きっとチョコレートよりも甘い

「悠太、今週は私の部屋に来なくていいからね!」

「……え?」


 寒さも厳しい、二月上旬の昼休み。俺はいつものように水無瀬と二人、部室棟で弁当を食べていた。

 唐突な水無瀬の言葉に、俺の箸からぽろりと煮豆が転がり落ちる。ひじきと大豆の煮物は、弁当用の副菜として小分けにして冷凍しているものだ。毎朝三人分ないしは四人分の弁当を作らなければならないので、ストックをしておくに越したことはない。


「……あ、そう。なんか用事?」


 今度はしっかり煮豆を掴んで、ひじきと一緒に口に入れる。俺が作った弁当を食べている水無瀬は、「うーん、用事っていうか……」と目を伏せて口籠った。なんだかはっきりしない態度だ。腹の底に揺蕩うモヤモヤを、卵焼きと一緒に飲み込んだ。

 水無瀬ひかりの「自分を好きじゃない人が好き」という妙な性癖から始まった俺たちの交際は、途中で俺が水無瀬を好きになるという危機に陥りつつも、なんとか上手くいっている。昼休みには一緒に弁当を食べ、二人並んで下校し、週末には一人暮らしの水無瀬の部屋に行って掃除と料理をする。そんなことが恒例になっていた。


「日曜も?」

「日曜もダメ!」

「誰か来んのか。あ、親が帰国してくるとか?」

「そ、それは違うけど……とにかく、悠太は来ちゃダメなの! 絶対来ないでね!」

「……わかった」


 正直腹落ちしていなかったが、そこまで頑なに拒絶されると行くわけにもいかない。今週末は自宅の家事を済ませることにしよう。ちょうど、そろそろ網戸の掃除をしようと思っていたところだ。


「今週は悠太の作ったごはん、食べられないのは残念だけど……」


 そう言って、俺の作ったササミフライを口に運んだ水無瀬は、心底美味そうに表情を緩ませた。中に大葉とチーズが挟んであるもので、今年の新メニューである。水無瀬に弁当を作るようになってから、ほんのちょっとだけ手間をかけるようになった自覚はある。別に自分も食べるのだから、水無瀬のためだけに頑張ってるわけではない。


「俺がいなくてもちゃんと部屋掃除しろよ」

「大丈夫! 私、悠太と付き合うまで、二年近く掃除機かけてなかったんだよ! 一週間ぐらい掃除しなくても平気平気」

「全然大丈夫じゃねえんだよ……掃除機は毎日かけろ」

「来週またよろしくね、悠太!」


 悪びれずにニッコリ笑った水無瀬に、呆れた視線を向けつつも、内心ではホッとしていた。

 俺は正直、水無瀬に「もう二度と来なくていいよ」と言われるのが怖い。「嫌われるのが怖いから好きにならないで」と言った彼女の気持ちなんて、到底理解できないと思っていたけれど――今ならほんの少しだけわかる。これまで当然のように享受していた愛情が突然失われるのは、恐ろしいものだ。


「今日、寒いよね。悠太もブランケット使う? あったかいよ!」


 暖房器具のない書道部部室には、水無瀬が持ち込んだ私物があれこれ置いてある。彼女が今使っているカシミアのブランケットもそのひとつだ。一応俺の分もあるのだが、手触りからして高級そうなので、汚すのが怖くてほとんど使っていない。洗濯するのにも気を遣いそうだ。


「……いや、いい」


 俺はそう言うと、空っぽになった弁当箱を片付けてから、水無瀬の背後に移動した。後ろから腕を回して抱きしめると、ぴし、と華奢な身体が強張る。


「ゆ、ゆゆゆゆゆ悠太……」

「こっちの方があったかいし。……週末会えないんだから、ちょっとぐらいいいだろ」


 みるみるうちに体温の上がった水無瀬の身体は、ぽかぽかと温かい。様子を窺いながら頰に唇を寄せてみると、「学校でそんなふしだらなことしちゃダメー!」と力いっぱい突き飛ばされてしまった。……はい。調子に乗りました、すみません。




 土曜日の空は清々しく晴れ渡っており、二月とは思えないほどの温かさだった。まさに網戸掃除に相応しい陽気と言えよう。

 掃除機で軽く埃を吸い取った後、重曹水を吹きかけてスポンジで綺麗に磨く。朝から張り切っている俺に、姉ちゃんはソファに寝転がったままブランケットに包まっていた。


「ちょっと悠太、寒いんだけど。閉めてよ!」

「やだよ。俺は今日、家中の網戸をピカピカにするって決めたんだ」

「あんた、ひかりちゃんとこ行かないの? 毎週甲斐甲斐しく通い妻してるのに。またフラれたの?」

「フラれてない。今週は来んなって言われてるんだよ」

「それって、遠回しに距離置かれてんじゃないのー? あんなに可愛い子なんだから、大事にしないとすぐに横から掻っ攫われるわよ!」


 ずいぶんと棘のある言い方だ。数日前に彼氏と別れたばかりの姉ちゃんには余裕がないらしく、やたらと俺につっかかってくる。相手をするだけ労力の無駄なので、無視して網戸を磨くことに専念する。


