後日談【唇までの距離】

幸運の総量

 一人の人間が享受できる幸運の総量が決まっているとしたら、俺の残りの人生はきっと残りカスの様なものだ。

 奇跡的に手に入れた幸せを、うっかり取りこぼしてしまわないように、真面目に慎ましく生きていくしかない。


「やっぱり、悠太が引いた方がいいんじゃない? 日頃の行いがいいもん」

「いや、俺はいい。当たる気がしねえから」


 きっぱりと答えると、水無瀬は俺の腕にしがみついたまま、腑に落ちない表情を浮かべていた。

 たまたまスーパーの前を通りがかった男性が、ちらりと俺に羨望の眼差しを投げかけていく。水無瀬の美しさは、ほとんど部屋着のようなパーカー姿でも少しも損なわれることはない。


 いまさら言葉を尽くして説明するまでもないが、水無瀬ひかりは誰もが認める絶世の美少女だ。ただそこにいるだけで場の空気が華やかになり、近寄り難い雰囲気さえ感じさせる。ほんの僅かに視線を向けるだけで、幾多の男たちが彼女のことを好きになってしまうだろう。

 そして、どこからどう見ても平々凡々な俺――上牧悠太は、何がどうなったか水無瀬ひかりの恋人である。

 そもそも水無瀬は「自分に興味のない男が好き」というねじくれた趣味の持ち主であり、同じくねじくれた女嫌いの俺が、彼女の好みにうってつけだっただけだ。

 俺はもともと、水無瀬ひかりを好きにならない稀有な人間だったはずなのだが――それがまあ、なんだかんだでいろいろあって――俺は水無瀬に恋をして、彼女はそれを受け入れてくれた。

 冴えない俺が水無瀬のような女性と付き合えるなんて、信じられないぐらいの幸運である。俺はきっとこれから先、宝くじとか絶対買わない。今後の人生において、これ以上の幸運が起こるはずもないからだ。


「俺はもう、一生分の運使い果たしてんだよ」

「よくわかんないけど、わかった! じゃあ私が引くね」


 水無瀬は俺の手から福引券を受け取ると、「見てて!」と眩いばかりの笑顔を向けた。


 水無瀬が住むマンションの近くには、大型チェーンのスーパーマーケットがある。俺は生活能力が著しく破綻している水無瀬の世話を焼くため、しょっちゅう水無瀬の部屋に行っているので、ここのスーパーの常連になりつつあるのだ。しっかりとポイントカードも作成した。

 春休みに入ってからは、俺はほとんど毎日のように水無瀬の部屋に入り浸っていた。もちろん、それほど遅くならないうちに帰ることにはしているが。

 今日もいつものように、水無瀬の部屋を掃除した後、二人で買い物にやって来たところ、「千円以上の買い物をすれば福引券が一枚貰える」という催しが行われていた。ついつい乗せられた俺たちは少し多めに食材を買い込み、「あと二百円でもう一回くじ引けるよ!」という水無瀬のアピールに押され、デザートのアイスクリームまで買ってしまった。来週は節約だ。


 スーパーの入り口横に、急拵えの福引コーナーがある。昔ながらのガラガラを回せば、中から小さな玉が出てくる仕組みだ。俺たちの前にくじを引いた家族連れは、七等の菓子詰め合わせが当たっていた。


