11話―帰還者―


鳥の囀りが耳に侵入した瞬間、咄嗟に上体を起こして、咲間は荒い呼吸を繰り返す。


動悸が身体中に巡って、額から汗が湧く。


額に噴き出た汗を腕で拭って一息つく。


昨日、湯舟に浸かった後はすぐに部屋へ戻って眠りについた。


なぜか気分がほろ酔い状態だったからだ。


視界が少し揺れて、歩行もふらついていた。


もしかすると祝福祭の飲み物の中にお酒が混ざっていたのかもしれない。


そう考えると、観客が陽気だった理由も頷ける。


壁に立て掛けてある姿見に視線を向ける。


目の下で薄く伸びたクマが走ってる。


熟睡出来ていない証拠。熟睡できない理由は分かっている。


悪夢による影響だ。


眠りにつくと、脳内に沈めていた記憶が水面に浮かび上がってくる。


その記憶は、咲間の心と脳を虐める。


見たくない光景を瞼の裏に映す。


咲間が起床すれば、記憶はまた水底へと沈む。この繰り返しが日夜起きる。


ドアのノック音が部屋に響く。


扉の向こう側から、平坦な声調が聞こえた。


「ご主人様、朝食の準備が出来ました。中に入ってもよろしいでしょうか?」


咲間は、表情筋と気分を繕って返事する。


「ああ、どうぞ」


上衣は薄紫、下衣は濃黒の服をユアは着込んでいた。


脚に黒のタイツを履き、股関節に近づくにつれて絶対領域が生まれている。


腰には黒のベルトを巻き、身体の細さが目立つ。海水浴に行ったら男共が一瞬で釘付けになりそうだ。


服のサイズが合っていないのか。


決して大きいとは言えないが、胸が強調されている。


幸い生地面積が多い。上衣は長袖、下衣は丈が短いパンツ。タイツの影響で足の肌は見えない。


もし、肌の露出が多ければ危うかった。


男性特有の生理現象が咲間の下半身で起きている。


朝の視界に入れる光景ではない。刺激が強すぎる。


魔王の身体でも生理現象が起きるのかと感じつつ、掛布団を腰まで手繰り寄せた。


「よく眠れましたか?」


「うーん、あまり良いとは言えないかな。……だけど何だろ。身体は少し暖かい気がする」


朝の目覚めは毎回身体が冷たい。


悪夢のせいで苦しみだして、掛布団が外れる。身体が冷えて仕方がなかった。


朝の目覚めは半ば諦めていたが、今回は違った。


毛布に包まったくるまった際の暖かさが全身に残る。


極度に冷えて薄白くなる末端の手足は、薄赤を帯びている。


気分は冴えないが、朝の目覚めとしては幾分マシな方だ。


「前日に飲んだミテリアの影響でしょうね」


「ミテリア?」


「ミテリアは梅を原料としたお酒。主に体温上昇の効果があり、冷え性の味方と呼べる一品です」


ユアは、腕に抱えていた服一式を枕元に置く。


「服を持ってきました。良ければ使ってください」


色合いは深紫と呼べばいいのか。ラベンダーのような濃い紫に染まっている。


咲間は、畳まれた服を掴んで広げた。


深紫に染まった外套の胸元には、黄金に輝く満月の絵柄が施されている。見るからに中二病感が強い。


正直あまり着たくない。一際目立つし、もう少しラフな服を着たい。


しかし所持している服は、いま着ている一着のみ。さらにこの服は結構汚れている。


今すぐ脱ぎ捨てたい気分だった。


呆れ半分でため息をつく。


「分かったよ。とりあえず着替えるから廊下で待っていてくれ」


「なりません。お手伝いさせていただきます」


「いや、本当に大丈夫だから」


ユアがベッドに歩み寄ってくる。咲間は身体を捩じりながら、掛布団を取らせまい抵抗する。


ユアから漂う匂いが咲間の鼻腔を擽るくすぐる


フローラルのような脱力感を引き起こす匂い。


ユアの胸元が視界の目前に映る。同時に下半身の現象が過剰に反応した。


掛布団の戦いはすぐに決着がつく。


