1部 ―皇帝救出編―

1話―響き渡る轟音―


微かに開いたベランダの窓から鬱陶しい蝉の音が聞こえてくる。


時刻は午前九時。清々しい朝を迎えられそうな青天が世界を包み込んでいる。


前日の天気予報は曇りと報道されていた。


しかし神の悪戯だろうか。眩しいほどの青空が世界に広がっている。


カーテンの隙間から漏れる光に近づいて外を見た。


黒のスーツに身を包んで忙しなく小走りする人、エプロンをぶら下げながら談話する女性陣、女性の傍らで遊ぶ元気な子供たち。


多くの人々がそれぞれの人生を歩んでいた。


開いた窓を閉めて鍵を掛ける。


光が漏れないようにカーテンの隙間を無慈悲に潰す。


忽ちたちま周囲は薄暗い闇に包まれた。


咲間は、カーテンに凭れて座り込む。


何かが狂ってしまった。


薄暗い部屋を見渡すと、床に服や下着類が無造作に散らばっている。


洗濯していない物も含まれているかもしれない。


ベッドのマットは所々禿げて、若干黄色っぽい色に変色していた。


枕のシーツは至る所に刺し傷のような跡がある。


先月買った睡眠薬や売人から購入した薬が計一〇個ほどテーブルに広がる。


全ての薬を手に取って口に含む。


手に持っていたグラスを傾けて、薬を腐った胃へと流し込む。


ネットでコカレロというお酒を購入した。味は意外と美味しい。


グラスに入ったコカレロを一気に飲み干すと、立ち上がって台所へ向かった。


台所からは腐敗臭が漂う。


生臭い鉄の匂いもする。何週間も洗ってない皿やグラス類が流し台に晒されている。


流し台の周辺は調理器具が置きっぱなし。


所々に赤い血痕が皿やグラスに付着していた。血がこびり付いているようだ。


排水溝にゴミが溜まっているのか。


下水道臭が鼻につく。しかし幾度も嗅いだ臭いのため、鼻の感覚は麻痺状態。


咲間は何食わぬ顔で引き出しを開けて、カッターナイフを取り出す。


百均で売っている安物のカッター。刃には血痕がこびり付き、刃先が錆びていた。


咲間は袖を捲った。


醜い手首、ゴミのように汚い。至る所にリスカ痕、打撲痕、火傷痕が目に付く。


八年経っても"アイツ"から受けた傷は、色濃く身体中に残っている。


確か最後に受けた傷は、右目だった気がする。


高校では、眼帯を巻いていた。その影響で周りの生徒から煙たがられた。


学校は窮屈すぎる場所だった。


見えない檻の中で買われているような感覚。それでも咲間は、のために通い続けた。


英雄が傍に居てくれたから人生を歩めた。だから恩返しをしたいと思った。


高校三年生の春には、周囲より先に進路先を決めていた。


某有名大学の情報学科。入試の成績上位一〇名のみ特待生制度を受けられる。


内容は入学費、学費全て免除。この大学を卒業して就職したら英雄に恩返しできる。


海外旅行へ連れて行けるし、高い寿司もプレゼントできる。


こんな汚いアパートより、快適な家を提供できる。そう考えながら試験勉強に励んだ。


結果は合格。加えて成績順では三位。


当然英雄は喜んでくれた。


これからの人生は、幸せな日々が待っていると考えていた。


でもあの日……英雄は姿を消した。


英雄が消えた日を思い出すだけで、心臓が痛くなる。


茨が生えた鎖で縛られているような痛み。


咲間は痛みから逃れるために手首を切った。


一〇回くらい切ると、視界が揺れた。


咄嗟に壁へと凭れてカッターを流し台に投げ捨てる。


左手首は赤く染まり、腕を上げる気力もない。額からは汗が流れる。


電子レンジから音が聞こえた。


左腕をぶら下げたまま、右手に力を入れて電子レンジを開ける。


白いカップに入ったブリュレ。最期の晩餐に適した料理だ。


電子レンジの上に乗せていたハンドタオルを取る。


白いカップをタオルに包んで持ち上げた。


視界が揺れながらもリビングへ戻り、テーブルの傍へ歩む。


身体を一気に脱力させて座る。右手に持ったブリュレをテーブルに置いた。


床に放置されたスプーンを手に取ると、ブリュレの表面を優しく削る。


ゆっくり口に入れてブリュレを飲み込む。


ブリュレ独特の旨味が揃った極上の味。カラメルソースの味に涙が出そうになった。


食感を噛みしめながら二口目に手をつける。


英雄が何度も作ってくれたブリュレ。


学校から帰宅してブリュレの香りがした瞬間、幸福感に満たされたことを今でも覚えている。


英雄の味とはかけ離れている。


しかし英雄が傍に居た頃の美しい記憶が鮮明に脳内で再生される。


食べ終えると、静かにスプーンをテーブルに置く。


テーブルの上に置かれた写真立てに目を向けた。


世の男性を虜にさせる程の潤った肌。レースカーテンのように胸下まで伸びる黒髪。


男女に絶大な支持を得る顔の輪郭。冷静沈着な雰囲気が醸し出る、


木虎 月姫きとら つきひめ。咲間を救ってくれた英雄であり義姉。


