第2話 花束

 その日、出庫前に事務所でお茶を飲んでいた私に、配車係から担当を変わってくれと伝えられたのは、まだ肌寒さの残る4月の晴れた朝の事だった。

子供が熱を出したらしい女性ドライバーの代わりに、朝から予約の入っている車いすタクシーのほうを担当してくれと、予約受付票をはさんだ乗務記録簿を渡された。


 見ると、迎えの場所、時刻はあるものの、行先については「お客様の指示にて」と、終日予約の旨記入されており、やれやれ車いすの一日観光案内か、と気重な気分でリフト付き車両の点検を済ませると、待ち合わせの場所へ向かった。


 一人きりだと言うまだ若いその女性客は、最初の目的地に市内に古くからある寺の名前を告げた。


 もともとは地元の人間で、病気で都市部の病院に入院していたが、からだの障害の事もあり、遠くに住む姉のもとへ身を寄せる事になった。

 今日はこれから、以前働いていた職場や、これまで世話になったところを回って挨拶がしたいのだ、との事で、大変でしたねと、ルームミラー越しに相槌を打ちながら、どこかで見かけた顔のような気がしたが、仕事柄、もともと地元の人なら以前乗ってもらったタクシーのお客さんだろうと勝手に納得した。


 寺へ墓参りに赴き、親戚を訪ね、昼には行きつけにしていた蕎麦屋へ回り、その後、市街地を一望できる、桜が満開の小高い山の上の公園で写真を撮っていると、もう最後の目的地へ向かう時間だった。


 最後の訪問先として、以前の職場だと告げられた介護施設の名前は、もう何年も前に見送った、亡くなった母が入所していた施設だった。

 何度も通った道をたどり、到着した施設に入っていった彼女を待っているあいだ、母が入所していた頃、見舞いに訪れた事を思い出し、妙に懐かしい気持ちに浸っていると、休憩時間に合わせて訪問したのか、たくさんの施設職員に囲まれてもみくちゃになりながら見送られて玄関を出てくる笑顔の彼女を見た時、以前見かけたような気のする顔が、記憶の中のシーンにぴたりとはまった。


 タクシーのお客さんなどではない。施設へ見舞いに訪れる度に見かけたその顔は、食堂へ行けなくなった母にベッドサイドで食事介助をしてくれていた顔であり、家族を招いて開かれた食事会で「手紙~親愛なる子供たちへ~」という詩を朗読していたあの顔だった。当時もらって帰った詩の書かれたプリントは、今もアルバムにはさんでしまってあるだろう。


 やっと見る事のできた笑顔に、以前の記憶がよみがえったと話をすると、そうでしたか、お母さんのお手伝いができて良かったです、とうれしそうな顔をした。


 駅まで送り届け、料金の精算を済ますと、今日はありがとうございました、と逆に礼を言われ、何と返事をしたのか覚えていないが、改札をくぐりホームへ向かう後ろ姿を見送って、車へ向かった。


乗り込んで時計を見ると、発車時刻まで、まだ15分ほどあった。


車を降り、駅の売店へ向かうと手ごろな花束を買い、入場券でホームへ向かった。


 乗車口の近くに、スロープを持った乗り降りのサポートをする駅員と一緒に列車を待っている彼女を見つけ、


「車いすだと荷物が持てないので、花束はもらわないようにしてるって言ってたけど、もらってくれないか」


と、びっくりしたような表情に花束を押し付けた。


 列車が到着し、駅員のサポートで多目的室に乗り込んだ彼女に手を振ると、思いがけない速さで列車は遠ざかり、やがて見えなくなった。

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