2話―愁いとの邂逅―
どれほど意識を飛ばしていただろう。
喉が焼けるような痛みは、すでに引いている。
喉が干乾びて水を欲しているが、唾を飲んで水と錯覚させる。
あと数秒の命だ。水なんていらない。
脱力するように身体の力を抜いて、両手を振り下ろす。
その瞬間、手首に痛みが生じた。
タンスの角に小指を打ったような感覚。嫌気が差すような痛みが手首に伝わる。
痛みを残しながら指で辺り探って、全身の神経を研ぎ澄ます。
地面の感触が指先に伝わる。コテージのような真っ新な肌触りではない。
若干凹凸が残る荒れた地面の表現が正しい。
ちょっと待て、体勢からしておかしくないか。
落ちていく感覚はあった。重力を失ったように手も揺れていた。
しかし、いま指先、背中、後頭部に伝わる感触は明らかに地面。それも洞窟のような凹凸がある肌触り。
体勢からして横たわっている状況だった。
命を捨てた。その事実は変わらない。
ロープの感触、首に感じた圧迫感を鮮明に覚えている。
今頃、宙吊りになって息絶えているだろう。
全てを捨てれば、苦しみから逃れると思った。
月姫のこともあの記憶も全て消せると期待した。
しかし、未だに苦しみが心を絞めあげてくる。
咲間は、轟の声を上げた。
野太く伸ばした声が漆黒の世界で響く。人間とは思えない轟だった。
精神が限界に達した。
苦しみを具現化した怪物が近寄ってくる。
怪物は、更なる苦しみを咲間に与えるだろう。
この漆黒の世界で永遠と。
「誰か……助けてくれ……」
その瞬間、石と石が擦れる音が耳に侵入する。
咲間は咄嗟に上体を上げた。
視線の先には、紫色の光を帯びた全長一〇メートル程の文字が
見たことない文字。日本語、英語、どの言語にも当てはまらない。
文字を中心として、ゆっくりと左右に扉が開いた。
神々しい光が虚無の世界へ差し込む。
薄く目を開いて、視線を光の中へ戻す。
視界がぼんやりと映り、輝く光の中に黒い物体が見えた。
いや、人の姿だ。
視界に黒い点や糸くずが見えても、紛れもなく人だと感じた。
光の中で佇む黒い影は、ゆっくりと咲間に近づいてくる。
その足取りは、悪魔が愚者に裁きを与える行進のようだ。
視界が慣れて目前の光景が鮮明に見えた。
近付いてくる人物の外見を確認した瞬間、咲間は目を見開く。
全体的に赤茶が混ざり合った髪色、肩に浸かるほど髪が長い。
身体の線は、綺麗なS曲線を描いていてスタイルも抜群。上衣は全て長袖。肌の露出面積は少ない。
しかしニーハイブーツの影響で絶対領域が微かに生まれている。
愁いを帯びた瞳からは、悲しみが見て取れる。例えるなら"黄泉の国に住まう住人"と呼ぶに相応しい瞳だ。
人間ではない。正確には亜人と呼べる生命だろう。
横髪から垣間見える発達した耳。外見が美麗なら、耳は可憐と称せる。
ファンタジー物語に出てくるエルフのような容姿だった。
咲間とエルフの距離は段々と近くなる。残り五歩進めば、咲間に触れる距離まで近づいてきた。
エルフは脚を止めると、咲間の瞳を見つめる。
咲間は期待した。
死の刃を突き立ててくれる処刑人が現れたと。
視線をゆっくりとエルフの腰へと向ける。
全長は80センチ程。形は曲刀、サーベルのようにも見える。鍔や護拳は、宝石のような深紅色で施されている。
更にエルフの身体から殺気を感じた。
威圧する殺気というより、後ろから見定める冷徹な殺気だ。
数秒後には背中を貫かれて、血塗られた切先が前方に伸びるだろう。
不思議と緊張はしなかった。心臓の鼓動は、驚くほど落ち着いている。
咲間は期待しながら、エルフの行動を待った。
数秒後、咲間に近づいてゆっくりと抱擁する。
絶対に離さない意思表示なのか。エルフは、腕に力を込めて抱き寄せた。
身体を小刻みに震わせながら言葉を呟く。
「……これで世界が救える」
「——は?」
心が急速に冷えていく。
