6話―逃げられない過去―


髪からゴミを落とすように、手で髪を梳きながら咲間はため息をつく。


「どうされましたか、ご主人様?」


脚を進めていたユアは立ち止まる。鋭く尖った木の枝を無表情で持ちながら。


「どうされましたか? じゃない。どれだけ進むんだよ」


「目的地はもう少し先です。少しだけ我慢してください」


ユアは枝を振りながら脚を前に進めて、起伏の激しい森林内を歩く。


今日何度目かのため息をついて、咲間はユアの後に続く。


昨日、ユアに付き合ってほしいところがあると言われた。


何をするのか問い詰めるも、ユアは口を割らない。


感情の起伏がない無表情で言われると、不安が募る。


頬や口元が緩むくらいの動きはしてほしい。


不安を抱えながら、寝付きにくいベッドで浅い眠りについたが、不安は早々に現れた。


今朝、重たい瞼を開けて起き上がると、ユアが身支度を終えて佇んでいた。


顔を洗ったり寝癖を直す時間すら与えず、ユアは咲間を連れて森へ入った。


平坦な道が続くと思いきや、盛り上がった大樹の根が道を遮ったり、ぬかるんだ地面と小川が流れていたする。


起伏が激しいだけなら、体力の消耗だけで済む。


森林ではそうはいかない。


虫など存在するため、眼前で生物たちが通ることもある。


蠅などの小さな生物もいれば、蝉のように鬱陶しい音を鳴らす親指ほどの生物もいる。


咲間は、胸元で揺れる灰色の丸い石を手に取る。


家に出る直前にユアから貰った物だ。


表面には、ヤスリのような凹凸がある。


何かしらの液体が染みついているのか。若干滑りぬめりがある


この石には、虫が嫌いな匂いを発生させる星花を磨り潰してるらしい。


お陰で蚊刺されなどは起きていない。


それでも気分は滅入る。流石に眼前は厳しい。


終いには、咲間の顔だけに当たる蜘蛛の巣。


ユアが先頭で木の枝を持って進んでいるのに、蜘蛛の巣に何度も当たる。


これで八回目。本当に早く帰りたい。


手に持った石を胸に垂らして、頭上から聞こえる騒がしい鳥の鳴声を聞きながら、遠くの方を見つめる。


数メートル先の世界は薄暗い。遠くから何かが近づいてきても、直ぐには気付けないだろう。


クーシェル森では、眩い日光が差し込むことはない。


大樹の枝先で葉が大量に生い茂ることで、日光が遮られている。


枕に羽毛を詰めたように葉がひしめき合う。


その影響で木漏れ日から、貧弱な光が森内を包む。


前日に雨でも降ったのか。落ち葉が濡れている。


地面も若干滑りやすい。大樹の根元には苔が生えているため、足取りも難しい。


慎重に足を進ませながら、ユアの後に続くこと数分後。


虫や鳥の鳴き声ではない音を聴覚が捉えた。


音の感覚を感じた瞬間、前方の視界が若干晴れる。


その音は咲間たちが近づくにつれて、大きくなっていく。


「ご主人様、お待たせいたしました。目的地です」


目線をユアの先へ向けると、目を疑う光景が瞳に映る。


場所は開けた湖。スケートを余裕で滑れる広さはある。百人程は入れるだろう。


頭上に大樹の葉が生い茂っていないため、日光が湖に降り注ぐ。


天候は晴天。雲の欠片すら見えない真っ新な空が頭上に広がる。


水面みなもに舞い降りた光は、神秘的な輝きを放ちながら、水中の景色を映える。


透き通る湖ランキング一位を称したくなるほど綺麗だった。


海に巣食う滑りとしたワカメや変な水草などの類は見当たらない。


脚に違和感を感じる心配はなさそうだ。


底に角が丸い小石などが見えた。足裏マッサージ気分で楽しめるかもしれない。


水深は若干浅い。大人なら太腿辺りまで浸かれる気がする。


湖の奥の方では、滝が流れる。


広さは大人三人分だろうか。一人で滝行する余裕の広さはある。


見た目は、滝が流れ落ちる湖。驚くべきことは、色相である。


水の色相と言えば、エメラルドグリーン、コバルトブルーなどの寒色系の色味が一般的。


しかし目の前の湖と滝に彩られた色相は紫。濃い紫というより、薄紫と呼ぶ色だった。


滝も薄紫で飾られている。上流から色が施されているのかもしれない。


妖艶で神秘的な湖。ディ〇ニー映画に出てきそうなファンタジー感が醸し出ている。


「この湖は、北から流れてきているようです。恐らくヴァルドン渓谷からでしょう」


「ヴァルドン渓谷? 」


「はい。断崖絶壁の渓谷だと聞いたことがあります」


ユアは湖に近づくと、しゃがみ込んで水面に人差し指を浸ける。


五秒ほど指を浸けた後、手を軽く持ち上げて人差し指と親指をこすり合わせる。


濡れた指を鼻に近づける。


「不純物は混ざっていなさそうですね」


濡れた指を乾かすように、手を振りながら立ち上がる。


「ご主人様、どうぞお入りください」


「はい? 」


間抜けな声が咲間の口から飛び出す。


「昨日は大量の汗を掻いたでしょう。気分転換にぜひ入ってください」


確かに昨日は、汗を出し過ぎた。


昨日から着ている服は、汗で湿って相当臭い。


脇に至っては、鼻を摘まむほどの悪臭がする。


水浴びしたいと思っていたところだ。


咲間はもう一度湖を見つめる。


薄紫に染まった湖。


良く言えば、幻想的な湖。悪く言えば、化学薬品が混ざったような湖。


現代人の咲間には、後者の悪い方にしか考えられなかった。


"工場から流出した薬品が湖を汚染! "


