シーン12-1 前触れ
ゆっくりと太陽が空へと昇っていき、鳥のさえずりが聞こえてくる。
優希の自宅からは八束高校を挟んでちょうど反対側に位置する住宅街の一角に、ある小さな一戸建ての家があった。
その家の一階にある大部屋では身長が2mはあろうかという大男が床の上で体を丸めながら眠っている。ほとんど寝息は響かず、傍目には死んでいるのではないかと思えるほど深い眠りに堕ちていた。
その大男が眠っている部屋にふわりと戸を開いて入ってきた男がいた。やや瘦せた、どことなく冴えない風体をしている中年男性だった。風体こそ冴えないが、その目は爛々と輝き、口元に不気味な笑みを浮かべている。
中年男は床で眠りこけている大男を見下ろしながら胴体を軽く蹴り飛ばす。別に大男に危害を加えようとしたわけではなく、今の大男は揺さぶった程度では起きないだろうという判断である。無論、中年男自身の嗜好も多分に含まれてはいるのだが。
大男は蹴られても起きようとしなかった。今の彼にとっては軽く蹴られた程度の痛みは痛みのうちに入らないらしい。
中年男は再び大男を蹴り飛ばした。力を込めた鋭い蹴りだった。強い衝撃を受けてようやく大男は目を覚まし、とろんとした表情でゆっくりと顔を上げる。
「起きたか?」
「……」
中年男の問いに大男は静かに頷く。
「気分はどうだ?」
「……もやがかかったような気分です……落ち着きません」
「身体の調子は?」
「……全身から力があふれ出てくるような感じはあります。早く体を動かさないと気が狂いそうです……」
大男は淡々とした口調で質問に答えていく。その顔には何の感情も浮かんではいない。
中年男は大男の様子にうんうんとうなずき、最後の仕上げとなる質問を行った。
「お前は今、何をしたい? 体を動かして何を為したい?」
「……」
その質問に大男はすぐには答えなかった。その巨体をわずかに震わせ、心の中で葛藤を起こしていることが外からも伺える。その様を中年男は黙って見つめていた。
やがて、大男はゆっくりと太い首を左右に振り口を開く。
「……壊したいです。何もかも滅茶苦茶にして、跡形も残さないくらいに……ぶっ壊して……」
「いいだろう」
物騒極まりないその答えを、中年男は酷薄な微笑みを浮かべて受けいれた。
「今からお前を外へ出してやる。ただし、いくつか条件がある」
「……」
「まず、私がいいというまで絶対に正体を明かすな。その代わり私が許可した後はお前の好きにするがいい。また、最初は私の指定する場所に行ってもらう。そこでお前には一仕事をしてもらいたいからだ」
「……」
中年男の言うことを大男は黙ったまま素直に聞いている。何故なのか、どうしてなのか、などと尋ねもしない。聞いたところで理解できず、そもそも話してくれることも無いのを大男は良く知っているからだ。
そして、中年男は厳しそうに見える表情で最後の条件を口から発する。
「最後に、これが最重要の条件だが……歩生優希を殺せ!」
「!」
それまで黙って話を聞き続けてきた大男が、はじめてはっきりと動揺を表情に出した。大男の反応を確認しながら中年男は言葉を続ける。
「奴はお前よりも一足先に進化を果たしている、言うなればお前のライバルだ。お前が新しい世界へと到達するためには、奴を倒さねばならないだろう」
「歩生を……倒す……進化……新しい世界……」
中年男の言葉を確かめるように大男は繰り返す。生気の感じられなかった顔に生気が宿り、その目が青白い光を宿す。
中年男はそんな大男の様子に満足そうな笑みを浮かべる
「やる気になったな? ならばすぐに準備をしろ。服はこちらで用意した」
男は手に持っていた紙袋を大男に投げてよこす。大男が中身を確認するとそこには見慣れた服が入っていた。
大男は昨日から着通しであったボロボロの服を破きながら脱ぎ捨て、全く同じデザインの、今の自分に合わせたサイズをした服に袖を通す。
「着替えたな。ならば行くとするか、東元恭二」
「はい……北栄先生……」
北栄に促され、東元は一晩を苦しみながら過ごした部屋から出ていった。
その頃、優希の自宅では変身の特訓が大詰めを迎えていた。
何度も何度もポーズを取るうちに優希の動きは研ぎ澄まされていき、また今までは感じることのできなかった体中から活力がみなぎる感覚が甦ってきたのである。
「それは心理的なショックのせいで休眠状態にあったと思われるお前の体が目覚めつつある証拠だ。意思の声が体に届きつつあるんだ。あと少しだぞ!」
『分かりました……!』
いずみの激励にうなずく優希。昨日の夜から寝ることも無くぶっ通しでの特訓に、二人ともかなりの疲労を感じていたが、あと一歩というところまできているといる手応えが二人を支えていた。
『もう一回行きます……!』
優希はそう言うと構える前に呼吸を整える。逸る気持ちを抑え時間を掛けて呼吸と体の動きを合わせていく。
そして、その二つがピタリと一致するのを感じた優希は、おもむろに右腕を天に突き上げ、スッとその手を振り下ろす。呼吸のリズムに合わせてポーズを変化させていくうちに、優希は自分の中の全てがひとつになっていくのを感じていた。
(元に……戻るんだ……僕の体……!)
