ガラスの方舟

加瀬優妃

あれから、9年。

 異世界パラリュスに平和が訪れてから、9年の月日が流れた。

 その平和に貢献したアキラもその後は日本に戻り、24歳となった今ではモデルとして活躍している。


 とは言っても、パラリュスと疎遠になった訳ではない。異世界と現実世界を自由に行き来できるのは暁と暁の母だけであり、今はパラリュスに住んでいる母を訪ねたりする。

 そして暁が頻繁に訪れているのはもう一つ――ウルスラという国にいる、幼馴染のシャロットだ。


 シャロットは知性と行動力に溢れる快活な女性。偉大な力を持つが精神的に不安定な先代女王シルヴァーナと、女王としてはやや頼りない現女王コレットを支え、采配を振るっている。


 優秀なシャロットが女王になれなかったのは、女王の資質とも言える『紫の瞳』を持っていなかったから。

 『紫の瞳』を持つ女王の血族でなければ、先代から“時の欠片”を引き継ぐことができないのである。


 暁とシャロットが出会ったのは、二人が共に10歳のとき。

 シャロットはその頃には既に、女王の血族として国を動かしていた。

 その茶色い瞳を曇らせることなく冷静に状況を分析し、事態を収拾する。

 周りの大人以上に大人で、ただの日本の小学生だった暁は圧倒された。


 彼女に引っ張られ、時には振り回されながらも歩んできた14年。

 いつしかシャロットは、暁にとって幼馴染から特別な女性へと変わっていた。



   * * *



「あ、アキラだー!」


 暁がいつものように次元の穴を通ってシャロットの部屋にやってくると、幼い少女が顔を輝かせて、真っ先に駆け寄ってきた。


「セリーナ……あ、本当に紫色になってるな!」


 勢いのままピョーンと飛びついてきたセリーナを抱き上げ、暁が頬を撫でながら瞳を覗き見る。


 セリーナはシャロットの娘。ウルスラの女王一族には夫という存在は無く、ただ子を授かるためだけに『結契の儀』と呼ばれる儀式に臨む。

 子を望めない体だった先代女王の代わりに、シャロットは15歳で儀式に臨んだ。

 そして授かったのがセリーナで、つい三日ほど前に8歳を迎えたのだ。


「そうなの! 私、女王になるのよ!」

「資質があっても女王になれるとは限らないのよ、セリーナ」


 シャロットが、眉間に皺をよせセリーナをたしなめる。


「ミゼットもいるんだから」


 ミゼットとは、現女王の娘でまだ4歳。両親とも女王の血族である彼女は『紫の瞳』を持つ可能性が高い。


 シャロットの言葉に、セリーナはむむむ、と口元を歪め、まるで「私の味方をして!」というようにギュウッとアキラの首に抱きついた。


「ミゼより私の方がお姉さんだもん。ねぇ、アキラ」

「うーん、まぁ……」

「年齢ではなく心映えの問題よ」


 余計な口を挟まないで、というようにシャロットが睨んだので、暁は肩をすくめ苦笑した。

 シャロットなりのセリーナへの教育方針というものがあるのだろう。昔からシャロットは頑固なものの、そう間違ったことも言っていないので暁はおとなしく従うことにした。


「いい加減アキラから降りなさい」

「やだー。アキラと遊ぶ!」

「そろそろ勉強の時間よ」


 ほら、とシャロットが促すが、それでもセリーナは口を尖らせてブンブンとかぶりを振る。

 暁は

「まぁ、いいよ」

と言い、シャロットに目配せした。


「じゃあ、少しだけだぞ」

「うん!」

「でも、このあとちゃんと勉強しろよ」

「……」

「こら、目を逸らさない。シルヴァーナ様やコレット様は、『やりたくない』と言って女王の仕事をサボったりしてるか?」

「……してない」

「だろう? シャロットだって、いつも忙しそうにしてるだろ?」

「お母様はすごいの、皆に頼られてるの。いろんな人がしょっちゅうお母様のところに来るの。これどうしよー、あれどうしよーって!」


 ウルスラ王宮の中枢を担う母シャロットのことは誇らしいらしい。セリーナは満面の笑みを浮かべ、声を弾ませた。


「でも娘は……ってなるかもな」

「えっ!?」

「セリーナに言ってもわかんないしな、バカだし、とか言われそう」

「バカじゃないもん!」

「遊んでばかりだとそう言われちゃうってことだよ。少なくとも俺は言う」

「ええっ!?」


 暁の言葉に、セリーナがショックを受けた顔をする。

 だいぶん大人になった暁だが、元々毒舌なので子供と言えど容赦しない。


「アキラ、言うの? 私に、バカって?」

「そりゃ、サボりたがるような子にはね」

「じゃあ、サボらない。お勉強する」


 渋々セリーナがコクンと頷く。

 ちょうどセリーナ付きの神官が迎えにきたようだ。暁はセリーナを下ろすとポン、と背中を押してやった。

 しかしセリーナは口をへの字に引き結んでいる。『バカ』という言葉にかなり引っ掛かりを覚えたらしい。


「絶対バカって言っちゃダメだからね!」


と小さい手でビシッとアキラを指差し、鼻息荒く部屋の外へと出て行った。


「ははは。ああいうとこ、シャロットにそっくりだな」

「ええ? 嘘でしょ?」

「いや、そっくり。出会った頃のこと思い出すなー」


 事態を収拾すべくビシビシと臣下の大人たちに指示を出すシャロットを思い出し、暁が笑みを浮かべる。