ニュースの見出しに流れそうだ。


麻痺するものとか入ってないよな。そう思いながら、ユアに確認を取る。


「ちなみにユアは入ったの?」


「勿論です。とても気持ち良かったです」


無表情で"気持ちいい"と言われてもな。


咲間は湖に近づいて、指を水面に浸ける。


直ぐに手を上げて臭いを嗅ぐ。


無臭、鼻を摘まむほどの臭いではない。


水温は若干ぬるい。数時間お湯を冷めた状態の水と言える。


冷水を被ったような衝撃は起こらないだろう。


後は数分後に痺れが起きなければ問題なし。


服を脱いで今すぐ湖に飛び込みたい気分ではある。


しかし色が相当異常だ。どうしても躊躇ってしまう。


躊躇の影が咲間の顔に差していたのか。ユアは若干目を伏せて呟く。


「まだ私のこと信じられませんか? 」


ユアの愁いな瞳が一層悲しさでまみれていく。


そんな悲しい圧を出されると否定出来にくい。


半ば諦め気味で咲間は意を決する。


どうせ一ヶ月後には死ぬ。いま死んでも何も問題ないだろ。


「分かった、分かった。入るよ、入らせていただきます」


動物の皮から作られた簡易的なリュックを、倒木した大樹に立て掛ける。


服を脱ごうとして上衣に両手を掛ける。


「あのー入っている間もここに居るの?」


「勿論です」


今まで女性に裸体を見られたことはない。勿論、月姫にもだ。


恥じらいが先行してしまい、手元が躊躇する。


「いや、でも流石に全裸は――」


「大丈夫です。従者たるもの、ご主人様を守ることが責務。例え全裸でもお守りいたします」


いや、そういう意味じゃなくて……。


数分間の攻防の末、ユアは周囲の警備をすることになった。


別れ際、ユアに念を押される。


「何かあったら大声を出してください。直ぐに駆けつけますので」


無表情で軽く会釈すると、ユアは大樹の枝に飛び乗って森林内へ入っていく。


まるで忍者のような華麗とした動きだった。


ユアの背中が消えたと同時に、咲間は強張っていた身体を緩めて首を回す。


首から爽快な音が鳴った。


前日、就寝する際に変な姿勢で寝た影響か。もしくはベッドの快適性が問題なのか。


口から大きな欠伸が漏れる。


脱いだ服を倒木の上に乗せて、湖へと近づく。


ゆっくりと水面に足の親指を付ける。


次は足首。一旦、一〇秒ほど停止。何も起きる気配がないため、太腿まで一気に浸かる。


片方の脚も水中に入れて、三〇秒ほど佇む。


痺れなどの類は一切感じない。


不安の陰りが晴れて、安堵の息が口から漏れる。


手を使って水をすくい、上半身を濡らす。


入浴には程遠いが、汗を流す程度なら問題ない。


水は清らか。不純物は含まれていない。身体が汚れる心配はゼロに近い。


顔に水を被ろうとするが、手が止まる。


顔にかける勇気は出なかった。


耳、口、目の経路に入ると危険かもしれない。


大人しく四股の隅々まで汗を流し終えると、水面に映る自分の顔を眺める。


穏やかそうな顔。部位の全てが可愛らしい。


本当に魔王の身体なのか疑ってしまう。


咲間は思考に耽る。遠くの方で鳴く鳥の合唱が段々遠ざかっていく。


レインさんが霊として目の前に現れたら、どんな言葉を咲間に掛けるだろうか。


慈愛を込めて褒め称えるか。


いや、あり得ない。レインさんは死にたくなかったはずだ。


人間との対立を解きたくて、幾度も和平を実現させるために思考を巡回したに違いない。


しかし反乱という阻害物質に拒まれた。


結局レインさんは死んだ。


その代わりに咲間が身体に宿って、今では呑気に湖で汗を流している。