「水無瀬、狙いは三等のコシヒカリだ。頑張ってくれ」

「私、二等の遊園地ペアチケットがいいなあ! 私、テーマパーク行ったことないんだよね!」

「四等の醤油でもいいぞ。そろそろ切れそうだったからな」

「もし当たったら一緒に行こうね。悠太が耳つけてるところ見たい!」


 彼女と噛み合わない会話をするのにも、もう慣れた。

 水無瀬は腕まくりをすると、赤いハッピを着た店員に福引券を渡した。勢いよくガラガラを回すと、白い玉が出てくる。確認するまでもなく、ハズレだ。


「参加賞でーす」

「ああー、残念……」


 水無瀬はがっくりと肩を落とす。店員から差し出された参加賞は、少々季節外れのカイロだった。もう三月も終わりだが、冬の売れ残りだろうか。


「今度こそ頑張るね!」


 そう言って水無瀬は、再び力いっぱいガラガラを回す。

 一周、二周。コロン、と飛び出してきた玉の色は、見事に光り輝く金色だった。

 これも、確認するまでもない。メダルしかりトロフィーしかり、いつだって金色が一番すごくて強いのだ。


「おおっ、一等出ました! おめでとうございまーす!」


 カランカラン、と大きな鐘の音が鳴り響く。いつのまにか周りに人が集まってきていて、パチパチと温かい拍手に包まれた。

 正直恥ずかしい。こんなところで不必要に目立ちたくないから、仰々しく騒ぎ立てないでくれ。


「やったー! 悠太、私やったよー!」


 水無瀬がその場でぴょんぴょんと飛び跳ねて、勢いよく抱きついてきた。俺は片手でそれを引き剥がしながら、そういえば一等の賞品はなんだっただろうか、と考える。まさか当たると思っていなかったので、ちゃんと確認していなかった。

 いまさらのように、抽選会のポスターに視線を向けて――固まった。


「月乃リゾートの一泊二日温泉ペア宿泊券です!」

「わー! すごいすごい! ありがとうございます!」


 手渡された封筒を、水無瀬は満面の笑みで受け取る。美少女の笑顔を間近に浴びて、心なしか店員の男性もデレデレしていた。

 手に入れた封筒を掲げた水無瀬は「悠太、私やったよ! 褒めて!」と嬉しそうに擦り寄ってきたが、今の俺はそれどころではない。


「やっぱり私って、幸運の神様に愛されてるのかも! うんうん、そんな私に愛されてる悠太はほんとに幸せ者だよね!」

「いや、それはそうだけど……そんなことより」


 俺は水無瀬の手から封筒を奪い取ると、中身を出してまじまじと見つめた。まごうことなく、温泉旅館のペア宿泊券だ。しかも、結構有名ないいところのやつ。これ、普通に行くとかなり高いぞ。


「……おまえ、これどうするつもり? 誰かに売りつける?」

「え? せっかくだから一緒に行こうよ!」

「俺と二人で? 本気で言ってんのか?」

「もちろん!」


 明るく答えた水無瀬を見て、俺は天を仰いだ。こいつは何もわかっちゃいない。付き合っている恋人同士が温泉旅行に行くというのは、それは当然……そういうことだろ。もしかすると、そんなことを考える俺がおかしいのか?


 俺と水無瀬は付き合って(一応)十ヶ月ほどになるが、俺たちの関係は正真正銘のプラトニックだ。未だにキスのひとつもしていない。

 そもそも水無瀬は、異性から触れられることに相当な嫌悪感を抱いている。言わずもがな、中学時代に彼女を押し倒して泣かせたという最低の元カレのせいである。

 彼女は口では「悠太に触られるのは嫌じゃないよ」とは言っているけれど、俺の方からスキンシップを図ろうとすると、目に見えて緊張しているのがわかる。


「悠太と二人で旅行なんて、絶対楽しいよね!」

 

 俺の葛藤などつゆ知らず、水無瀬は「ね」と笑って、俺の手をぎゅっと握りしめてくる。不意打ちで抱きしめただけで真っ赤になってブン投げてくるような女のくせに、どうして平気で男と温泉旅行に行こうと思えるんだ。

 きっと彼女は、俺が今何を想像しているのかちっともわかっていない。わかっていれば、こんなに無邪気に手なんて握ってこないはずだ。


「ねえねえいつ行く? やっぱりゴールデンウィークかな?」

「……すぐに決めなくてもいいだろ。保留だ」


 俺はとりあえず、問題を先送りすることにした。チケットを封筒に戻し、失くさないように大事にポケットに入れる。ああ、とんでもない爆弾を手に入れてしまった。


「さっさと帰るぞ。豚の生姜焼きにするんだろ」

「あっ、そうだった! 楽しみだなー! 悠太、和食得意だもんね!」


 二人並んで歩きながら、水無瀬の手を緩く握り返す。無邪気に擦り寄ってくる女は、俺がいつもどんな欲と戦っているのか、まだ気付いていないのかもしれない。

 ――俺がもし、元カレあいつと同じような欲を抱いていると知ったら、水無瀬は俺に幻滅するだろうか。

 そんなことを考えて、心臓の奥がちくりと痛む。ポケットに入った薄っぺらい封筒が、なんだかやけに重く感じられた。

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