始まったときにはもう終わってた

 俺たちの一風変わった交際は、傍目から見ると至極順調だった。

 相変わらず水無瀬は毎朝俺の家まで迎えに来て、並んで登校する。昼休みになると二日に一回は書道部部室に行って、俺の作った弁当を食べる。最近は透も「おれ、邪魔だよな?」と言って、あまり付き合ってくれなくなった。放課後は一緒に帰って、たまに公園でヒメと戯れる。ごくまれに、俺がスーパーで買い物をするのに水無瀬がついて来るときもある。

 また、毎週土曜日になると水無瀬の部屋に行って、掃除をしてから一緒に晩飯を食うのが恒例になっていた。揃いの茶碗に米をよそう瞬間、俺はいつもちょっとだけ照れる。飯を食った後はコタツに入ってダラダラして、それほど遅くならないうちに帰宅することにしている。

 傍目から見ると、順調すぎるぐらいに順調なカップルの日常だろう。いつのまにか俺と水無瀬が付き合っていることは公然の事実として受け入れられており、やっかんでくる奴もからかってくる奴もほとんどいなくなった。

 それでも俺だけが、この関係の終わりが近いことを悟っていた。俺はもう、水無瀬ひかりへの想いを抑えきれなくなっている。隠し通すのも限界だ。俺の気持ちに水無瀬が気付いてしまった瞬間――俺はあいつに、トドメを刺されてしまうのだろう。




「わあ! すごいすごいー! 悠太、きれいだねー!」


 冬の澄み切った闇の中で、七色のイルミネーションがきらきらと輝く。普段は素通りするだけの木々に眩い光が灯されただけのことなのに、人々は足を止めて感嘆の声をあげていた。

 期末試験も無事終わった十二月二十五日――クリスマスでもある今日は、終業式だった。水無瀬が「駅前のクリスマスイルミネーションが見たい」と言って聞かないので、俺は渋々ついてきた。いや、嘘だ。嫌がるふりをしただけで、実はそんなに渋々じゃなかった。

 俺は隣にいる水無瀬の横顔を盗み見る。焦茶色の瞳はイルミネーションの光を反射して七色に輝いており、白い頰は寒さのせいかほんのり赤くなっている。制服の上から羽織っているグレーのダッフルコートが、上品な彼女によく似合っていた。ふいにこちらを見た水無瀬が、ニコッと笑みを浮かべる。


「どうしたの、悠太?」

「……いや。アホ面だなーと思ってただけ」

「もー! こんな美少女捕まえて、そんなこと言うの悠太だけだよ!」


 そう言ってバシバシと背中を叩いてくるが、喜んでいるのが見え見えだ。俺はこっそり、また心にもないことを言ってしまった、と罪悪感に苛まれる。

 本当は見惚れていたのだ。イルミネーションに夢中になっている、可愛い彼女に。


「……はー、冬休みだねえ。悠太に会えなくなるの、寂しいなー」


 水無瀬はそう呟くと、「毎日ごはんどうしよう……」と悲しげに俯く。俺はときどき、こいつは俺の作ったメシ目当てで付き合ってるんじゃないか? と本気で思う。そっちの方が、「自分を嫌いな人が好き」だなんて理由より、ずっと健全な理由かもしれないが。


「……まあ、たまにはメシ作りに行く」

「ほんとに!? いいのー!? 嬉しい!」

「ほっといたら死にそうだしな、おまえ。年明ける前にちゃんと大掃除しろよ」

「え!? あんなに毎週掃除してるのに、まだ掃除の必要があるの!?」

「バカ、普段行き届かないところまで綺麗にするのが大掃除なんだよ。換気扇とかフィルターとか、ちゃんと掃除してるか?」

「うっ……じゃあ、悠太も手伝ってね?」


 そう甘えるように俺の袖を引いた水無瀬に、俺はふいと視線を逸らして「気が向いたら」と冷たく答える。水無瀬は嬉しそうに「えへへー」と笑って、俺の肩にもたれかかってきた。


「おまえの両親、年末年始帰ってこねえの」

「うん。ほんとは帰国予定だったんだけど、どうしても帰れなくなったみたい……でも、来月一回帰ってくるよ」

「そっか」


 ということは、水無瀬はおそらく一人で年越しをすることになるのだろう。俺は渇いた唇を素早く湿らせてから、「あのさ」と口を開く。


「……年越し、俺んち来る?」

「え……え、ええ!?」

「姉ちゃんも連れてこいってうるさいし、母さんも一回会いたいって言ってたし。あと、今年自分でおせち料理作ろうと思ってるんだよ。姉ちゃんあんまりおせち好きじゃねえし、たぶん余るから」


