二度と振り向いてはくれない

 冬休みに入ってからというもの、俺は狂ったように家事に専念していた。家中のどこもかしこも美しく磨き上げ、カーテンまで洗濯をし、断捨離をして、大晦日である今日はやたらと凝った豪勢なおせち料理を作った。

 家事をすることで失恋の痛手を忘れようとしていたはずなのだが、完成したおせちを眺めながら「水無瀬に食わせてやりたかった」と考えて、また少し落ち込んだ。どうしようもなく、俺の日常に彼女の存在が根付いてしまっている。


 ――悠太のおせちなんて絶対食べたいよー!

 ――絶対だよ悠太、約束ね! あ、初詣も一緒に行こうね!


 つい一週間前にしたばかりの約束は、守られることはない。肩を並べてイルミネーションを見た日のことが、なんだかもう遠い過去のことのように思える。

 水無瀬は今ごろ、ひとりぼっちの年末を過ごしているのだろうか。当然のことながら、あの日から水無瀬の連絡はぱたりと途絶えている。未練がましくSNSをチェックしてしまうのだが、特に更新もされていない。

 あいつは部屋の大掃除をしただろうか。ちゃんとメシを食っているだろうか。そんな心配をする資格なんて、今の俺にありはしないのに。


「悠太。あんた、例の可愛い彼女は連れてこないの?」


 おせちを前に打ちひしがれている俺に向かって、母さんが無邪気に尋ねてきた。毎日仕事で忙しくしている母さんも、さすがに大晦日と正月の三日間は休みなのだ。四日間しか休みがないなんて社会人は大変だな、とつい哀れんでしまう。


「……別れた」


 俺が答えると、母さんは(しまった)と言うような表情を浮かべる。しどろもどろになりながら、「あらあら、それは、ご愁傷様……」と口籠った。


「えーっ、とうとうひかりちゃんにフラれたの!? やっぱりねえ、最近やけに暗いオーラ出てると思った」


 リビングのソファに寝そべった姉ちゃんが、首だけ回してこちらを向いた。俺が陰気なのはいつものことだが、傍目から見てもわかるくらいに暗かったのか。俺は口を噤んだまま、お雑煮が入った鍋をぐるぐると掻き回す。


「ま、悠太があんだけの美少女と付き合えたことが奇跡よねー」

「そんなに可愛い子だったのね……母さんも会いたかったな」

「もっと優しくしてあげればよかったのに。悠太、彼女に対しても塩対応なんだから」


 遠慮のない姉ちゃんの言葉を聞きながら、それは違う、と心の中で反論した。

 俺は、水無瀬に冷たくできなくなったから――優しくしたくなったから、別れたのだ。あいつはそんなこと、望んでいなかったのに。

 そんな理由を説明したところで、姉ちゃんに理解できるはずもない。俺は小さく肩を竦めると、「そうかもな」とだけ答えた。

 あと数時間で今年が終わる。もう一週間もすれば新学期だ。水無瀬と別れたことでしばらくは騒がれるかもしれないが、俺の望んでいた平穏無事な毎日が戻ってくる。それで充分じゃないか。そう自分に言い聞かせながら、鍋に入った雑煮をすくって味見する。だしの風味が絶妙で渾身の出来だった。




 年が明けて、初詣にも行かずダラダラとテレビを見ているうちに新学期が始まった。

 母さんと自分の弁当を作った俺は、赤いネクタイを締めずにリュックに入れたまま登校した。校門ですれ違った生活指導の先生に、「上牧、ネクタイは」と尋ねられたが、「忘れました」と答えるとそれ以上何も言われなかった。

 最初から、無理して赤いネクタイを締める必要なんてなかったのだ。それでも俺は、彼女のネクタイを手放さなかった。

 教室に入ると、既に水無瀬は着席していた。俺が現れた瞬間、クラスメイトの視線が一斉に突き刺さる。新学期になって水無瀬が一人で登校してきたことで、みんな何かを察しているのだろう。

 俺は躊躇いながらも、水無瀬の元へと向かった。「おい」と声をかけると、彼女はくるりとこちらを振り返る。ほんの一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐに笑顔を取り繕った。


「おはよう、上牧くん」


 他のクラスメイトに見せるのと同じような顔に、どうしようもない壁を感じて打ちのめされる。俺に向かってこんな風に笑う水無瀬を、久しぶりに見た。水無瀬にとって俺は、「自分に好意を抱いている」有象無象のうちの一人になってしまったのだ。

 水無瀬は二学期までと変わらず、俺の青いネクタイを締めている。微笑んではいるもののなんだかやけに顔色が悪く、目の下には隈ができていた。冬休みのあいだ、ロクな生活を送っていなかったのかもしれない。喉元まで出かかった、ちゃんとメシ食ってんのか、という言葉をすんでのところで飲み込んだ。