ただそれだけを意識しながら、左手で真っ直ぐ前を突く。
『!』
優希は手応えを感じた。体がドクンと大きく脈打つ。
「優希……!」
いずみも優希の状態を悟って、思わず声を掛けながら目を見張る。
優希の体は音もなく静かに元の体へと戻っていく。
紅い肌は人肌の色を取り戻し、発達した筋肉は控えめになり、野太かった腕や脚も平均的なサイズに戻り、頭髪も再び姿を見せる。
白く変色した皮膚に覆われていた顔も元の表情を取り戻して、目は澄みわたり口も元に戻っていた。
完全に元の姿を取り戻した優希であったが、しばらくの間は左手で前を突くポーズのままでじっとしたままだった。元に戻っているのは肌などの感覚から理解していたが、自分でしたことが自分で信じられなかったのだ。
そんな優希にいずみが声をかける。その表情は呆れ半分驚き半分と言ったところである。
「何をボーっとしてるんだ優希。お前元に戻ったんだぞ」
「は、はい……いずみ先生。ちょっと今、自分で自分に感動しちゃって……」
「それはそれで構わないが、まあ服ぐらい着ろ」
「えっ……! あっ……ご、ごめんなさい!」
いずみの指摘に優希は慌ててタンスから服を取り出し身に着ける。いずみは何回も変身解除のタイミングで優希の裸を見ており今更動揺もしないが、それでもお互いの精神衛生のためすぐに服は着なければならなかった。
落ち着いたところで、二人は昨晩いずみが持ってきたソフトドリンクで乾杯する。
「よく頑張ったな優希。これで理屈通りになるなら、もう勝手に変身したりすることもなくなって、自分の意思で姿を使い分けることが出来るはずだ」
「ありがとうございます! ……でも、本当に僕一人じゃどうにもならなかったですよ。先生の助けがあったから元に戻れました」
「私の手助けなどあってないようなものだ。大部分はお前の努力だよ」
そう言って二人はお互いを称え合う。
「でも変な感じですね。あれだけ元に戻ろうとして戻れなかったのに、これからはポーズを取れば自由に姿を行き来出来るだなんて」
「理屈の上ではそうなるが、本当に出来るかどうかはまだ私自身も半信半疑なところがある。余裕があれば何回か変身したり解除したりを繰り返したいところだが、時間が時間であるし徹夜した分少し休まなければな」
「そうですね、学校にも出なきゃいけま……あれ?」
いずみの話に相槌を打とうとして、優希はその鋭敏な感覚で何かを感じ取る。
「どうしたんだ優希?」
「先生……今何時になりました?」
「六時五十八分だ……何か感じるのか?」
「いくら朝とはいえ、外が静かすぎやしませんか?」
「何だと……!」
表情を硬くした優希の言葉にいずみは一気に表情を緊張させて耳を澄ます。確かに優希の言う通り、この時間にしては車通りも無く人の声も聞こえてこない。会社や学校に早出をするならばこの時間に出ていても不思議ではないのにも関わらずである。
「先生……これは……?」
「嫌な予感がするどころの話ではないな。街中で何かが起こっているのは確実だ。……優希、急いで支度をしろ。私も風呂場で着替えさせてもらう。準備が出来たらすぐに出発だ」
「わかりました……!」
優希といずみはそれぞれ強張った面持ちで立ち上がった。
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