シーン9-2 光明

 優希は肩にもたれかかっているいずみのことを自分の方に引き寄せる。力任せではなく、優しく慎重に。


「優希……」


 いずみも優希に抵抗はしなかった。大人しく目を閉じ、されるがままに任せ、逞しいその腕に身を委ねる。

 しかし、そこで声が響いた。


『先生……』


 優希の、本来の優希の声だった。


『え……?』

「優希お前……声が……」


 いずみを驚きのあまり目を丸くし、声を発しているはずの優希本人も驚いて思わず部屋にあった姿見を見る。自分の姿は変身したままだ。

 だが、それまで閉ざされていた口元が僅かだが開きかけている。大きく口を開くことは出来ないが、何かをそっと飲み込むことくらいならできそうだ。

 優希はもう一度喋ろうとしたが、今度は上手く行かない。精一杯口を開けて喋ろうとするがやはり駄目だった。どうも変身前のように口を開閉して喋ろうとすると上手く行かないらしい。

 しばらく声を出せずに悪戦苦闘する優希を観察していたいずみは、少しだけ思案を巡らせてから優希に言った。


「優希、無理に口を動かそうとするな。小さく開いて、喉から出る音を唇に軽く当てるような感覚で口から出してみろ」

「……」


 優希はそのアドバイスにこくりとうなずき、言われたとおりに口をごく小さく開き、喉の音をそのままそこから出すように声を発する。


『あ……あー、あー……こえが……』

「出せたな優希……ちょっとばかり練習してコツを掴めば、もう少し自由に声を出すことも出来るようになるだろう」


 戸惑いながらも声を出す優希にいずみはにっこりと微笑んでうなずき、そこからしばらくの間二人で発声の練習を行うこととなった。

 しばらくして、多少流暢に話せるようになった優希はいずみにどうして急に声が出せるようになったのかを尋ねた。


「声が出ているのは腹話術の応用だ。通常、人間は声帯で発せられた音を口の中や唇などの筋肉で調節して声としているが、腹話術は口の中や唇、顎の筋肉を使うことなく音を唇に当ててその振動で声を形作っていると考えられている。今までのお前はあの時の怪我が原因で変身後に喋れなくなっていたが、わずかだが口が開くようになったことでその枷が外れて、声を出す余地が生まれたのだろう」

『そのうち普通に声を出すことも出来るようになるんでしょうか?』

「出来るんじゃないか? ……勿論、それには口が完全に開くようになることが絶対条件になるだろうが」


 いずみの言葉に優希は絶望の中から一筋の光明を見たような気がした。勿論、声が出るようになっただけでは問題は何も解決しないが、それでも声を出せる、人とコミュニケーションが出来るというのは最初の変身以来ずっと声が出せずに苦労していた優希にとっては朗報であった。

 黄色い目を光らせて喜びを表現する優希を見て、いずみはくすりと笑う。


「……まあ、その姿でノートを持って筆談するお前も中々に可愛いものがあったがな」

『止めてくださいよ先生……そう言えば、この体は基本的に傷の治りが異常に速いのに、どうして口の怪我はこんなに治りが遅いんでしょうね?』


 いずみの言葉に内心で赤面しながらも優希が何気なく発した疑問に、いずみは買ってきたポテトチップスをつまみながら考え込む。


「以前に私はその原因を体の再生機構が怪我のショックで過剰に反応したためだと言ったが、それは半分正しく半分間違っているのかも知れん」

『どういうことですか?』

「要するに、それとは別に原因となるものが存在するということだ」

『別の理由……?』


 優希はそう言われて首を傾げる。そもそもの話として優希は理系分野が得意ではないから、いずみの言ったことも半分理解していればマシなくらいではあったのだが。

 いずみは悩ましそうに頭を働かせている優希の肩をポンポンと叩く。


「そう難しく考えるな優希。また話せなくなっても知らんぞ?」

『え……? 声を出せるようになったことと。怪我の治りが遅かったことに関係があるんですか?』

「まあな……。優希、さっき声を出した時一体何を思っていた?」

『何って……それは……』


 優希は思わず口ごもってしまう。ここで「あなたのことを思ってました」と言えるほど優希はプレイボーイに出来ていない。いずみの方もそんなことを期待して聞いたわけではなかったが、そう言ってくれない優希を少しだけ残念にも思っていた。