女性の力量と思えないほどの筋力をユアが発揮。咲間の下半身が露になる。


次に起こる出来事を咲間は、瞬時に予測した。


恥じらいながら急いで廊下へ逃げ込む。


常時、感情の起伏がないユアでも冷静になれないだろう。頬に朱が入るかもしれない。


ユアの視線が下半身の突起に向けられた。


しかし表情筋が微動だにしない。感情の快間も見えない。


ユアの表情に宿るものは


例えるなら空っぽな工具箱。欲求、感情などの部品が入ってない。


工具箱に漂うのは何もない空虚な世界。


何もかも消失した世界がユアの瞳には宿っていた。


ユアは愁いな瞳で咲間へ視線を向ける。


「どうされました? 早く脱いでください」


「え、ああ。分かった」


想像と違った出来事に困惑しながら、咲間は大人しくユアの言葉に従う。


数分で身支度を終えた咲間は、ユアを先頭に廊下を歩き、一階へと続く階段へと下りる。


リビングでは、デルク、ルフラ、シーラ、ギルが食卓を囲っていた。


台所に居たモニカがバスケット風の手編み篭を持ちながら、咲間へ視線を向けた。


「あ、レイン様。おはようございます」


「遅くなってごめんなさい。着替えるのに少し時間が掛かりました」


生理現象が起こったから、必死に抵抗していたと言えるはずがない。


「その服装とてもお似合いですよ。思わずカッコいいと思ってしまいました」


モニカの一言で全員の視線が咲間へと注がれる。


ルフラとデルクは、同調して咲間に絶賛の嵐を浴びせた。


"似合ってますぞ!" とか"男でも惚れそうだ"とか、華美な言葉を投げてくる。


シーラは恍惚とした表情で"レイン様……"と呟く。


ギルだけ例外な反応だ。冷え切った視線を咲間へ向けている。


半ば呆れを含んだ一息を吐きながら、壁に飾られた鏡に眼をやる。


上衣は白のシャツと深紫に染まった外套。シャツから見える六つのボタンは漆黒の黒が輝いている。


首元までボタンを閉めると窮屈だ。そのため一つだけボタンは開けてある。


深紫の外套は、腰まで伸びるショートタイプ。


胸元に丸く描かれた満月が施されている。色相が黄色のため非常に目立つ。


外套の縁には、動物の毛皮だろうか。灰色の毛並みが垂れる。


下衣は黒のスキニーパンツのような形状。スキニーを履いたことがないため、動きづらい。


モニカが咲間を食卓へ手招きする。


二席空きがあった。シーラが座る席の左隣とその席の左隣。


シーラ、空き、空き。という並びになっていた。モニカは露骨にシーラの隣席を引く。


「レイン様はこちらにどうぞ。ちなみに朝からイチャイチャしないでくださいね♡」


モニカは意地悪そうな表情を浮かべる。


語尾の最後にハートを付け加えたような言い方だ。


モニカはやっぱりサディスティックなのか。少しモニカが怖く見えた。


当のシーラは、明らかに恥ずかしがっていた。毛先を遊ばせながら視線を彷徨わせている。


昨日の祝福祭で見事にシーラは、咲間の従者権利を得た。


従者というのは、主のためなら何でもするという認識がフォルテシオンでは、通っている。


シーラの身も心も咲間の手に委ねられているということ。


勿論、ユアは了承済み。早速シーラに従者としての心得を教えている。


食卓には、朝食らしいものが並ぶ。


中央の手編みバスケットには、ブドウやチェリーなどの果物。


マグカップには、コーヒーのような飲料。湯気が立っていることから、ホットドリンクだと思った。


マグカップの横には、パイのような衣が目に入った。形は餃子と瓜二つ。咲間はモニカへ尋ねる。


「モニカさん、これは何ですか?」


「これはキビナイです。狼月族の郷土料理になります」


キビナイ、初めて聞いた。


現代でもこんな食べ物があるのだろうか。しかし、味の出来が心配だ。


転生した初日、ユアが採った正体不明の山菜を食べた。


味は最悪。薄味で苦い。


ユアにとっては非常食らしい。


咲間からすれば、生ゴミ同然だった。あの苦い経験は二度とごめんだ。


咲間は、正体不明の物質に警戒を強めた。


全員が食卓に揃った。


モニカは親指と人差し指で輪っかを作って、自身の胸元に当てる。


位置からして心臓付近。ゆっくりとモニカは瞼を降ろす。


モニカを軸にして全員が真似ていく。


祝福祭で体験した咲間も躊躇することなく、指で輪っかを作って胸元に当てる。


脱力するように視界を暗闇に染めた。


「我が民に月の輝きをお与えください。……トゥグル」


「トゥグル」


モニカが詩を呟き、全員が祈りを唱えた。


瞼を上げた途端、皆は一斉に食事へと手を付けていく。


トゥグルは、食を楽しむ前の祈り言葉である。


欧州圏では、アーメン。日本ならいただきますの部類だ。


アスダル地域に住む者なら、常識のお祈りらしい。


咲間が現在居る場所はアスダル地域。


魔人信仰が根強く残っている地域である。


宗教だけで言えば、亜人と人間の信仰対象は魔人キドスのみ。


現代で例えると、部類は一神教になる。


脳内で一つの疑問が浮かんだ。


人間と亜人の信仰対象は同じ。


現代のように○○教会などの派閥も皆無。なぜ、亜人と人間は争いを始めたのか。


宗教観が違えば、争う理由も分かる。


一神教では、他神の存在を否定する。


しかしアスダル地域では、人間も亜人も魔人キドスを信仰する。争う理由が不明だ。


五〇〇年前、すでに亜人と人間が争っていた。ということは、五〇〇年以上前に何かが起きたのか……。


「レイン様、やはりこの料理では満足しませんか?」


モニカは、不安げな様子で咲間に聞いた。


みんな各々料理に手を付けている。


しかし咲間だけ思考の波に溺れて、一人だけ手を付けられなかった。


その様子を見てモニカは、料理に不満があると解釈したようだ。


一気に周囲の空気が冷たくなる。


一瞬ギルの視線が鋭くなった。


"主人の母に文句があるのか? "と聞こえてきそうだ。


咲間は、モニカの誤解を解くために早口気味で答える。


「いえいえ、そんなことありません。寝起きなので頭がボーっとしていました」


無理に笑みを作って場を和ませる。


思考の芽を無理やり摘み取って脳内の隅へ捨てた。


手掴みでキビナイをゆっくり口元に運ぶ。


キビナイの先端から数センチだけ齧って味を確認する。脳内にある言葉が浮かんだ。


……絶品。


パイに包まれた肉ときのこが絶妙に合う。


旨味を含んだ肉汁が舌を躍らせ、茸から抽出した出汁が肉と茸に絡んでいる。


更にパイ生地独特の歯応えは、咲間の感情を唸らせた。


例えるならアップルパイのサクサク感がある。噛む度に軽快な音が響く。


現代でも通用する味だ。世間に公表すれば、長蛇の列が成されるだろう。


「レイン様、味の方はどうでしょうか?」


モニカの頭に生える獣耳が縮こまる。


相当不安に駆られているのか。感情が顕著に表れる獣耳だ。


「すごく美味しいです。今まで食べてきたどの食事よりもおいしい」


途端にモニカの獣耳が一直線に逆立つ。


"そんなに褒めても何も出ませんよ~"と言いながら尻尾が左右に揺れる。


感情が分かりやすい身体だ。


ユアにも獣耳とか尻尾を付ければ、感情が読めるかなと思った。


穏やかな時間が流れていき、食事が終えたころにはお腹が一杯になった。


ベッドへ横になれば、すぐ昼寝できるくらいの気分だ。


何気なく咲間は窓に映る光景に目をやった。


既に多くの住人が朝の日課を謳歌していた。


菜園で野菜や果物を収穫する年老いた女性、剣を振って稽古する青年、輪になって雑談する主婦たち。


みんなの表情が輝いて見えた。


天候は晴れ。


境界線が曖昧な白い雲が漂い、隙間からはスカイブルーのような青空が広がっていた。


既に太陽は昇り、明るい光が上空に見えた。絢爛けんらん燦爛さんらん色んな光を体現した陽光だった。


咲間はふと思った。


これが平和なのだろう。


鬱陶しい車の音や轟音を響かせる電車の音も聞こえない。


憂鬱な顔を浮かべる大人も存在しない。悲しみや怒りなどの感情も皆無。皆の心に宿るものは尊い心、純潔で真っ新な心だ。


みんなの心が不純に染まるはずがない。しかしフォルテシオンでは、不純に染まる出来事が度々行われている。


亜人と人間の対立。血と血で争う戦闘が、いまも起こっている。


ビスティアの平和は、いつまで続くのだろうか。


一つ分かっているのは、ビスティアの平和は苦しくない。


現代のような苦しい平和とは違う。


生きても良いと思える平和と言えばいいのか。


そんな想いが咲間の心に過った。


途端、ドアを叩くような音が部屋中に響く。


ルフラが"何事だ"と声を荒げ、小走りでドアへと向かう。


ドアを開けると、二人組の男が息を荒げながら佇んでいた。


容姿から察するに戦士の類だろう。腰には、直刀の剣が鞘に納められている。


男の腕を肩に担いだ人が口を開く。


「中層へ行ってきた部隊が帰還しました! 今報告いたします」


肩に担がれた男は、息を整えながら肩から離れる。


ルフラの前に跪き、報告する。


「現在、中層近辺で暮らす亜人たちは上層へと北上中。中層にキメラが占めるのも時間の問題かと思われます」


「やはりそうか、ちなみに帰還したのはお前だけか?」


跪いた男は、恐怖の念を抱いたように目を左右に振らせる。


身体全身が微弱に震える。


「はい、残りの三人は変なキメラに殺されました」


男の額からは、大量の汗が垂れる。それほど恐怖に慄いたのだろう。


「変なキメラ? どういうことだ? 」


「……言葉を話すキメラです」


「な、なに!? 言葉を話すだと? 」


ルフラ以外の全員が驚愕の表情を灯す。


ユアの表情は微動だにしていないが、目は見開いている。


「馬鹿な、そんなの聞いたことないぞ! キメラが言葉を話すなんて……」


デルクが驚愕を口にする。


「ちなみにそのキメラの特徴は? 」


ユアが平坦な声で男に問いかける。


跪く男は、恐れを纏った声調で呟く。


「頭に角が生えていて、目は赤くて、髪は赤髪……」


「それは本当にキメラなのか? 」


ルフラが跪く男に問う。


キメラの実態は咲間でも知っている。


湖で出会ったキメラは、お伽話に出てくる存在と瓜二つだった。


違う種族同士の動物を掛け合わせた存在。そんな印象を受けた。


湖で出会ったキメラは、蚊と猫と魚を足したような気色悪い外見。


しかし、男が言うキメラの外観は、少し違っている。


頭に角、目は赤く、髪は赤髪。キメラに髪なんてあるわけがない。


「私にも分かりません。あれが本当にキメラなのか。……もしくは」


跪く男は口を紡ぐ。


「もしくは、何だ? 」


ルフラが言葉を急かせる。


跪く男は身体を震わせ、ある言葉を小声で放つ。


「悪魔……かもしれません」


場に一瞬沈黙が流れる。


そのとき、静寂を切り裂く音が聞こえた。


椅子が倒れ、ユアは立ち上がっていた。


驚愕な表情を灯し、真っ直ぐ男を見つめる。


ユアの初めて見せる顔を目の当たりにした咲間は、唾を飲み込む。


隣に陣取っていた咲間しか聞こえない小声で、ユアは一言呟く。


「遂に……か」







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