その英雄があの日、忽然と消えた。


高校の卒業式当日。


卒業祝い兼大学合格祝いと称して、月姫が遊園地に行こうと提案してきた。


乗り気ではなかった。しかし月姫の楽しそうな顔を見ていると心が弾んだ。


結果、咲間は承諾して遊園地へ行くことにした。


卒業式の最中は、遊園地のことだけを考えていた。


生徒を代表して、誰かが答辞を述べる声が聞こえる。


月姫と似た黒髪で綺麗な女性。


全学年の成績順一位。生徒会長も務める優等生。生徒や保護者の間では、有名人として名が通っている。


体育館に居る全員が生徒会長へ視線を向ける。


咲間は視線を向ける素振りすら見せず、月姫を探した。


月姫が見当たらない。


卒業式を終えて、咲間は校内で月姫を探した。


片っ端から月姫の特徴を伝えながら聞き込みを行う。しかし月姫は見つからない。


額に汗を浮かべながら急いで自宅へ戻った。


"お帰りー"と声が聞こえることを祈り、玄関の扉を開ける。


家には誰もいなかった。荒らされた様子もない。


リビングのテーブルには、月姫が使っていたマグカップが置いてあった。


マグカップに注がれたカフェラテは、熱を失っているようだ。


必ず飲み干してから、月姫は仕事へ行く。残して外へ出る訳がない。


月姫が消えた。


その事実が頭を過った瞬間に心の歯車が止まった。


歯車が錆びていくような感覚を心に感じた。


狂ったように雑貨類を投げ飛ばし、怪獣の咆哮が部屋中に鳴り響く。


食器が割れる音、テレビが割れる音、掛け布団が千切れる音、壁時計が落下する音。


耳障りな音の乱舞が轟く。


あの日以降、咲間の針は止まったままだ。


大学入学も辞退して月姫を探す毎日。


貯金も底を尽き、闇金に金を借りる始末。


最終的には墜落生活へと成り果てた。


床に転がる壊れた時計に目をやる。


秒針、短針、長針は月姫が消えたあの日から止まっている。


午後四時四四分四四秒。不吉すぎる数字。死を連想させる数字に見えた。


空になったカップを乱暴に掴み壁へと投げる。


雑音が鳴り響く。割れたカップは無残にも床へと果てる。


月姫が消えてから、幼少期の記憶が脳内へ流れてくる。


洪水のように流れてくるの記憶。脳内へ入るたびに心が苦しくなる。


何度も心の中で助けを求めた。しかし助けてくれる人は居ない。


咲間を救済する英雄は消えた。


苦しみから逃れるためには、何をすればいいの考えた。


誰にも迷惑を掛けずに苦しみから逃れる方法。答えはすぐに出た。


全てを捨てればいい。


視界が霞む中、ゆっくりと立ち上がる。


身体の力が抜きかけるも、額に汗を浮かべながら壁に凭れる。


写真立てに納まる月姫に視線を向けて呟く。


「もう疲れたよ……月姫」


脚に体重を乗せて壁から離れる。


膝が震えながらも、一歩ずつ前へ踏み出す。


椅子に足を乗せて前を向く。


突然世界が変わった。


純白に染まった世界。太陽や小石の一つすら見当たらない。


錆びた鉄の匂いも異臭も感じない。しかし異様な物が存在した。


漆黒に染まった両開き門。


門の淵から、濃厚な黒い霧が漏れる。


雰囲気は、欧州に存在する城門のような造り。至る所に茶黒いさびが目立つ。


門に掛けられている分厚い南京錠が震え出す。


南京錠が外れて地面に落ちた。


咲間を歓迎するように、ゆっくりと門が開く。


門の先は闇だった。


踏み込めば、全て無に化すほどの闇。


感情、記憶、身体、全て消えるだろう。月姫と過ごした思い出も消える。


月姫が消えた半年後には、全てを捨てるつもりだった。しかし月姫の記憶も消えてしまう。


月姫が作ったブリュレの味、月姫が編んでくれたマフラーの感触、月姫と過ごした休日、全て闇へ消える。


月姫の記憶は消したくはなかった。だから耐えた。


耐え続けた結果、咲間の心は壊れた。


正面を向いて闇を見据える。咲間は弱々しく呟いた。


「月姫、今まで傍に居てくれてありがとう」


目から一滴の涙が流れる。


涙が頬を伝う。しかし無残にも闇へと飲み込まれた。


その瞬間、幼少期に体験したが脳裏を掠める。


舌打ちして闇を睨む。


「……もう一生現れるな」


一歩踏み出して闇へと堕ちた。


純白の世界が米粒のように離れていく。


後は闇に身を委ねるだけ。


闇の中では、怪物のような轟音が響き渡っていた。


人を嘲笑うような音。心を蝕み、人の尊厳を踏みにじる言霊も宿ってそうだ。


同時に喉が焼けるような違和感を感じた。


長時間大声で笑っているような感覚。喉仏が潰れるか心配だ。


この違和感も鬱陶しい。早く楽になれ。


意識を手放すように、目を瞑って身体の力を抜く。


どこまでも続く闇へと、咲間は堕ちていく。


嗤いながら。

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