「……まあ、細かい心情には立ち入らんが、あの瞬間に言葉を発したい、私に言葉をかけてあげたいと、そういう風なことを思ってはいなかったのか?」

『それは思いました。その……疲れ果てていた先生に……何かしら言葉をかけてあげたいと……』


 優希が多少照れながらも正直な思いを伝えてくれたことに、いずみは質問に答えてくれたこととは関係なく一瞬だけ少し顔を赤らめ、すぐに真面目な表情に戻って優希に告げる。


「そう。その気持ちが体を動かしたんだよ優希。お前が心の底から私に声を伝えたいと思ったから、体がそれに応えて声を出せるように体を変化させたんだ」

『え……? まさか、そんな単純なことで……?』


 その言葉にあぜんとする優希。今までは理詰めで優希の疑問に答えてきたいずみが突然精神論を語りだしたのだから、優希の驚きも当然かもしれなかった。しかし、いずみの方は大真面目に言葉を続ける。


「確かに言葉だけならば簡単そうに思えるかもしれんな。しかし実際はそう簡単な話ではない。心の底から、自分の表層にある意識と奥底に眠る無意識とを偽りなく一つにまとめて、その通りに行動するということは誰にでも出来ることじゃない。私ですら、そういう風に生きてきているかどうかは全く自信がない」

『……』

「……思うに優希、お前が変身後にしゃべれなくなったのは怪我もあるだろうが、お前自身が口を閉ざしたかったからじゃないのか? 自分の正体を誰に悟られたくない、詮索されたくないという無意識が体に影響を及ぼして怪我からの回復を遅らせ、喋らないことで自分を守ろうとしていたのだと、私はそう感じたよ」

『……それは……』


 いずみの言葉に、優希は何かしらの反論を試みようとして断念した。完全に納得したわけではないが、いずみの言ったことも事実だった。誰にも正体を知られたくない、隠し通したいと思ったからこそ優希はあやめの前から逃げ出し、そして変身後の姿を人前にさらしてしまい絶望していたのだから。

 他にも考えれば思い当たることがある。


『じゃあ、僕がいつも夜中に変身していたのも……?』

「その可能性はあるな。人目を避けたいと思う無意識が昼間に変身することを拒んでいたのかも知れん。もっとも、そうなると今回突然昼間に変身してしまったこととの整合性が取れなくなるが……」

『そのことなんですけど……僕が無意識で飛田さんに自分の正体を明かしたいと考えていたとしたらどうでしょう?』

「少し考えにくい推測だな。お前自身がよほど飛田に心を許していて、何もかも明かしたいと思っていたなら話は別だが、今夜初めて会ったときのお前の落ち込みようはひどかったぞ。とても正体を明かすことを望んでいたとは思えないな」


 いずみは優希の推論を否定的に捉える。一応は理性的に語ったつもりだが、その裏で優希があやめのことを取り上げたことに若干反発心が働いたのも否定は出来なかった。

 一方、優希の方は意見を否定的に取られたことをあまり引きずらず、もう別のことを考え出していた。


『……話を少し前に戻しますけど、僕の変身が解除されないのも僕の意識と無意識が一致してないから、とは考えられませんか?』


 これまでの話を総合して考えると、優希の無意識というのは表にある意識と思いがすれ違ってしまっている可能性が高い。実際の話、これまではいくら自発的に元に戻ろうとしても果たせなかったのを、当の優希本人が一番良く知っている。

 優希の考えを聞いたいずみはポンと手を叩く。


「優希、中々目の付け所が良いぞ。……確かに、お前の表層意識と無意識を一つにすることが出来れば、元々の姿を取り戻すことも出来るに違いない。問題は、どうやってそれを果たすか、だ」

『はい』

「まあ、まだまだ夜は長い。ここは焦らず、気長に考えをまとめていくとしよう」


 そう言って、いずみは残っていた缶チューハイを一息で飲み干した。

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