シーン11-3 切欠

 だが、そこで優希の状態に異変が起こる。

 急にいずみから体を離したかと思うと苦しげに自分の体を抑えてその場にうずくまった。黄色く光る目からも力が失われ、弱々しく明滅している。


「おい、どうした歩生! しっかりしろ!」

「……! ……」


 いずみは苦しむ優希をとりあえずベッドに寝かせて安静にさせたが、優希の目は依然として苦しそうに明滅したままだ。

 苦しみ続ける優希を見つめながら、いずみは何故突然こういう事態になってしまったのかを疲れ切った頭で懸命に考えていた。


(……ここまでの影響を体に与えるとなると、歩生が受けたのは単なる毒だとは考えられん。となると……新種のウィルスにでも感染しているのか?)


 最悪の可能性に行きつき青ざめるいずみ。優希の体の変異が仮にウィルスによるものであるとしたら、今すぐにでも防疫措置を取らなければならないし、あの場に放置してしまってある怪物の死骸もどうにかしなければならない。感染者である優希と接触を持ったいずみも感染を疑う必要があった。

 だが……そこでいずみは優希の話を思い出す。

 優希の話を聞く限り、この正体不明のウィルスは極めて速い速度で症状が進行するようであった。恐らく優希の体が変異するまでに三十分も時間はかかっていないはずだ。このウィルスが空気感染を引き起こす類のものであるならば、既にいずみの体にも変異が起きていても不思議ではない。

 しかし、今のところいずみ自身は体の変調を感じてはいない。症状が出ていないだけかもしれないが、あれだけの変異を起こすウィルスに感染しておいて全くの無症状で済むとも思えない。

 ということは、このウィルスの感染には何らかの条件が必要ということになる。優希の場合は勿論、蜘蛛の怪物から受けた針が原因とみて間違いない。感染源となっているのが怪物の体液なのか、それとも針そのものなのかは判断が難しいが、とにかく対処を慎重に行えばそう簡単に感染が拡大するようなことにはならないだろうといずみは結論を下す。怪物の死骸については恐らくもう既に手が回っているだろうから、そちらは運を天に任せるほかない。

 そこで改めていずみはベッドの上で苦しそうにしている優希のことを見やる。優希が今苦しんでいるのはウィルスのせいなのは確実だが、一体どういう症状で苦しんでいるのだろうか。いずみの目には優希の体は既に変異し切ってしまっているように映っている。如何に体を変えてしまうウィルスとはいえ、これ以上の変異など起こしようもないはずである。

 これ以上の変異……体の異変……それの行き着く先があるならば……。

 そこでいずみははっと気付く。体の変化が行きつくその先は……破滅だと。

 いずみは慌てて優希にかけていたタオルケットを剥いで、優希の肉体を確認すると、気付かないうちに優希の体は急速に衰えて始めていた。

 優希の変異した肉体を覆っていた逞しい筋肉が張りを失っている。紅い肌も色がくすみだした。腕や脚も力強さを失い、背もやや小さくなったように見える。優希の顔は潤いを失い血管が浮き出て、黄色く光っていた目は今や何の輝きも宿していない。


「いかん……、このままでは歩生の命が危ない!」


 そうは言ったものの、今のいずみには打つべき手がなかった。せめてこのウィルスが何なのかが分かれば、もしくは優希の体がこんな有様でなければ外部の誰かに助けを求めることも出来るのだが、ウィルスの正体が掴めず今の優希の姿を人目に触れさせるわけにもいかない状況下ではそれも出来ない。


(何も出来ないのか……? 生徒の為に尽くせる手はもう何も無いのか……? 私は……こんな時に……)


 いずみは唇を噛み締めて自分の無力さを呪うしかなかった。いくら考えても優希の為に出来ることが何も思い浮かんでこない。そうしているうちにも優希の衰弱は進んでいく。

 しばらく黙ったまま考え込んでいたいずみは、やがて何かの救いを求めるかのように自分のバッグを漁り始める。といっても、中に目ぼしい何かが入っているわけではなく、ただの悪あがきに過ぎない。だが、このまま手をこまねいているだけなど、いずみにはとても耐えられなかったのだ。

 そして、バッグの中身を全て引きずり出し、結局何も見つけられなかったいずみはその場にへたり込み呆然と天井を見上げていた。

 自分は何もできない。このまま優希を見殺しにするしかない。


(歩生……私は……何もお前の役に立つことが出来なかった……)


 いずみの頬を、一筋の涙が伝っていく。

 やがて途方もない疲労を感じながらも冷静さを取り戻したいずみは、ひとまず涙を拭おうと自分のバッグから出したポケットティッシュケースを取り上げる。すると、そこに見慣れぬ紙包が挟まっているのに気が付いた。


「何だ? ……こんなものを挟んでおいた覚えはないが……」


 いずみがその紙包を取り上げてみると、中身は粉薬のようであった。いつの間にこんなものがバッグに紛れ込んでいたのだろうか。

 この薬の出どころについていずみは記憶をたどり、やがて一人の男のことを思いだす。



 その男は大学時代のサークル仲間で、今では製薬会社に勤務していた。昔からいずみに気がある素振りを何度か見せていて、その度にいずみは丁重に断りを入れていたのであるが、男の方は諦めきれないのか社会人になってもいずみのことを追い続けていた。

 先日、しばらく音沙汰がなかったその男からいずみに「面白いものを見せたい」とメールで連絡が届き、仕事続きで疲れ気味だったいずみは息抜きを兼ねて男との会食に応じたのである。

 男の様子はいつもと変わらず、いずみは食事に舌鼓を打ちながら適当に話に聞き流していたのだが、男が「今日見せたかったもの」と称して取り出したのが、先程の粉薬だった。


 男の話によると、その薬は『レジステア』という名が付いていて、新種のウィルスに対する特効薬として開発されたものだということだった。


「新種のウィルス、な……需要はありそうだが、一体何のウィルスに効く薬なんだ?」


 いずみが興味本位で尋ねてみると、男は頭を掻きつつ「まだはっきりとしたことは分からない」とした。

 開発しておいて分からないということも無いだろう、といずみが質すと、男はここだけの話だからな、と断りを入れた上で小声で事情を話し始めた。

 何でもこの薬というのは実は男の会社で開発されたものではなく、外部から持ち込まれたものであるのだという。

 持ち込んだ相手のいうことには、この薬が自分の持ち込んだものであることを伏せてくれるなら、あとはどのように扱ってもらっても構わない。謝礼なども不要だが、その代わり必ず実用化してほしい……ということだったそうである。

 男の会社の方も相手の素性が不明であったことから当初は断る予定であったそうだが、その相手が開発資金と称して大量の寄付金を送ってきたことから、一転して薬の開発を受け入れたのだという。

 その話を聞いたいずみは謎めいた薬とその薬を持ち込んだという謎の「篤志家」に興味を抱いた。そこまでして薬を開発させたい事情とは何なのか、そしてその薬の正体は何なのか。

 自分の想像通りにいずみが興味を持ったのを喜んだ男はよほど嬉しいのか、なんとそのレジステアをいずみにプレゼントすると言い出した。これには流石のいずみも焦って「社外秘に該当するような曰く付きの品物など受け取れない」と突き返そうとしたのだが、男の方は「持っていて邪魔になるようなものでなし、どうせこれは動物実験に使う予定だった不要のサンプルだから」とか何とか言って無理やりいずみのバッグにねじ込んでしまったのである。

 その後、男がいつものように言い寄ってくるに違いないと悟ったいずみは、仕方なくレジステアをバッグにねじ込まれたまま、追い立てられるように男と食事していた店を後にしたのだった。

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