 同時に、シャロットが儀式に臨んだときのことも。

 そのときは暁はまだ高校生で、話を聞いたときには若干胸がザワザワしたものの、その理由はよく解っていなかった。


 大人になって、日本で色々な女性と関わるようになってようやく気付いたのだ。

 他の誰も、シャロットの代わりにはならない、と。

 そして何より、暁が他人のために動くのは、家族以外ではシャロットしかいないのだから。


「ホッとした?」


 二人きりになり、いつものようにシャロットが淹れたお茶を飲みながら暁が聞く。

 シャロットは「そうね」と言い、少しだけ溜息をついた。


「とりあえず、ミゼットの成長を待たなくてもいいのは大きいわね。シルヴァーナ様もこれで安心できると思うし、先の計画も立てやすくなる」

「先の計画?」

「ガラスの棺のこと」


 ガラスの棺――中に入れた生物の時を止める効果をもつ、巨大な箱。

 女王の資質が現れるかどうか定まらないウルスラは、つねに女王断絶の危機に晒されていた。

 もし『紫の瞳』を持つ娘を生めなかったら、“時の欠片”を誰も引き継げなくなる。女神の声も聞こえない、名ばかりの女王となってしまうのだ。


 それを避けるためにテスラから譲り受けたのが、ガラスの棺だった。

 “時の欠片”を持つ最後の女王がこの棺に入り、長き眠りにつく。遠い未来で『紫の瞳』を持つ女王の血族が生まれたら、その者に“時の欠片”を引き継げるように。


 万が一、当代で『紫の瞳』を持つ娘が生まれなかった場合、歴史にその名を遺すであろう偉大な先代女王シルヴァーナが棺に入る予定だった。


「でもこれで、シルヴァーナ様が入る必要は無くなったしね」

「で、どうするんだ、ガラスの棺は。空のまま保管するのか?」

「ううん、私が一人で入るの」

「ぶっ!?」


 想定外の答えに、暁は茶を吹き出しそうになった。慌てて口元を拭い、シャロットをまじまじと見つめる。

 一方シャロットはというと、

「何でそんなに驚くの?」

と目を丸くしていた。


「元々シルヴァーナ様と二人で入るつもりだったし」

「そうなのか!?」

「そりゃそうよ。後世の人間に説明する者が必要でしょ」

「何で言わないんだよ、そういうこと!」

「どうしてアキラに言う必要があるのよ、ウルスラのことなのに。それに今すぐじゃないわ、老齢になってからの話よ」


 暁に怒鳴られたシャロットはやや機嫌を損ねたように言い返す。

 無理もない、この世界の窮地を救った仲間ではあるが、暁は完全に部外者だ。


 とは言え、あからさまに撥ね退けられた暁はどうしようもなく苛立った。

 俺達の仲ってその程度かと言い返しそうになったが、グッと堪える。


 シャロットに悪気はない。ただ、ひどく鈍いだけである。特に、恋愛方面に。

 表では凛としているシャロットも、暁と二人だけのときは無邪気で言いたい放題でどこかリラックスしている。

 暁にしか見せない顔はたくさんあって、だから暁は両想いだろうと確信していた。自惚れではなく、彼女の自覚が足りないだけで。

 それでも暁はシャロットの歩幅に合わせる気でいたのだが、どうも限界のようだ。


「シャロット、提案があるんだけど」

「え、何?」

「シャロットがガラスの棺に入るとき――俺も一緒に入るから」

「えっ!?」


 一瞬驚いたように目を見開いたシャロットが、何度か瞬きしたあとアハハ、と楽しそうに笑う。

 

「それ、日本の『一緒の墓に入ろう』みたいだね!」

「……そのつもりだけど」


 やっぱり鈍い、と暁が眩暈を感じていると、しばし思案していたシャロットの顔が急に真っ赤になった。


「え、だってソレ、求愛の言葉だって……」

「だからそうだと言ってるだろ」

「あ、え……」


 シャロットの視線が泳ぎ、唇をわなわなと震わせる。頬の赤味は目の周りにも伝わり、瞳が潤み始めた。


「だけど……私、ウルスラのことで精一杯で……」

「別に今すぐ一緒にいようと言ってる訳じゃない。お互いにやりたいこと、いっぱいあるだろ」

「……」

「だけど、もういいかなって思えたら。そのときは一緒に、未来に行こう」


 異世界のシャロットと日本の暁では、いわゆる普通の幸せは望めない。一緒にいるためには、どちらかが自分の世界を捨てなければならない。

 だけどせめて、命尽きる時は……それまでのわずかな間ぐらいは、共にありたい。


「だから、そろそろ俺を男として扱ってくれ」

「あ、扱ってるわよ! アキラは女じゃないもの!」

「あーその返し、やっぱり分かってない」

「わかってるわよ! だって、すごく胸がドキドキして、ギュウってなって、涙出るし! それはアキラのせいで、」

「うん、そろそろ黙ろうか」


 動揺してジタバタするシャロットの両腕を掴んで引き寄せると、暁は彼女の顎を掴み、強引に唇を奪う。

 驚いたようなシャロットの茶色い瞳がゆっくりと閉じられていき、かすかに残っていた涙がすうっと頬を落ちていった。


 ガラスの方舟が、いつか遠い未来に二人の結末ゴールを連れて行く。




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