極寒の地に捨てられたような感覚。絶対零度に相応しい冷たさだった。
エルフは密着していた身体を離して、咲間の前で跪く。
「ご主人様、今から話す内容をしっかり心に留めておいてください」
エルフは愁いな瞳を咲間に向けて口を開く。
「ご主人様は、先代魔王レイン・イースト・モレド様の身体に転生しました。混乱しているでしょう。ですが、お願いです」
エルフは頭を下げて懇願する。
「どうかこの世界をお救いください」
急な出来事に咲間の思考は止まった。
ゆっくりと咲間は身体を弄る。
腕、脚、お腹、体躯が明らかに増大している。
軟弱だった筋肉は肥大して、アスリート並みの健康的な筋肉が引き締まる。
脚は細く、腰から足先まで綺麗に伸びる。どこかのメンズアイドルのように綺麗な脚だった。
身長は数十センチほど伸びているかもしれない。
視界に映る前髪も黒ではない。
ベージュ色の強い銀髪。鮮やかな色とは言いにくい。病弱な髪色とでも言える。
服装は黒のパンツに薄紫色のチュニック。所々破けて袖のほつれが激しい。
最も特徴的なところは、腕全体に彫られた刺青。黒煙のように燃え上がる炎のようにも見えた。
何も考えることが出来なかった。
例えるなら虚無感だろうか。
頭の中で溜まっていた考えが消え去り、灰色の世界だけが満ちているような感覚。
期待や想いが全て消え去った。
いま存在するものは、怒りだけだった。
楽になりたいと思って死を選んだ。それなのに勝手に転生させられた。
エルフを睨んで、咲間は言葉を吐き出す。
「……今すぐ俺を殺してくれ」
周囲の空気が一気に重たくなった。
目前のエルフは、放心状態で固まっている。
怒っているのか、悲しんでいるのか判断できない。
お互いの視線が交わって刻々と時が過ぎていく。
数分が過ぎた。
痺れを切らした咲間は口を開く。
「聞いてるの—―」
「一つ、質問よろしいでしょうか?」
エルフの表情筋は一切動いていない。
両手で咲間の頬を包み、愁いな瞳を向ける。
「なぜ死にたいのですか?」
エルフの掌から温もりを感じる。
この温もりは、月姫に頭を撫でられた時のような温もりと似ている。
疲れ切った身体に柔らかな毛布で包み込むような温もり。
いま考えると、月姫の存在は咲間にとって暖炉だった。
冷えていく心に、常時温かみを与えてくれる。
月姫が傍に居たから、心が冷えることはなかった。
しかし月姫は消えた。咲間の傍から消失した。
その瞬間、心が冷えて苦しみだけが残った。
「君は感じたことある? 心が冷えたような苦しみを。本当に……死にたくなる苦しみだよ」
例えるなら棘の付いた鎖で縛られて、氷漬けにされたような苦しみに近い。
苦しいと嘆いても声が外界に届くことはない。四股を縛られて、永遠と苦しみ続ける。
苦しみながら、ふと思った。
今まで何のために生きてきたのだろうと。
幼少期の頃は、家族という名に縛られて何もできなかった。
母は小学生の頃に他界した。
再婚相手の父に引き取られるも、最低な男だった。
暴力は日常茶飯事、毎晩タバコと酒を飲みながら蹴られたこともある。
義父は激高しながら、何度もこの言葉を口にした。
『俺たち家族だよな? 』
何が家族だ。家族なんて縛ってくる異物でしかない。
あの頃を思い出すだけで、怒りの息吹が心に吹き荒れる。
中高生の頃は、家族と離れて月姫と過ごすことになった。
この時の咲間は、心が壊れかけていた。
見るもの全てが灰色の世界に見えた。
大好きな唐揚げも灰色に見えたこともある。
もうどうでもいい、そう考えていた。
しかし月姫は、真剣に咲間の心と向き合ってくれた。
月姫は咲間の命の恩人だ。
月姫が居なければ、直ぐにでも死を選んでいたかもしれない。
今までの人生は、月姫のお陰とも言える。
だから月姫のために恩返しすると心に決めて、全てを捧げた。
