞って。好評配信中!』
錦くんとほのかちゃんがタイトルとキャッチコピーを一緒に告知して終了したCMは朝の報道番組の途中で流れた。
昨日公式のホームページで流れることが明記されてたから会社に行く準備を整えてテレビの前に座って待機していたんだけど。
その間に黒岩が起きて顔を洗って歯を磨いたのも全部共有してた。
もちろんトイレ行ったりご飯食べたりしたのだっえじっと座っているあたしにも生々しく伝わっておりましたとも。
できれば座ってして欲しかったよ。
黒岩は立ってするんだねとか知りたくなかった。
別に必要じゃない情報をありがとね。
黒岩が寝ている間に全部済ませておいてよかった。
ほんとに。
しかし今回はほんとに長く繋がってるなぁ。
これ下手すると仕事始まっても効き目切れてない可能性もあるんじゃない?
「さてと。そろそろ行くか」
いつも家を出る時間になったのでテレビを消して通勤カバンを肩にかける。
テーブルの上のスマホを持っていざ出発。
ネットでは”らぶふる”のCMについての感想や悲鳴がたくさん流れていてあたしの顔もにっこりだ。
「動いているほのかちゃんかわいかったし、錦くんかっこよかったぁ」
きゅんきゅんしたよね!って書き込んで、ほくほくしながら駅までの道のりを足早に進む。
駅前のコンビニで”らぶふる”のウェハースとカフェオレを購入して改札へ。
スマホでピッで通り抜けいつも乗るホームでいつもの電車を待った。
「あ、すごい。ポエむんさんまたイラスト上げてる。わっ!キレイ!すごいな」
昨日は漫画を上げてたのに今日は一枚絵だなんて。
信じられないほど速い。
それなのに拡大して見ても線はキレイだし、色も丁寧に塗られていて完成度がハンパないんだよ。
「うううっ!眼福!」
大きな桜の木の下で見つめ合うほのかちゃんと錦くん。
ほのかちゃんのちょっと潤んだ瞳と上気した頬がどことなくエロいし、錦くんの微笑んでいるのにキリリとした目元と真剣な眼差しがまたセクシーで。
「はぁああん!しゅてき」
いいねを押して応援コメントをすぐに打ち込む。
「今回も素晴らしいイラストありがとうございます。ほのかちゃんと錦くんの表情が堪らなく切なく、そして艶っぽいのが特に好きです。桜の木も――」
ん?
この桜の木どこかで見たことがあるような気がする。
どこだっけ?
首を捻りながら電車に乗り込むとすでにいっぱいの社内の中でぎゅうぎゅう詰めになる。
いつものことながらすごいなぁ。
良く知らない他人の体温と気配がすぐそこにあるのはあんまり気持ちのいいもんじゃない。
不快さはお互いさまだから現実逃避にスマホを弄ってやり過ごす。
「ああ、やっぱりいいわ」
ポエむんさん神だわ。
いやらしくならない絶妙な塩梅。
こんな表情が描けるのほんとにすごいよ。
「はあぁ……」
思わず切ないため息が出てしまった少し後であたしの左太ももになにかが触れたような気がして「ん?」と固まる。
じっと息を詰めて様子を伺っていると顎が動いて息を吸い込んでいる感覚がしてびっくりした。
じわっと涙が目尻に溜まったところで黒岩と感覚が共有されていることを思い出す。
さっきの腿になにか触れたようなアレも黒岩の手かなんかだったのかも。
「よかった……」
ほっとして力を抜いたところを見透かしたかのように生温かい――多分手のひらがひたりと腿に触れた。
「は?」
これは黒岩が触られているのか?
それとも触っているのか?
ん?
待って?
どゆこと?
混乱してしまったせいで行動が遅れたのが悪かった。
いつもなら手を振り払って周りに睨みを利かせるくらいはしたのに。
そもそもがっつり触られる前に逃げることができたはずで。
サンダーソニアの弊害が初めて出たよ!
あとで金光さんに苦情を言わなくちゃ!
くそ!気色悪いな!
脚を引いて触ってきた手を避けて周囲に視線を巡らせる。
誰もこっちを見てもいないし意識もしてないように見えた。
でも近くに変態がいる。
それは確かだ。
もう気を抜くもんかと決意してピリピリした空気を出して。
次に止まった駅は大きい所だったから周りの人たちがごっそりと下りて、また違う人たちがどわっと乗ってきた。
もう降りたかもしれないけど、まだいるかもしれない。
警戒だけは続けてじっと降りる駅まで辛抱する。
ああ、せっかく気分よく過ごせてたのに。
台無しだ。
気持ちが落ちていくのを止められない。
悔しくて一瞬うつむいたあたしの尻を誰かが撫でた。
「ひっ!」
ウソでしょ!信じられない!
やめてよ!
卑怯でしょうが!
触りたいなら触らせてくださいって面と向かって言ってよ!
そしたら変態に触らせる尻なんかないってはっきり言ってやるのに!
誰だかバレなきゃやってもいいなんて最低のすることだよ!?
「こんのぉ、クソやろっ」
「おい!」
好き放題触らせてやるもんかとその手を掴んで怒鳴りつけてやろうとしたあたしの前に割り込んできた人がいた。
あたしの代わりにそいつの腕をガシッと捕らえて睨みつけているその男は。
「なにしてんだ!それは今、おれの尻でもあるんだぞ!勝手に触んじゃねぇ!!」
あたし以外には意味不明なセリフで叫んだ。
真剣に怒っている横顔を見上げて、黒岩でもこんな表情をするんだなって驚きと共に不思議な胸の高鳴りを感じたんだけど。
これはあれだ。
新たな推しを見つけた時と同じ感覚。
え?
あたし黒岩にときめいてるの?
だけどひとつだけはっきり言っておかなくちゃ。
「黒岩、あたしの尻はあたしのであってあんたの尻ではない」
たとえ感覚を共有していようともそれは間違ってはいけないのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます