4話―最悪の目覚め―


タバコの匂いがした。


喉奥から強烈な吐き気を催す臭い。


有名なメーカーが出した新作商品だったと思う。


臭いが強くタール数も異常に高いタバコと巷で話題だった。


突如、横腹に激痛が走る。


バットで殴られた痛みと呼吸が同調して、筋肉が悲鳴を上げる。


咲間は瞼を咄嗟に開く。


視界に飛び込んだ景色は、一面木造の天井。


横腹に手を置きながら、上体を起こして周囲を見渡す。


壁にはタバコのヤニが所々付着している。雑巾で何回擦っても多少の跡が残るほどの汚れだ。


卓袱台には、空の缶ビールとタバコの吸い殻が無数に灰皿へ押し込められていた。


畳は所々剥がれている。剥げた箇所からは、湿気に塗れた汚い木材が見える。


吊るされた電球からは、豆電球ほどの小さな光が灯っている。


部屋の状況を一言で例えるなら、汚い。この言葉しか思いつかない。


当時、この部屋から逃げたくて仕方がなかった。


叶うならば、隕石でも降ってきてくれと願ったほど。しかしその想いは突然叶った。


一生拭えない泥を被ったと共に。


襖の先からすすり泣く声が聞こえてきた。


立ち上がってゆっくり襖へと歩み寄る。


若干空いた窓から、蝉の音が聞こえる。


鬱陶しい耳障りな音。


あの時と同じ状況だった。


襖に近づくにつれて、当時の記憶が心臓に流れ込んでくる。


額から幾つもの汗が噴き出し、呼吸が荒くなる。


引き手に指を掛ける。


震えが止まらない。左手で右手首を押さえた。


ゆっくりと襖を開ける。


二人の男女が血塗れで倒れていた。


黒髪が血痕で濡れた女性は、仰向けで倒れている。


鋭利な刃物が女性の首元に落ちていた。包丁は血で汚れ、血の海に浮かんでいるようだった。


髪質を一言で表すなら、汚い雑巾で擦ったような髪。毛先は乱れ、血の海に髪が浸っている。


女性の首には一筋の裂け目が出来ていて、血の滝が流れている。


周囲が血の海になっている影響は、女性の首から出た鮮血だろうか。


思わず咲間は目眩がした。


女性の内太腿から血が見えた。鼻に突き刺さるほどの臭い。


咲間は女性から視線を逸らして、男性の方へ目を向ける。


男性は畏怖を浮かべながら息絶えている。


年齢は三〇代半ばだろうか。


無性髭を生やした不細工極まりない顔。歯茎にはヤニが溜まって見える。


男性の腹には無数の刺し傷。傷口から鮮血が悍ましく垂れている。


その現場にすすり泣く異様な少年が居た。


少年は壁に凭れて、体操座りしながら蹲っている。


特質すべき点は、二人の遺体より血の付着量が多いこと。


服以外にも髪、脚、腕全てが血で汚れている。


少年は何かを呟いているようだ。しかし声が聞き取りにくい。


咲間は乱れた呼吸に耐えきれず、両手を膝につけた。


必死に息を吸おうと試みるも、呼吸が辛い。


血塗られた手で首を絞められているような感覚。嘔吐するほどの吐き気が込み上げてくる。


その瞬間、女性の首がゆっくりと横へ向く。


女性は、咲間の瞳を見ながら言葉を呟く。


『ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと愛してるよ、サク』





上体を起こした咲間は、周囲を見渡す。


あの地獄が起こった場所ではなさそうだ。タバコの臭いも一切感じない。


内観は木小屋と呼べる部屋。


壁と屋根は、黒く変色した木材で組まれている。


コテージと程遠い質素な部屋だった。


家具は円形テーブル、椅子が二脚、四段棚、全身鏡。


どれも年月は経っているように見える。テーブルに至っては今にも崩れそうだ。


棚の三段目にはランタンと色褪せが強い巻物。小物類は二つだけ。オシャレの欠片すらない。


咲間は荒くなった息を整えながら、目を瞑って大きく深呼吸する。


混乱気味の思考回路を落ち着かせて、目線を前に向けた。


汚れた薄い掛布団が下半身に覆われている。試しに掛布団を匂ってみる。


案の定、不快感を催す臭いだった。


咲間は急いで掛布団を退かす。


立ち上がろうとするも身体が重い。


布団と背中に鎖が繋がれているような感覚が、咲間の身体に襲った。


地面に足をつけて、項垂れながらため息をつく。


薄汚れた床を見つめながら、夢の内容を思い返す。


月姫が消えてから、毎晩あの日の夢を見るようになった。


現場の惨劇を鮮明に覚えている。


赤に染まった部屋、卑猥に乱れたマットレス、刺し口から流れる鮮血。アイツの最期も。


違う身体に転生したとしても、夢の内容は例外ではなさそうだ。


本日二度目のため息をついた瞬間、入口の扉が開いた。


目の前に佇んでいる者を一言で表すなら、精霊と呼ぶに相応しい美貌だ。


腰から足先まで細く伸びた脚は、美脚と称せる領域。くすみが一切無く、たるみが一つも存在しない。


腰から伸びた上体は、綺麗な線を描いた曲線。誰一人も触れられない威厳を感じた。


幼稚な言い方をするなら、ボン、キュ、ボンと言えるほどの身体だ。


極めつけは、尖った耳と華奢な顔の輪郭。


滑らかな線を引いた顎と薄ピンクに染まった唇は、男心をくすぐる威力を誇っている。


尖った耳はファンタジー好きなオタクが喜びそうだ。


「起きられましたか」


感情が籠っていない声調を発したユアは扉を閉める。


腰にぶら下げたウエストポーチとサーベルを机に置いた。


「気分はいかがでしょうか?」


最悪な気分だ、と言葉が思い浮かぶも思い止める。


ユアを完全に信じたわけではない。色々と謎が多い点もある。


軽口を叩くべきではないと結論付けた。


「まあまあ……。てかここは?」


再度辺りを見渡す。


窓の縁には埃が溜まっており、息を吹きかけると埃が舞いそうな程の量が溜まっている。


窓から差し込む光は、薄い橙色に染まった色。


夕日にしては光が弱い。樹木の枝などに遮られているのだろうか。


窓の先を見やると、大樹と言われる程の樹木が幾つも連なっていた。


凡その全長は、四〇m程。幹が異様に太い。


倒木したらこの小屋は、間違いなく全壊するだろう。それほど、幹の体積が広い。


「ここは元々空き小屋でしたが、少し改良して私の住まいとして使っています」


つまり勝手に不法滞在しているわけだ。


指摘する気力も無いため、"そっか"と呟きユアの横顔を見つめる。


改めてユアの顔を見ると、驚くほど個々の部位が際立っている。


睫毛まつげ、鼻、口、顎、眉、どこを取っても百点と称するほどの美しさだ。


変な言い方をするのであれば、お姉さんの雰囲気を纏った中学生だろうか。


眼だけは、異質を放っている。


瞳に光が宿っていないという表現が正しいかもしれない。


目尻は垂れ下がり、生の活力が見当たらない。


悪く言うなら死んだ魚の眼だ。


気絶する前の光景が脳裏を掠める


あの満面な笑顔は嬉しさから出たのか。


それにあの笑顔は……。


ユアは棚からランタンを手に取ると、テーブルに置いた。


黒に塗りつぶされたランタン。


所々に錆が亀裂のように入っている。相当年季が経っているようだ。


ウエストポーチから白の花弁を鷲掴みして、ランタンの中に入れる。


太腿に装着したレッグシースからナイフを取り出す。


人差し指の皮膚を切って花弁に血を垂らした。


血が花弁に触れた瞬間、積もった花弁から光が灯る。


眼に刺激が強い明るさではない。


仄かで優しい明るさ。眺めていると思わず眠気が生じる光だった。


花弁に目をやると、先から光の粒と化して透けている。


星花せいかと言われる花です」


咲間の物珍しそうな視線に気付いたのか、ユアは矢継ぎ早に淡々と言葉を続ける。


「星花には、多種多様な花が存在します。これはシラー。仄かに光が灯る花です。甘い香りを漂わせる花としても有名なので、精神療養や気分安定などでも使われています」


鼻から微かに匂いを吸ってみる。


確かに甘い。フローラル風味寄りに近いかもしれない。アロマとしても使えそうだ。


身体の神経を和らげるような心地よさを感じて一息漏らす。


「そのーごめん。……さっき突然倒れてしまって」


シラーの影響か、時間が経って興奮が沈下したのか。口調が自然と柔らかくなる。


「疲れていたのでしょう。仕方がありません」


ユアはウエストポーチから布巾を取り出して、指から流れる血を抑えた。


傍にある椅子に座ると、木が軋む音が微かに鳴る。


咲間は腕を膝に預けたまま、自分の掌を見つめた。


生前と比べて明らかに手が大きい。テレビで見たバスケットボール選手のように指が太い。


腕には、黒く塗りつぶされた刺青が肩まで覆われている。


黒煙のように燃え上がる炎のデザイン。不気味な感覚が襲うも、心の奥底に仕舞い込む。


全身鏡に視線を向けると自分が映っている。


全くの別人だった。


顔、腕、目、髪、身体、全部が違う。


生前に生えていた無性髭はどこかへ消えていた。


鼻が細く、目元は丸みを帯びた優しそうな目。子供に好かれそうだ。


全体的に髪は伸びていて、耳を覆う長さ。


クセ毛、もしくは寝ぐせなのか。


所々毛先がハネた気怠い印象が強い髪型。