怒号。もしくは罵倒を、レインさんは吐くだろう。


罵倒の方が良い。むしろ大歓迎だ。


苦しみや悲しみに耐えきれず、死んだ廃人に生きる資格なんてない。


咲間は頭上を呆然と見上げてため息をつく。


白紙の画用紙に、青い絵具を一面に塗ったような空が視界に映る。


どこまでも青く透き通り、水中から海底を眺めているような錯覚すら覚える。


瞬きをした瞬間、空が赤く染まった。


連想したのは淀んだ濃い血。普通の血ではない。


纏わりつくと、一生落ちない穢れた血。"過去から逃げようとしても無駄"と言われてるような気がした。


咲間は、ゆっくり視線を戻す。


薄紫で彩られた湖が赤く変色していた。


空と同じように淀んだ濃い血。


泥のような粘着性が脚に絡みつき、抜け出すことは不可能に思えてくる


湖の底に敷き詰められた石が眼に変わっていた。


絨毯のように床を覆っているようにも見える。


瞳孔は闇のように濃厚で黒い。虹彩の輝きは灯っていない。結膜には細い赤い線が幾つも走る。


眼の絨毯は咲間の方へ一直線に視線を向けている。


この眼には見覚えがある。


アイツの死の間際の眼と全く同じだった。


胃から吐瀉物が湧き上がる不快感が身体中に走る。


咲間の顔が歪む。


顔面の筋肉に力を込めて、過去から抗おうとする。


突然、太腿に違和感を感じた。


額に汗を溜めながら、咲間は足元へ視線を落とす。


血塗られた手が咲間の両太腿を掴む。


正確には、置いているという表現の方が正しい。


全ての指が変な方向に曲がって、完全に掴んでいるとは言えない。


曲がった箇所は、紫色に痛々しいほど変色。小指からは、骨が若干突き出ている。


頭を振ってあの記憶を追い出そうと試みるも、無駄な足掻きだった。


手が伸びる先にはが居た。


血の湖に巣食う怪物のようにゆっくりと顔を上に向けて、恍惚の表情を咲間へ向ける。


「お、お前は、どこまで俺のことを……」


苦し紛れに咲間は言葉を吐く。


ハサミで切ったような乱れた黒髪。長さが不揃いで汚い。


鮮血を髪から浴びているように見えた。


身体の至るところには、大小の傷と赤紫色の痕。


首には、大きな傷が走っている。


首の傷を眺めているだけで、口から何かが漏れてきそうになる。


咲間は両手を口元に覆って、荒い息を吐く。


動悸が激しく鳴っていて胸が痛い。


ハンマーで殴られたような衝撃が一定間隔、頭に響いてくる。


視界が若干霞む。


彼女が咲間の身体に這い上がるたびに、冷たい血の感触が心に伝わる。


咲間の瞳から一滴の涙が漏れる。


彼女が肩まで這い上がってきた。


咲間の背中に腕を回して、肩に首を乗せる。


心を舐めまわすようなゆったりとした口調で囁く。


「サク、大丈夫だよ。ずっと傍に居るからね」


背中に回した腕を上下に動かして、咲間の冷えた背中を撫でる。


身体が震えて力が出ない。


必死に力を込めて震えを抑える。


「もう~我慢しなくていいんだよ? ほら、私に身を委ねて」


半分に分かれた舌で、咲間の頬を舐める。


途端に身体の震えが止まった。


微かに嗤いながら、咲間の頭を撫でる。


「良い子、良い子。よく出来ました」


咲間の耳に顔を寄せると、恍惚を含めた口調で呟く。


「私はずっとサクの味方だよ。だ、か、ら――」


口調が突然変わった。


殺人鬼のような狂気を込めた低い声で呟く。


「絶対逃がさないから」


その瞬間、視界が黒く染まった。

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