時間、想い、お金……考えられる物は、全て月姫に注いだ。
その結果、月姫は消えた。
積み上げてきたものが全て崩れ去って粉々になった。
月姫との過ごした時間が苦しみへと変わった瞬間だった。
結局、二〇年間の人生で得た物は苦しみだけだ。
気付けば、死を抱きしめていた。
もう楽になりたい。その想いが心を占領して、死の道へと歩み出した。
額に大粒の汗が流れ、左手で胸元を抑えて動悸を抑える。
咲間はエルフを見つめて、弱々しい口調で懇願する。
「だから俺を殺してくれ」
エルフの表情は微動だにしない。ゼンマイが止まった人形のようだ。
「そう……ですか。それほど死を望んでいるんですね」
エルフは軽く一息つく。
両手を頬から離して、咲間の首元へ移動させる。
「今から話す内容は独り言だと思って捉えてください」
咲間が口を開こうとした瞬間、エルフの力が込められる。
首の圧がより強くなった。息が吸えず言葉を吐き出せない。
エルフは、両手に力を入れながら語り始める。
「この世界は残酷です。たとえ幼い子供だろうと、利益のためなら血塗られた刃を突き刺してくる世界。特に私たち亜人は、劣等種族として蔑まれています」
淡々と述べるエルフは無表情。心に怒りを感じているのか。それとも別の何かだろうか。感情が全く読み取れない。
エルフは尚も言葉を続ける。
「男は四股を切り刻まれ市民へ晒される。最終的にハイエナの餌です。女は過激な拷問を受け、最後は火炙り。残った灰は便所へ捨てられる。そんな醜い世界です。でも、そんな世界に救世主が現れた」
エルフは咲間の顔に近づき、瞳を見つめる。
「ご主人様、あなたです。この世界を救うためにご主人様は生まれたのです。ご主人様は救世主なのです」
首の圧迫感が緩んだ。外界に漂う空気が喉に流れ込む。肺を潤し、人生の時間を延ばした。
「私たち生物はみんな苦しんでいます。私も同じ……そのような経験は一度や二度ではありません。だから分かります、ご主人様の苦しみが」
エルフの言葉が気に食わなかった。良き理解者のような言い方だ。
月姫だけが咲間の理解者だ。他の人は偽善にすぎない。
咲間は、喉を押さえながらエルフの瞳を睨む。
「誰も分からないさ。俺のことなんて」
「いいえ、私には分かります」
「俺とお前は赤の他人だ。お前のことなんて知らない」
「重々承知しています。しかし私にとってご主人様は貴方だけです。貴方のために剣を振り、貴方のために命を捧げる。それが私の責務です」
エルフは目を瞑って一息つく。
数秒後、瞳を開けて咲間の壊れた心を見つめる。
「それではご主人様に一つ質問です。……夢はありませんか?」
「は、急に何を――」
「答えてください」
突然の質問に一瞬困惑しながらも、夢について持論を脳内に引き出した。
夢を抱いたことは微塵もない。
周囲の人たちは、声高らかに夢を語る人もいた。
しかし夢が叶う保証はどこにもない。
努力しても夢に届かないこともある。
実際に咲間は幸せになりたいという夢があった。
そのために月姫と幸せになる道を歩もうと決めた。
月姫が夕食に料理を作って、夜中にテレビを見ながら雑談に耽る。
何の変哲もない幸せであり、至って普通の日常。
その幸せすらも叶わなかった。
夢なんて幻想にすぎない。
「俺に夢なんてない」
確信染みた言葉で答える。
しかしエルフは動揺を見せることもなく、言葉を続ける。
「私は貴方に聞いています。貴方の意思をお聞かせください」
冷えた心の奥底で、何かが沸き上がる衝動を感じた。
咲間を苦しめる怪物ではない。
もっと別の何かが、咲間の心で巡回している。
ゆっくりとした動作で咲間は、その何かを掴んだ。
弱々しい口調で咲間は呟いた。
「……大切な人の笑顔を守れる人になりたい」
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