シーン8ー2 死淵<しえん>

 手当てが終わった後、いずみに礼を言って保健室を出た優希とあやめは校門を出るところまで一緒に歩いた。


「気を付けなさいよ歩生君。南井君たちがどこかで待ち伏せしてるかもしれないんだから」

「ありがとう飛田さん。気を付けるよ」

「まあ、何事も起きなければいいんけどね」


 あやめは普段の勝気さとは打って変わった心配そうな声で言う。


「どうしたの飛田さん? そんなに心配そうな声で……」

「うーん……何が心配かと言われちゃうと理由は説明できないんだけどね。でも、何かとても嫌な感じがするの。何かが起こる前触れのような……」

「嫌な感じ……?」


 あやめの言葉に優希は首を傾げる。嫌なことなら今日はもう既に起きている。あれ以上の嫌なことが起きると言われても、優希にはいまいちピンと来ないが、そう言われてしまうと何か起きるのではないかという感じにもなる。

 優希が真面目に考えこんでしまっているのに気が付いたあやめは、手をパタパタと振って苦笑しながら言った。


「あ、そんなに気にしないで歩生君。こういう感覚なんて当てにならない物だと思うし。……変なこと言っちゃってごめん」

「そうだね。当たらないことを願ってるよ」

「ありがと……じゃあね歩生君、また明日会いましょ」


 優希の反応にホッとしながら、あやめはお別れを告げて帰っていった。



 夕日に照らされてオレンジ色に染まった道を優希はぼんやりと歩いている。

 いずみの言葉とあやめの言葉、それぞれに言われた言葉を歩きながら思い出していたのだ。


(体を鍛えろ……かぁ。もうずっと挫折してばかりだけど……)


 優希にも体を強くすることへの憧れが無いわけではない。中学時代に運動部に入ったのも自発的に行ったことであるし、一時期は自宅でできる簡単な筋トレも毎日のようにこなしていた。しかし、いくらやっても目に見える形で成果が出てこなかったのである。


(僕の体は筋肉が付きにくいのかもしれない……もっと強い体に生まれたかったなぁ……)


 優希はため息をつく。両親を奪った事故をも乗り越えて生きていた幸運な体ではあったが、運動することに関してだけはさっぱり伸びてくれない。

 ふと空を見上げる優希。いつしか夕日は西の空に沈みゆき、夜の闇が街を包もうとしていた。

 優希はこれ以上暗くなる前に早く家に帰ろうと足を速めたが、そこである重大な事実に気付く。


「財布がない……!」


 南井たちから懸命に守りぬいたはずの財布がないのだ。財布には今日を含めて一週間分の食費が入っており、失くしたとなったら一大事である。焦る優希は制服のポケットからカバンの中に至るまで全てを探し尽くしたが、財布はどこにも見当たらない。

 優希はどの時点から財布が無くなっていたのかを必死に思い出す。


(考えてみると飛田さんと校門で別れた時にはもう既に持ってなかった気がする……助けてもらったときには両手で抱えていたから失くす訳が無いし……そうすると保健室かな? 今から学校に戻っても中に入れてくれなさそうだけど……)


 優希はスマートフォンの時計を見つめる。時刻はもう午後六時を過ぎていて、とてもではないが生徒が中に入れる時間ではない。しかし、事が事である。守衛の人に事情を話してでも中に入れてもらわなければ、今日の夕食と明日の朝食が危うくなる。


(とにかくできるだけ早く学校へ戻ろう……頼んでみてダメなら仕方がないし)


 とりあえず優希は当面の方針を決めて、元来た道を戻ろうと走り出す。



 ここが優希にとって運命の分岐点だった。



 優希は息を切らしながらも走って学校近くの細い路地まで来ていた。車が入ることが出来ないくらいの細い道で、右隣には墓地がある。優希の家から最短ルートで学校に行くならばこの道を通らなければならない。

 脇には側溝があり街灯もほとんどない、夜の闇の中を走り抜けるには危険な場所であったが、財布のことで頭がいっぱいな優希はそんなことなど気にもせずに先を急ぐ。

 だが、その細い道を間もなく抜けようかというところで、優希は道の前方に何かがいて、先を塞いでいることに気付いた。一旦足を止めて何がいるのかと目を凝らしたがいまひとつよく分からない。

 優希がそれの正体を確かめようと足を一歩前へ踏み出した時、前方に紫色に光る何かを見つけ、何だろうと首を傾げた瞬間だった。


 ドスッ!


 嫌な音とともに凄まじい衝撃が脇腹を襲った。

 体が震え、優希は力が抜けてその場にへたり込む。何が起きたのかと脇腹に手をやると、そこは何かでぐっしょりと濡れており、震えながらその手を目の高さまで上げてみると、手は真っ赤に染まっている。


 血。


「う……うわああああああああああああ!」

(痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いぃぃぃ!)



 自分が脇腹から血を流していると自覚した瞬間、一瞬だけ麻痺していた痛覚が一気に覚醒し、優希は激痛に絶叫してその場をのたうち回る。そして、そんな優希の動きを見定めたかのように暗がりから何かが姿を現す。

 それは巨大な蜘蛛であった。それも尋常な大きさではない。ちょっとした大型犬ほどの大きさをしている。目に当たる場所は紫色に発光し、不気味な口元から巨大な針のようなものが顔をのぞかせている。優希の脇腹を襲ったのもこの針だった。

 蜘蛛の怪物は口元から体液を滴らせながら、八本の脚を動かしてじりじりと優希の方ににじりよってくる。

 優希は激痛に身をよじらせる中でそれを見ていたが、逃げようにも体が思う通りに動いてくれない。わずかに後ろに下がるのが精一杯だった。そして、蜘蛛の怪物は優希にどんどん迫ってくる。


(死ぬんだ……)


 優希はそう思った。自分はここで死ぬのだと、あの蜘蛛の怪物に食い殺されて一生を終えるのだと、そう確信した。

 先程脇腹を襲った傷はかなりの重傷で、こうしている間にも傷口からどんどん血があふれ出して止まらない。痛みと出血が合わさり優希の意識はどんどん薄れていく。

 優希の目から、最後となるかもしれない涙がつぅっと流れ落ちた。


(父さん……母さん……僕……今からそっちに行くみたい……ごめんなさい……)


 すぐ目の前に迫ってきた蜘蛛の怪物の顔を見ながら、優希は心の中で亡き両親に謝罪をする。

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