シーン11-2 母性

 優希から事情を聞いたいずみは腕組みをしながら考え込む。


「なるほどな……あの針を脇腹に受けて苦しんでいたところに突如体がな……」


 話を聞けば聞くほどに不可解な出来事と言わざるを得なかった。優希の話の流れから判断すると、あの怪物の針に何らかの毒性が含まれていて、その影響で体が変異してしまったと考えるのが妥当であるが、生物の体をここまで作り変えてしまう毒素など聞いたことも無い。

 そもそもの話として、あの蜘蛛の怪物は一体何だったのだろうか? あんな大きさの蜘蛛が自然の中から、しかも街中で発生する訳がないのだから、何らかの意図を持つ存在が遺伝子改造なり何なりを施してあの場所に放ったとしか考えられない。だが、そんなことのできる個人、あるいは集団がこの八束市に存在しているとも思えない。

 全てが謎だった。確かなのは、その結果として優希の肉体が大きく変異してしまったことだけである。優希から一通り話を聞いてはみたものの、何をどこから、どうしたらいいのかが全く分からず、いずみの思考は袋小路に陥ってしまった。

 その傍らでは優希が不安そうに体を揺らしている。


(落ち着け座間いずみ……! 生徒の前で不安そうな姿を見せるな)


 いずみは内心の動揺を抑えるために大きく余裕のある仕草で伸びを行った。勿論、優希に不安を感じさせないようにするためでもある。


「大まかな話は理解したよ歩生。……一つ一つ考えていこうか」


 説明という言葉は避けた。説明だと自分が答えを知っている印象を与えてしまう。考えていくならば答えを知っているわけではないが、そこに向けての手がかりになら心当たりがあるということに出来る。


「まず最初にお前の体の変化についてだが、突然そうなったというのはやや語弊があるな。恐らくはあの針が体に当たってからほとんど間を置かずにお前の体は変異を始めていたのだろう。変異していることに気付くのが遅れたのは、変異する感覚が傷を受けたことによる痛みや流血のショックに押し負けていたからだ」

「……」


 優希は黙ってうなずくと、ノートに「どうしたら元に戻れますか?」と書いていずみに見せる。一番答えにくい質問が早速来てしまったが、ここで尻込みしても何も良いことはない。いずみは努めて冷静に、そして慎重にゆっくりと言葉を選ぶ。


「……お前の体が変異した理由は間違いなくあの怪物の針に含まれていた何らかの毒素か何かによるものだろう。ということは、その成分を何らかの形で中和することが出来れば、元の姿に戻ることも不可能ではないと私は思う。ただ、それは設備が完全に整った優秀な大病院でもそんなに簡単に出来ることではない。何しろお前が一体どういう毒を受けてそうなってしまったのか、そこから調べを進める必要があるからな……」


 いずみの言葉を聞いた優希は間髪を入れずに「そういう病院に心当たりはありますか?」とノートに書き、それを見たいずみは静かに首を振った。


「この近隣の病院では手に余るだろう。県立病院でも対応できるかどうか怪しいところだ。東京や名古屋と言った大都市にある病院ならばあるいは何とかなるかもしれんが、時間も金も膨大に消費することになるのは確実だ。……時間はともかく、お前に金は用意できんだろう?」


 そこで優希は力なくノートとペンを落としてうなだれてしまい、いずみは自分の迂闊さに思わず両手を握りしめる。思考することに集中しすぎていて、ただでさえ弱っている優希の心情を完全に踏みにじってしまった。


(馬鹿者……わざわざ歩生を絶望させてどうする! 違う話に持っていくことも出来ただろうに……!)