「アポなし訪問を拒否されたりとか、連絡取れない時間が増えたとか、バスルームにスマホ持ち込むようになったとか、そういうの全部浮気の兆候なんだからね!」

「実体験に基づくアドバイスありがとう」


 思わずそう言うと、ばこん、と後頭部にテレビのリモコンが飛んできた。いってえな、と文句を言おうと振り返ると、姉ちゃんはクッションをボスボスと殴りつけながら、「くそー、あのヤロー! 今度会ったら絶対ちょんぎってやるー!」と物騒なことを叫んでいる。

 ……まあ、荒れるのも仕方がない。恋人に浮気され振られた直後、わんわん大泣きしている姉ちゃんを目の当たりにしたときは、俺もよっぽどちょんぎってやろうと思ったものだ。


「……しゃーねーな。今日の夜は姉ちゃんの好きなもん作ってやる。何がいい」

「…………煮込みハンバーグ。トマトじゃなくて、デミグラスソースのやつ」

「はいはい」


 網戸掃除が終わったら、スーパーに買い物に行こう。ついでに姉ちゃんの好きなシュークリームでも買ってやるか。俺のお気に入りのクッションが引きちぎられる前に、血の気の多い姉の機嫌を取らなければならない。


 今日は時間にゆとりがあったので、自転車に乗って大きめのスーパーに来た。ハンバーグの材料を買うべく売り場をウロウロしていると、そういえばバターが残り少なかったな、と思い出した。乳製品が並ぶ売り場に来たところで、無塩バターが売り切れていることに気付く。俺が買うのは有塩バターなので問題ないのだが、珍しいこともあるものだ。

 ふと意識して見ると、なんだかやけにたくさん菓子作りの材料が売られている。混ぜて焼くだけのチョコレートケーキ、丸めて冷やすだけのトリュフといった簡単なキットもたくさんあった。製菓コーナーのそばに立ったノボリには、「今年は手作りバレンタイン!」というピンクの文字が踊っている。

 そうか。来週の日曜日――二月十四日は、バレンタインデーだ。

 俺はといえば、毎年バレンタインデーにはとんと縁がない。姉ちゃんも母さんも家族にチョコレートを渡すようなタイプではないし、俺は基本的にクラスの女子から嫌われている。俺の方も女子が苦手だったし、大量のチョコレートを抱えているモテ男たちを羨ましいとも思わなかった。

 ずらりと並んだ製菓材料とともに、菓子作りのレシピ本も置かれていた。手に取ってパラパラとめくってみると、さまざまなチョコレート菓子のレシピが写真つきで掲載されていた。俺は菓子作りの経験がほとんどないが、それほど難しくはなさそうだ。見た目も美しいケーキの写真を見ていると、ふつふつと欲求が湧き上がってくる。

 ……水無瀬はアイスクリームは好きだが、チョコレートは好きだろうか。


 ――あんなに可愛い子なんだから、大事にしないとすぐに横から掻っ攫われるわよ!


 姉ちゃんの言葉が頭にわんわんと響く。水無瀬の気持ちを疑うつもりはないのだが、可能性はゼロではない。いくらあいつが冷たくされることに興奮を覚える女とはいえ、少しぐらいは優しくしてやっても問題はないだろう。そう自分に言い聞かせながら、レシピ本を買い物カゴに突っ込んだ。

 ……つまるところ、俺はいつだって、隙あらば水無瀬に優しくするチャンスを狙っているのだ。美味しいと笑う水無瀬の顔を想像すると、ほんの少し心が浮つくのを感じた。




 一週間後、バレンタインデー当日。前日の土曜日にはまた「用事がある」と断られてしまったので、俺は自宅でチョコレートケーキを製作した。張り切りすぎてホールで作ってしまったが、二人で食えばなんとかなるだろう。

 箱に入れたケーキを崩れないように慎重に持ちながら、水無瀬の住むマンションへと向かう。インターホンを押すと、「はーい!」という明るい声とともにオートロックが解除された。

 エレベーターに乗って十三階で降りると、なんと部屋の前で水無瀬が待っていた。いつも以上にご機嫌な笑顔を浮かべて、「悠太! 待ってたよー!」と勢いよく抱きついてくる。嬉しくないわけではなかったが、「そういうのは中に入ってからにしてくれ」と彼女の頭を掴んで引き剥がした。


「どうぞどうぞ! 入って!」


 水無瀬に促されるまま、部屋の中に入る。ここに来るたびに、きちんと片付いているかどうかのチェックをするのが癖になってしまった。なんだか底意地の悪い姑のようだ。

 玄関のすぐそばにあるキッチンの流しには、汚れたボウルや軽量カップ、泡立て器が出しっぱなしになっていた。それを見た瞬間、俺は己の失敗を悟る。手にしていた箱を、反射的に背中に隠した。