 俺は黒のリュックから赤いネクタイを取り出すと、水無瀬に向かって差し出した。彼女は能面のような顔で「ああ」と頷いて、するりと首に巻いていたネクタイを解く。


「ごめんなさい。返すの、忘れてたね」

「……いや」


 まるで何かの儀式のようにネクタイを交換した俺たちは、それ以上言葉を交わすことなく離れた。ちくちくと胸を刺す痛みに、俺は必死で耐えている。

 自席に着いた俺は、青いネクタイを手早く巻きつける。水無瀬はネクタイを締めるのに手間取っているのか、一人でモタモタしていた。……筋金入りの不器用なのだ、あいつは。


「え、悠太!? もしかして、水無瀬さんと別れた?」


 後ろの席の隼人が、ひそひそと俺に囁いてきた。俺がむすりと「ああ」と答えると、隼人は心底驚いたように目を見開く。


「へえ……まじかあ……ここまできたら、なんだかんだ別れないと思ってたわ。なんで別れたん?」

「……互いの方向性の違いだよ」

「なに、そのロックバンドの解散理由みたいなやつ」


 適当にでっち上げた理由だが、あながち間違いではない。俺たちは最初から、別の方向を向いていたのだから。あいつはそっぽを向いている俺のことが好きで、俺が水無瀬の方を見た瞬間に、終わる関係だっだ。

 焦茶色のロングヘアが流れる水無瀬の背中を見つめながら、もう二度と彼女が俺を見ることはないのだろうな、と思った。難攻不落の高嶺の花は、背筋を伸ばしてまっすぐ前を向いたままこちらを振り向くことはなかった。




 三学期が始まって一週間も経つ頃には、水無瀬ひかりが彼氏と別れたらしい、という噂は学校中に広まっていた。

 悪友どもは嬉しそうに「悠太ドンマーイ」とはしゃいでいたが、周囲は「水無瀬ひかりの元カレ」である俺のことを腫れ物のように扱っていた。

 水無瀬も俺も詳細を語らなかったため、いつのまにか一方的に俺が悪者にされていた。どうやら俺が三股した挙句に水無瀬をこっぴどく振った、みたいなことになっているらしい。

 そんな噂が流れた理由はひとつ。俺と別れた水無瀬ひかりが、目に見えて憔悴していたからである。

 気にしないようにしているのだが、水無瀬の顔色は日ごとに悪くなる。体育の授業の後、真っ青になってふらついているところも見かけた。友人たちから心配されても、いつもの笑顔で「大丈夫だよ」と答えているようだ。


「悠太と別れてからの水無瀬さん、すげー体調悪そうだな」


 教室で弁当を食っていると、透が水無瀬を横目にそんなことを言い出した。水無瀬の昼飯はかつての栄養補助食品に逆戻りだ。水無瀬を心配した新庄から購買のパンを差し出されていたが、「食欲ないから」とやんわり断っていた。


「……俺にどうしようもねえだろ」


 俺はそう答えて、手作りのクラブハウスサンドを口に運ぶ。具材がたっぷり入っておりマスタードの風味が美味いが、正直ちょっと手抜きした感は否めない。水無瀬に弁当を作らなくなってから、作り甲斐が三割ほど減少してしまった気がする。

 水無瀬にさりげなく追い返された新庄は、がっかりと肩を落としながらこちらにやって来た。両腕いっぱいにパンを抱えているが、全部一人で食べるつもりなのだろうか。


「……受け取ってもらえなかった。水無瀬さんは食が細いな」


 新庄はそう言って溜息をついた。俺の前でぱくぱくとカレーをおかわりする水無瀬を思い出しながら、あの女の食が細いわけねえだろ、と心の中で突っ込む。あいつは俺の作った飯なら、本当に美味そうに平らげてくれるのだ。

 空いていた俺の隣の席に腰を下ろした新庄は、やけに真剣なまなざしで問いかけてきた。


「上牧くん……どうして水無瀬さんと別れたんだ?」

「お。新庄、ぶっこむなー。なんか、悠太が浮気したみたいな噂流れてるけどね」

「僕はそんな噂、信じていない。上牧くん、君が不貞を働いたわけではないんだろう」


 茶化すような透の言葉に、新庄はきっぱりと言った。別に他人の噂話を気にしているわけではないのだが、新庄が噂を信じていないことは素直に嬉しかった。やはり、こいつは良い奴だ。水無瀬の初めての彼氏がこういう男だったら、あいつも余計なトラウマを背負い込まずに済んだだろうに。

 ……ただ、もしあいつのトラウマがなければ、あいつが俺と付き合うこともなかっただろうけど。

 俺たちが別れた理由を正直に伝えたところで、大多数の人間にはきっと理解してもらえない。だから俺は透にさえも、本当のことを話していなかった。小さく肩を竦めて「さあ」と適当に誤魔化す。


「……しかし。このままだと、水無瀬さんは本当に体を壊してしまうぞ」

「俺にどうしろってんだよ」

「上牧くんの作った食事なら、彼女も喜んで食べるんじゃないのか?」

「別れた男の作ったメシ食いたいか?」

「…………」


 返す言葉が見つからなかったのか、新庄は黙り込んでしまった。ガシガシと頭を掻いてから(こいつらしくもない、やや粗暴な仕草だ)、小さな声でぽつりと呟く。


「……僕は、上牧くんの隣で笑っている水無瀬さんが結構好きだったんだがな」


 悠太、と俺に向かって笑いかける水無瀬の姿を思い出す。そんなの、俺だってそうだ。俺の隣にいる水無瀬が、アホみたいな顔で笑っている水無瀬ひかりのことが、一番好きだった。

 俺は卵焼きを咀嚼しながら、女子の輪の中にいる水無瀬に視線を向ける。モソモソと美味しくなさそうに大豆バーを齧っている水無瀬を見つめながら、どうしたらもう一度あの笑顔が見られるのだろうか、と考えていた。

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