 間違っても俺自身の感情が漏れ出してしまわないように、慎重に言葉を紡いでいく。水無瀬が口をあんぐり開けたままこちらを見つめていたので、やばい失敗したかもしれない、と内心焦った。心臓がバクバク早鐘を打ち出す。


「い……」

「……い?」

「行きたい! お母さまにもご挨拶したいし、それに悠太のおせちなんて絶対絶対食べたいよー!」


 水無瀬が勢いよく抱きついてきたので、俺は慌てて頭を掴んで引き剥がした。周囲からは人目を憚らずイチャついているバカップルだと思われていることだろう。いや、他のカップルも自分がイチャつくことに必死で、あんまり気にしていないかもしれない。


「あー、楽しみだなー! 絶対だよ悠太、約束ね! あ、初詣も一緒に行こうね!」

「はいはい……」


 肌を刺すような冷たい風が吹き抜ける。俺が「寒い」と呟くと、水無瀬は嬉しそうに身体を寄せて、ぎゅっと手を握りしめてきた。互いに冷え切っていた手を繋げたところでそれほど暖かくはならないが、まあないよりマシか。


「そろそろ帰ろっか!」


 水無瀬の言葉に頷いて、俺たちは手を繋いだまま歩き出す。そういえば学校の外にいるときは、腕を組むよりも手を繋いで歩くことの方が多くなった。


「ちょっと遅くなっちゃったね? 晩ごはんの用意、大丈夫?」


 時刻は十八時を回ったところだった。少し遅くなったが、俺は帰って晩飯の支度をしなければならない。とはいえ今日のメニューは昨日のうちに仕込んでおいたポトフなので、温めるだけで済む。ちなみに姉ちゃんは、当然のように彼氏とのクリスマスデートで不在だ。俺は「平気」と短く答えた。

 駅のそばにある商店街はクリスマスムード一色で、あちこちにツリーやリースが飾り付けられ、洒落たケーキ屋の前には行列ができていた。どこからともなく香ばしいチキンの香りも漂ってくる。俺はこれまでクリスマスの浮かれた空気があまり好きではなかったけれど、今はそんなに悪くないな、と思えるから不思議なものだ。


「あ、すみません」


 商店街は人通りが多く、すれ違いざま背の高い男性とぶつかった。軽く会釈をして歩き出そうとしたところで、男がこちらを見て目を大きく見開く。


「……あれ、ひかり?」


 彼が見ていたのは、俺ではなくて水無瀬の方だった。繋いだままの水無瀬の手に、強く力がこめられる。怪訝に思って彼女を見ると、先ほどまでは赤らんでいた頰は色を失い真っ白になっていた。


「やっぱひかりだ! え、何やってんの? 彼氏とデート?」


 さっと俺の後ろに隠れた水無瀬の顔を、男は無遠慮にじろじろ覗き込んでくる。ひかり、という気安い呼びかけにむかっ腹が立った。俺の袖を掴む水無瀬の手が小刻みに震えていることに気付いて、俺はたまらず「あの」と口を挟んだ。


「誰? 水無瀬に何か用?」

「あ、ごめんごめん。俺、ひかりの中学のクラスメイト。君はひかりの彼氏?」

「……まあ、一応」


 そう答えると、男は歪に唇の端を釣り上げた。やけに意地の悪い笑みに、ぞわりと背中が泡立つような不快感を覚えた。


「そっかー。めんどくさいでしょ、そいつ」

「…………」


 否定するのも肯定するのも癪で、俺は黙っていた。水無瀬がめんどくさいのは本当のことだが、わかったような口を叩かれるのは不愉快極まりない。

 この男はおそらく、文化祭で遭遇した水無瀬の元カレだ。あのときは顔までは見れなかったが、なるほどかなり女子受けしそうな風貌をしている。それでも俺は、新庄とかの方がよっぽど良い男だと思うけどな。


「ひかり、今度はちゃんとキスくらいさせてやれよー? 愛想尽かされるぞ。じゃあ、またな」


 男はそんな軽口を叩くと、ひらりと手を振って去って行った。結局水無瀬は一言も話さないまま、俯いて下唇を噛んでいた。

 とにかく、こんなところで突っ立っていては通行の邪魔だ。俺は「行くぞ」と声をかけて、水無瀬の手を引いた。はっと我に返ったように動き出した水無瀬は、黙って俺についてくる。

 互いに無言のまま俺の自宅近くまでやって来たけれど、このまま別れてしまうのは気が引けた。送っていく、と言って、俺は水無瀬のマンションへと足を向ける。彼女は小さな声で、ありがとう、とだけ答えた。