「悠太! 今日はなんの日でしょーか!」

「……さあ。まったく見当もつかねえな」

「ふっふっふ。正解はバレンタインデーでした! じゃじゃーん!」


 水無瀬は豪華な効果音つきで、皿に乗ったガトーショコラを差し出してきた。ひび割れた岩のようなケーキの上に、粉雪のような砂糖がかかっている。見た目も美しい、完璧なガトーショコラだ。


「どう? びっくりした?」

「……びっくりした」


 キッチンの残骸を見た時点で予想はしていたものの、本当にびっくりした。それと同時に、「水無瀬が俺にチョコレートを用意している」という可能性がすっぽり抜け落ちていた自分をブン殴りたくなる。


「……これ、おまえが作ったのか」

「そうだよ! 実は先週からこっそり練習してたの! 完璧なひかりちゃんとしては、愛する悠太に適当なもの渡せないし!」


 水無瀬はきらきらと瞳を輝かせて、「褒めて」とばかりに擦り寄ってくる。手作りのガトーショコラを目の当たりにして、俺はみっともなくにやけそうになるのを必死で堪えていた。

 このガトーショコラは、あのズボラで、面倒くさがりで、不器用な水無瀬ひかりが、俺のためだけに作ってくれたものだ。しかも、一週間前から練習までしてくれた。そんなの、嬉しくないわけがない。


「……ありがとう」


 素直に礼を言うと、水無瀬は「ふふ」と得意げに笑って、俺の胸に抱きついてきた。抱きしめ返そうとしたところで、顔を上げた水無瀬は小さく首を傾げる。


「そういえば悠太。その箱、なに?」

「……あ」


 水無瀬の指摘に、俺は固まった。箱の中には、俺が昨日気合いを入れて作ってきたホールケーキがある。この場で渡すべきか悩んだが、猫のような焦茶色の瞳にじーっと見つめられて、俺は渋々箱を開けた。


「……ごめん、かぶった」

「!? ぎゃーっ! な、何これー!? もしかして悠太が作ったの!?」


 箱の中身を見た水無瀬は、甲高い悲鳴をあげた。

 俺が作ったのは、オペラと呼ばれるフランス発祥のチョコレートケーキだった。ビスキュイ生地、ガナッシュ、バタークリーム、コーヒーシロップの染み込んだスポンジの層から成っており、表面をチョコレートでコーティングしたものだ。


「な、なんかすごくツヤツヤしてるんだけど……」

「……ゼラチン混ぜたチョコレートでコーティングしてる。グラサージュっていうらしい」

「な、なんか飴細工みたいなの乗ってるよ!?」

「……凝り出すと楽しくなってきて……」

「これ、ケーキ屋さんで売ってるやつじゃん……! うわあ……ドヤ顔してた私、恥ずかしすぎる……公開処刑だよ……」


 水無瀬は両手で顔を覆って、しばらくその場でジタバタと身悶えしていた。どうにも居た堪れなくて、俺は無言で頰を掻く。しかし水無瀬はすぐに立ち直り、「まあいっかあ」と顔を上げた。


「悠太が私のために作ってくれたんだから、すっごく嬉しい! これ、絶対美味しいよー! 早く食べよう!」


 ニコニコと嬉しそうに笑っている水無瀬を見ると、やっぱり作ってよかったな、と素直に思えた。俺は俺の作ったものを美味そうに食べる人間の顔が好きだし、とりわけ水無瀬の笑顔が好きだ。

 俺がオペラを切り分けているうちに、水無瀬がガトーショコラにラップをしていた。冷蔵庫の扉に手をかけた水無瀬の腕を、俺は慌てて掴む。


「……ちょっと待て。俺、そっち食う」

「ええ? せっかくだから、一緒に悠太が作った方食べようよ。私が作ったのは、明日学校にでも持って行くから」

「なんでだよ。それ、俺のだろ」


 はっきり言って、水無瀬が俺のために作ってくれたものを、一口だって他の奴には食べさせたくない。新庄あたりは土下座してでも欲しがるかもしれないが、いくら積まれたって譲るつもりはないのだ。

 いつになく必死な俺を見て、水無瀬はにやにやと笑みを浮かべてこちらを見つめてくる。からかうように、俺の顔を覗き込んできた。


「……なーに、悠太? そんなに可愛いひかりちゃんの手作りを他の人に渡したくないの?」


 ……たぶん水無瀬は、俺が「そんなわけねえだろ」とか「自惚れんな」と言うのを待っている。残念ながら、その期待には応えてやれない。俺は水無瀬の目をまっすぐに見つめながら「そうだよ」と頷いた。


「可愛い彼女が俺のために作ったケーキ、他の奴に食わせるわけねえだろ」


 みるみるうちに真っ赤になった水無瀬が、「えっ」と叫んで固まった。追い討ちをかけるべく、彼女の耳元に唇を寄せて「全部俺のだ」と囁く。照れ屋でめんどくさい彼女に突き飛ばされてしまう前に、ガトーショコラを奪ってリビングへと逃げ込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る