顔の容姿を一言で表すなら、中性的要素を含んだ顔立ち。


しかし刺青の影響で子供は、近寄って来ないだろう。


手で顔を覆って、ため息を一つ漏らす。


「まだ混乱していますか? 」


「まあ、多少は……」


「そうですか」


数秒の沈黙が部屋に満たした。


遠くの方でカラスの鳴声が聞こえる。不気味なほど耳奥に伝わってくる。


これから不潔なことが起きるぞという暗示なのか。自然と口に鉄の錘を感じた。


更に数秒が経つ。


重たい沈黙を破ったのは、咲間だった。


「あの時の約束なんだけどさ」


ユアと交わした"一ヶ月共に生活する"という約束。


はっきり伝えておくべきだと思った。


「正直なところ俺は、今すぐ死にたいと思ってる」


月姫が消えた苦しみに耐えられなかった。


苦しいと嘆くも、誰一人助けてくれない。


結果として、咲間は命を捨てた。


この世界に月姫がいるかもしれない、と一瞬だけ脳裏を過った。


しかし単なる理想論に過ぎない。


月姫が居る確証もない世界で生きるのは、死ぬよりも苦しい。


「勿論、約束は最後まで守るつもりだ。でも時間が経っても死にたい想いは揺るがないと思う」


ユアの望みは、この世界から対立を無くすこと。


そのためにはご主人様、咲間の力が必要だと言った。


咲間が死ぬと、この世界は終わる。憎悪と欲に塗れた腐った世界が完成してしまう。


ユアとしては、最悪な未来を回避したい。だから一ヶ月という猶予を設けることにした。


真意は分からない。咲間の勝手な妄想だ。


確実に言えることは、時間が経っても咲間の気持ちが変わることはない。


「だから、変な期待はしないでほしい」


一ヶ月の間で、咲間に何かを期待しているのかもしれない。


しかし咲間は、何もする気がない。


この身体に特殊な力が眠っていても、一ヶ月後には命の鼓動を止めるだろう。


要するに叶わない未来を見るより、最悪な未来を受け入れろと言う意味だ。


後になって伝えるより今のうちに伝えておこうと思った。


ユアは指に覆っていた布巾を外して、ポーチの中へ忍ばせた。


咲間は眉間を寄せて不思議に感じる。


血が止まった?


ほんの数分しか経っていない。傷口に瘡蓋かさぶたすら見当たらず、綺麗に塞がっていた。


「分かっていますよ、ご主人様」


ユアは椅子から立ち上がって、咲間の元へ歩んで隣に座った。


薄暗い紅色を宿した愁いな瞳を咲間に向ける。


咲間の頬に手を添えて、言葉を紡ぐ。


「私はご主人様にこの世界を見てほしいだけです。もちろん亜人と人間の対立も無くしたい。それでもご主人様が死ぬと言うなら、私は受け入れましょう。それに私は言いましたよね? 」


ユアは咲間の頬を軽く撫でながら、距離を詰める。


薄く彩られたピンク色の唇が咲間の顔まで近づく。


ユアは耳に羽根を撫でるような心地よさで、音調を抑えた。


「ご主人様が居ない世界で私は生きたくありません。ご主人様が死ぬと仰るなら、私も死ぬだけです」


ユアの掌は、羽毛布団のような柔らかさと暖かさがある。心に覆うと、一生の眠りにつけそうだ。


「え、ああ。それならいいんだけど……」


咲間は困惑しながらも言葉を発した。


ユアは、"それでは"と言うと立ち上がった。


「一ヶ月生活するにあたって、ある程度の知識は必要でしょう」


棚から色褪せが強い巻物を手に取る。


紐を解き、テーブルに広げた。


白い紙に薄いブラウンを混ぜたような紙。四方の端は、若干欠けている。


表面には、何かを零した跡がこびり付いていた。相当な年季が経っているようだ。


羊皮紙と呼ばれる物だろうか。歴史の教科書で見たことある外観だ。


紙の表面には、地図らしきものが描かれている。


大まかに見ると、右側は緑に囲まれた地帯、左側は茶色に塗られた地帯。二つの世界を分断しているように見えた。


ユアは椅子に座って肘を立たせて、手を組む。


テーブルに体重を掛けているのか、椅子とテーブルの柱から木が軋む音が聞こえた。


「全てご説明いたしましょう。この世界がどんな仕組みで動いているのか。我ら亜人と人間の関係についても。そして……」


ユアの愁いな瞳が一層に寂しくなる。眺めているだけで、心が絶対零度で凍りそうだ。


「この世界で起きている残酷な現状についても」


遠くの方で鳴いていたカラスの鬱陶しい音が止んだ。


部屋中にユアの声だけが響く。


その声は、余りにも悲しみと苦しみを含んだ嘆きの音が混ざっていた。

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