 いつもヒメと戯れている公園の中を通過する。しんと静まりかえっており、真冬にイチャついているような酔狂なカップルさえもいなかった。いつもヒメが座っているベンチは空っぽで、ぼんやりと薄明るい灯りに照らされていた。ヒメは今ごろ、飼い主のところでぬくぬくしているのだろうか。

 水無瀬は下を向いたまま、唇を真っ青にして震えている。あの男が水無瀬に植えつけたトラウマは、よほど根深かったのだろう。腹の底から怒りがこみ上げてきて、俺は水無瀬の手をぎゅっと握りしめた。


「……悠太。痛いよ……」

「……あ。わ、悪い……」


 慌てて手を離そうとしたけれど、水無瀬は俺の手を握ったまま離さなかった。どこか思い詰めたような表情で、じっとこちらを見つめている。彼女のマンションはもうすぐそこだが、こんな状態の水無瀬を一人にしたくない。


「水無瀬、平気か?」

「……悠太……」


 俺の問いに、水無瀬は瞳を潤ませながら俺を見上げた。そのまま胸の中に飛び込んできた柔らかな感触に、俺の心臓は大きく跳ねる。さらさらの髪が揺れて、甘い香りが鼻腔をくすぐる。凍りつくような夜の空気に包まれながら、彼女と触れ合った部分だけがやたらと熱い。


「……キスして、いいよ」


 消え入りそうな声でそう囁かれて、俺は思わず息を呑んだ。「なに、言ってんだ」と答える声は掠れていて、自分自身の余裕のなさを思い知らされる。

 おそらく水無瀬は、トラウマの元凶である元カレと遭遇して動揺しているのだ。奴に植えつけられた忌まわしい記憶を、俺によって払拭しようとしているのかもしれない。


「悠太なら、嫌じゃないから」


 水無瀬の言葉に、俺の心はぐらぐらと揺れた。黙ってやっちまえばいいじゃねえか、と俺の中の悪魔が囁いてくる。このまま自分の気持ちを隠し通せば、水無瀬はずっと俺のことを好きでいてくれる。自分のことを好きではない、唯一の特別な男として。

 ――でもそれは、水無瀬へのとんでもない裏切りではないのか?

 水無瀬が「嫌じゃない」理由は、俺が水無瀬のことを好きではないと思い込んでいるからだ。しかし、それは大きな勘違いである。水無瀬が嫌悪してやまない男の欲を、俺は彼女に対して抱えているのだから。

 俺は大きく息を吸い込むと、水無瀬の両肩を掴んだ。華奢な肩が小刻みに震えているのは、きっと寒さのせいではない。そのまま乱暴に引き剥がすと、彼女は悲しそうな、それでいてどこか安堵したような表情を浮かべていた。

 ――ごめんな、水無瀬。俺はもう、限界だ。


「……もう終わりにしよう」


 白い息とともに告げると、水無瀬は打ちのめされたように目を見開く。二、三度瞬きをした後、無理やりみたいに笑顔を作った。


「そ、そっか……そうだよね! ごめんね、変なこと言って。いくらなんでも好きでもない女とキスなんてしたくないよね……」

「そうじゃない。俺、もうおまえの望む彼氏演じてやれない」

「……他に好きな人ができた?」


 水無瀬はおそるおそる、怯えたような目つきでそう尋ねてきた。俺はまっすぐに水無瀬の目を見つめたまま、意を決して口を開く。


「おまえだよ」


 水無瀬の笑顔が凍りついた。長い長い沈黙の後、頰を引き攣らせて、「冗談だよね?」と首を傾げる。俺の表情で嘘がないことを悟ったのか、彼女の表情に絶望の色が浮かんだ。


「そんな、困る」

「……ごめん」

「好きにならないで、って、言ったのに……」

「わかってる。だから、もうこれで終わりだ」


 ありがとうもごめんも、この関係を締め括るには相応しくない気がする。だから俺は、さよならの代わりに水無瀬に向かって言った。


「俺、水無瀬のことが好きだ」


 今度は、嘘じゃない。それが彼女に絶望を与える言葉だとわかっていたけれど、伝えずにはいられなかった。

 アーモンド型の目に、じわりと涙が浮かぶ。両手で顔を覆った水無瀬は、苦しげに息を吐きながら、絞り出すように答えた。


「無理だよ……」


 あのとき下ろされなかったナイフが振り下ろされて、見事に俺の首を跳ね飛ばす。幸福な執行猶予期間はもう終わりだ。白い頰にはらはらと涙を流した彼女は、今度こそ上手に俺の息の根を止めたのだ。

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