シーン6ー1 約束
優希が猫の怪物と戦ってから二週間ほど過ぎた。
授業を終えた優希はいつものように保健室を訪れたが、いずみは不在だった。留守番をしていた女性教師の話では、大至急外に出なけらばならない用事が出来たらしく、昼休み頃に焦ったような表情で学校から飛び出していったのだという。
「いつも冷静沈着な座間先生にしては珍しいこともあるものよね」
留守番の女性教師も首を傾げていた。そんな話をされるほど焦っているいずみを、優希も全くと言っていいほど見たことがない。妙な胸騒ぎがする。
ただ……、とそこで優希は冷静になって考えた。
(もしかしたらレジステアのことかも知れない。……もう二週間も飲んでないし……)
優希がレジステアを受け取ったのは二週間前にいずみがくれた五包分が最後である。それ以降は中々手に入らないようで、昨日そのことをいずみから謝罪されたばかりである。
その時のいずみの表情はひどく疲れ切っていて、優希も見ていて心配になるほどだった。
「少し休んでください、いずみ先生。そんなに思いつめて動かなくても……」
「……気持ちだけ受け取っておく。今は休んでいる時ではない。こうしている間にも、お前の体の変異は進んでいるのだからな」
「僕は平気です……!」
力なく話すいずみに優希は強い調子で言う。しかし、実際には優希の体の変異……変身後の肉体への『適応』は加速度的に進んでいて、もう手遅れに近い状態となりつつあった。
身長はあれからさらに6cm伸び、優希の目測では変身後の背丈と大差が無くなってしまっている。全身もさらに逞しく引き締まり、運動神経も飛躍的に上昇したようであった。この間体育で持久走をした際もそれまでは下から数えた方が早かったのが、いきなりぶっちぎりのトップでゴールしてしまい体育教師も驚愕していた。
優希の『適応』は肉体だけでなく五感にも及び、それまで変身後にしか備わっていなかった気配などを察知する鋭敏な感覚が、変身前の体にも備わりつつあった。初めはちょっと遠くの物音が聞こえるような気がした程度であったのが、今では学校の上の階に今何人の人間がいるのか、はるか遠くの廊下から誰が教室に近付きつつあるのか、と言うようなことまで知覚が出来るようになってしまっている。
それまで優希が感じていた変身中の苦痛も、今や全くと言っていいほど感じられない。変身自体も十分もかからずに終わるようになり、変身していられる時間も日ごとに長くなっているようであった。
優希自身、自分の体が駆け足で人間から離れていってしまっていることを十分に理解していたが、もうそれを止めようという気が起きなくなっていた。
確かに自分は化け物かも知れない。人間ではないのかも知れない。肉体は変わり果ててしまったけれど、それでも自分が自分であることには変わりない。
変身してしまっても、見られなければ問題はない。実際、最初こそ誰かに見られることを恐れていた優希だが、誰にも見られることなく夜の外出を繰り返しているうちにいつしか気が大きくなってしまっていた。
いじめられることも無くなり、友人も増え、全てはいい方に進んでいるのだから、今は無理にその流れを止めるべきではないのではないか。今の優希はそんな風に感じている。
いずみはじっと自分のことを見つめている優希の視線に込められた意味を正確に把握していた。確かに今はそれでもいいかも知れない。しかし、いずれ優希は自分自身の全てをいずみ以外の人間にもさらけ出さねばならなくなるだろう。
その時、全ての人間が今まで通りに優希を受け入れてくれるとは限らない。心無い中傷を浴びせてくる程度なら序の口、排斥運動が起こるまでならまだマシで、最悪迫害を受けて殺される所まで想像しなければならなかった。
優希は心優しい性格で、しかも人生経験が浅い。いじめられていたことで多少は他人の悪意にも敏感であるが、まだまだ人の悪意の底知れなさを知るには経験が足りなさすぎる。年上であるいずみには優希の考え方は非常に危険な楽観に基づいているものであることがすぐに理解できた。
いずみは静かに優希と視線を合わせる。正面からいずみに見つめられた優希は緊張しながらも視線を外そうとはしなかった。
いずみはそんな優希を見ながら静かに微笑み、言った。
「優希……」
「なんですか、先生?」
「私は前に言ったよな? ……人として、優しさを忘れるな、と」
「確かに言いました。よく覚えています」
優希は真っ直ぐにいずみのことを見つめて答える。いずみは今や見上げなければ優希の顔を見ることは出来ないが、どこまでも真っ直ぐで優しさに満ちたその顔は変異が進んだ今でも変わらない。
いずみはそのことにほのかな安らぎを覚えつつ、今伝えるべき言葉を紡ぐ。
「優希……いつか私がいなくなってしまったとしても、その言葉を忘れないでいてくれないか……?」
「……ど、どうしたんですか先生? いきなりそんな……」
「……済まないが約束してくれ。……いつまでも、どこまでも、人として、優しさを、忘れないと……」
唐突ないずみの言葉に戸惑う優希。いずみの顔は微笑んではいるが蒼白で、今にも倒れてしまいそうな雰囲気を漂わせている。
優希はいずみに近寄ろうとしたが、いずみの方がそれを手で制した。今はそれよりも大切なことがある、とでもいうように。
「優希……どうした? 私には約束してくれないのか……?」
「……分かりました。約束します。いつまでも、どこまでも、人として、優しさを、忘れないと……」
促された優希がようやくゆっくりと約束の言葉を発していくのを、いずみは穏やかな微笑みを浮かべながら見守っていた。
「ありがとう優希……その言葉が私を支えてくれるよ……いつまでもな」
「縁起でもないですよ先生。まるでこれが永遠のお別れみたいな感じじゃないですか。こんな形のお別れなんて僕は嫌ですからね」
「ははは……こいつは失礼したな、優希。……安心しろ、私はまだまだ死なんさ。お前が立派に卒業するのを見届けるまでは死んでも死にきれん」
いずみの言葉に不安を抱いた優希が慌てて問いただすと、そこでようやくいずみは少し生気を取り戻して苦笑しながらそう答えたのだった。
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