 いずみが内心で自分を責めている間に、優希は一度は取り落としたペンを静かに拾い上げてペン先を見つめ、それを自分の喉元に向ける。

 やや遅れて優希が何をしようとしているのかに気付いたいずみは、焦りをにじませながら優希を怒鳴りつける。


「何をしている歩生!」

「……! ……!」


 優希は黄色く光る目を激しく明滅させ、ペン先を自分の喉先に押し当てる。優希が自殺をしようとしているのは明らかだったが、混乱している優希は自分の体がどうなってしまっているのかを完全に忘れていた。

 そのことに気付いたいずみはひどく冷たい目で優希を見据えると、あえて感情を込めず平板な口調で事実を告げた。


「それで死ねると思っているのか、歩生……?」

「……?」

「お前の体は今、あの針の直撃を口に受けてもたちまち再生するほどの生命力があるんだ……そんなヤワなペン先を突き刺した程度で死ねるとでも思っているのか……?」

「……」


 優希の眼の光が弱々しく瞬き、その手に握られていたペンが静かに床に落ちる。自分のしていたことの愚かさに気が付いたのだ。

 いずみはそこで初めて表情に怒りを込める。生徒に手を上げるなど自分のやり方に反するのは重々承知の上だが、ここは厳しい態度を取らねばならない時だった。

 呆然と立ち尽くす優希の目の前に立ったいずみは、頭の上にある優希の頬に全力で平手打ちを見舞った。平手を打ったいずみの手が痛くなるほどの強烈な一撃を食らって、優希は思わず目の前にいるいずみをまじまじと見つめる。

 いずみは血を吐くような思いで優希を睨みつけながら言葉をぶつけた。


「バカなことをするんじゃない! 生きている人間が命を粗末にして何になるんだ!」

「……!」


 優希は激しく首を左右に振り体を震わせる。自分はもう人間ではない、こんな体など消えてしまえばいいと、泣きながら訴えているようにいずみには思えた。

 いずみはもう一回優希の横っ面を強く張り付け、有無を言わせない強い口調で怒鳴りつけた。


「諦めるな! 生きろ! 命ある限り生き続けるんだ! お前はこうして生きているじゃないか! 生きているんだ! 歩生!」


 いずみの激しい叱咤に優希はその場に力なく崩れ落ちる。いずみもしゃがみこみ、静かに優希の肩を掴んで揺さぶった。


「お前がそんなことでどうする。ここで自ら命を絶って、それでお前の亡くなった両親がそれを喜ぶとでも思ったのか? どうなんだ歩生!」

「……」


 問い詰められた優希はふらふらといずみのことを見ながら、ゆっくりと首を横に振る。両眼の光はほとんど消えかけていた。

 いずみはそこで一旦大きく息を吸い込み、自分の呼吸を整える。そして、気持ちを落ち着かせてから今度は少し柔らかに語り掛けた。


「歩生……確かにお前の体は変わってしまった。見た目だけではなく中身もな……だが、それでもお前は人間だ。人間として今ここに生きているんだ。難しい理屈など知ったことじゃない。私はお前を人間だと確信している」


 優希はぼんやりとした様子でいずみを見ていた。弱々しく光る両目が一瞬だけ明滅する。

 そんな優希の体をいずみは安心しろと言うように軽く叩く。


「大丈夫だ歩生。お前の体はきっと元に戻る。……さっきは後ろ向きなことを言ってしまったが、誰かが治らないと決めたわけじゃない。お前自身が諦めなければ、必ず元に戻る糸口はつかめるさ。私も出来る限りのことをするから、お前も生きることを諦めないでくれ」


 いずみは先程の失言の謝罪を含めて優しく語り掛ける。優希は呆けたようにいずみのことを見つめていたが、やがて恐る恐るといった様子でいずみの体にそっと抱きついてきた。いずみの方もそれを嫌がることなく受け止める。


「よしよし……辛かっただろう歩生。済まなかったな、厳しいことばかり言ってしまって……だが、お前は私の大切な教え子だ。今だけは存分に甘えてくれて構わないぞ……」

「! ……!」


 優希は体を激しく震わせ、抱きしめている腕に力を込める。普通の状態であるならば大声を上げて泣きじゃくっているところなのだろう。優希の抱きしめる力が強すぎて少々痛みを感じるいずみであったが、それには触れることなく黙って優希の頭をあやすように優しくなでていた。

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