シーン11-4 回生

 いずみはそこまでを思い出して、手にしている粉薬を静かに見つめる。

 何の病気に効果があるのかもわからない、動物実験に使われる予定だった不要のサンプル。

 ふと頭に「この薬なら歩生の状態の悪化を止められるのでは?」という考えがよぎり、いずみは間髪を入れずにそれを否定した。未知の病気に対して効能が不明な薬を用いるなどあってはならないことだった。

 だがしかし……といずみは思ってしまう。

 このまま放っておけば優希は確実に死んでしまうに違いない。それに対しいずみに取れる手段はほとんどない。せいぜいその最期を看取ってやるくらいである。それなら、この際出来る手段は何でも試してみればいいのではないか。出来ることをせずに大切な生徒を見殺しにするなど、いずみには耐えられなかった。


(やるんだ……座間いずみ……生徒を……救うんだ……!)


 手に持ったレジステアと、今や息も絶え絶えになって苦しんでいる優希の顔を何度も見比べた末に決心を固めると、のろのろと立ち上がる。

 いずみは台所で水を汲み、そこに塩と砂糖を適量入れて即席の経口補水液を作ると優希の寝室に戻ってきた。

 そして、弱々しく息を吐きながら横になっている優希の顔を見定める。優希の口は塞がってしまったが、元々口があった場所には呼吸をするためなのであろう小さな孔がいくつか開いていた。

 その中で一番大きそうな孔を見つけたいずみはそっとレジステアの入った包の封を切り、その孔から少しずつ経口補水液とともに流し込んでいく。弱っている優希が薬でむせないか少々不安であったが、どうにか全てを飲ませることに成功した。

 これで本当にいずみに出来ることは無くなった。あとはただ奇跡が起こることを祈るだけである。

 いずみはベッドの脇で祈るような姿勢で優希を見守っていたが、既に心身が限界に達していたこともあり、優希の体にもたれかかるような形で眠りについた。


 翌朝。

 先に目を覚ましたのはいずみだった。きちんとした姿勢で寝てないためか体のあちこちが痛む。

 眠い目をこすりつつ、ベッドで寝ているはずの優希のことを確認しようとして、いずみは息を呑む。

 そこで眠っている優希は本来の姿を取り戻していた。背丈も元の大きさに戻り、目が光るなどということも無く、穏やかな表情ですやすやと寝息を立てている。

 いずみはその光景にしばらく呆然としていたが、はっとして我に返ると大慌てで優希の体を揺さぶって起こす。


「おい、起きろ歩生……起きるんだ!」

「……うーん……。ん……? 座間先生……?」


 優希は目を覚ましたもののまだ意識が覚醒していないのか、自分の体の変化に気付いていない。呑気そうな表情の優希を見ていずみは苦笑する。


「おはようだ、歩生。……気分はどうだ」

「……それがちょっと違和感があって……え?」


 そこでようやく自分が普通に喋れていることに気付いた優希は自分の顔に手を当てて口の感触を確認したり、何度も口を開いたり閉じたりする。


「先生……僕……普通に話せて……」

「……それだけじゃないぞ歩生。自分の姿を良く見てみろ」

「え……?」


 優希は自分の体を見つめる。そこにあったのは紅く染まった肉体ではなく、ごく普通の肌の色をした、懐かしくすら感じる自分の体だった。


「……元に……戻ってる……! ……戻ってる!」


 優希はその事実を噛み締めるように言葉を繰り返してしばらく感動に打ち震えていたが、やがていずみの方を向くと何度となく頭を下げた。


「座間先生……本当にありがとうございました! ……もし先生がいなかったら僕はきっと……!」

「私はほとんど何も出来なかったよ。……こうなったのはお前自身が最後まで生きることを諦めなかった結果だと思う。お前が素晴らしい奇跡を起こしたんだ」

「そうだとしても、そのことを教えてくれたのは先生ですから、やっぱり先生のおかげだと思います!」


 いずみは謙遜したが、それでも優希は真っ直ぐな尊敬の視線を寄せてくる。その一途さが心に響き、いずみは思わず涙ぐみそうになるのをどうにかこらえる一方、冷静に次にすべきことを考えつつあった。



 優希が落ち着いた後、いずみと優希はそれぞれ学校に休みの連絡を入れた。優希の身体の様子を見定める必要があったからである。優希はともかくいずみが唐突に休んでしまうのには問題もあったが、今は優希のことを優先しなければならないといずみは決めていた。

 その後で、いずみは一旦優希の家を出て自分の家に戻って着替えをし、一泊できる準備を整えた後、昨夜の現場に足を伸ばして優希のカバンを回収した。やはりというべきか、蜘蛛の怪物の死骸は既に誰かの手によって撤去されていて見当たらない。

 それを確認した後で優希の家に舞い戻ったいずみは、改めて昨晩の出来事について優希に説明を行った。


「……それじゃあ、そのレジステアって薬のおかげで僕は元に戻ったんですか?」

「今のところそう判断するしかないが、一体どういう成分が効いて元に戻ったのかが全く分からんから、過信するのは危険だな……」


 優希の質問にいずみは慎重に言葉を選ぶ。実際、元々の持ち主からして効能が良く分かっていない薬である。それが必然的な効果だったのか、それとも偶然の産物だったのかも分からないのだから、そんな薬を信じろというのも無理な話である。そこは優希も納得していた。


「でも、信じるかどうかは別として、今はそのレジステアがないと仮に僕がまた変身してしまった場合、元に戻れなくなるんじゃないんですか?」

「……そうだな。それはお前の言う通りだ。だが、今回使ったあれは偶然知り合いからもらった実験用のサンプルで、まだ一般には出回っていないものだ。すぐに手に入る性質のものじゃない」


 優希の言葉に苦い表情をしながら答えるいずみ。優希にはこの話をする前提として、「まだ完全にウィルスの影響が無くなったのかどうかが分からない。何かが起きてまた体が変わってしまう可能性はある」と伝えていたのだ。その考えに基づけば、再度体が変身してしまった時の為に、疑わしいところがあったとしてもレジステアを用意できないか、と考えるのは自然なことだといずみも思った。


「……不安になりますね。またいつ変身するかもわからないのに、唯一効果のある薬がないなんて。このままじゃ安心して学校に行くことも出来ませんし……」

「……分かっている。だが、どちらにせよ今日明日でレジステアを手に入れるのは無理だ。これから相手に大至急レジステアを用意できないか掛け合ってみるとしよう」


 いずみはそう言って席を立つと電話をするため玄関先に向かった。よもやあの男に頼みごとをする羽目になるとは思ってもいなかったが、今は一刻を争う時である。躊躇ってもいられない。

 いずみはため息をつきつつ、スマートフォンの連絡先を呼び出した。

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