もう少しだけこのまま

 すっかり日も落ちるのが早くなり、スーパーで買い物をして水無瀬のマンションに着いた頃には、もう辺りは薄暗かった。さんさんと輝いていた太陽が隠れてしまうと、ぐっと気温が下がって寒くなる。

 部屋の扉を開く前に、水無瀬はふふんと得意げに鼻を鳴らした。


「大丈夫! 今日はちゃんと片付いてるから!」

「はいはい。寒いから早く中入れろ」

「もー! 信じてないでしょ!」


 膨れっ面で扉を開けた水無瀬に「どうぞ」と促され、俺は玄関に足を踏み入れた。相変わらず足が何本あるんだというくらいに靴が散乱していたし、キッチンの流しには洗い物が溜まっていたけれど、許容できないほどではない。

 短い廊下を通って奥の部屋に入る。以前の地獄絵図を思えばずいぶんマシだったが、俺の基準からするとそこそこ散らかっていた。洗濯物は取り込んだ状態のままソファに放置されているし、テーブルの上に置かれた化粧ポーチの蓋は開きっぱなしで、今朝化粧をした状態のままになっている。まあ、ゴミはちゃんと捨てているようだからギリギリ合格点にしといてやろう。


「ね? ちゃんと維持してるでしょ?」

「……オマケして六十点ってとこだな」

「えー! 辛口だなあ……」

「で、これはなんだ」


 不満げに唇を尖らせている水無瀬に、俺は部屋のど真ん中を占領しているコタツを指さす。以前来たときには置かれていなかったものだ。


「寒くなったから今朝だしたの! いいでしょ? 冬の醍醐味だよねー」

「俺んち、コタツないからよくわからねえ」

「そうなの!? 冬にコタツでアイス食べるのがいいのにー! 人生半分損してるね、悠太」

「そんなことで人生の半分も損なわれてたまるか」


 そもそも、コタツを置くとコタツ周りが汚れそうで嫌である。うちの姉ちゃんなら、絶対コタツから手の届く場所にありとあらゆるものを置きかねない。水無瀬もおそらく例外ではないだろう。汚くなる前にまた掃除に来てやった方がいいかもしれない。いや、あまり甘やかすのもよくないか。


「とりあえず、ごはん作ろうよ! みぞれ鍋? にするんでしょ!」


 水無瀬に促されて、俺はキッチンへと向かった。今日のメニューは大根おろしがたっぷり入ったみぞれ鍋だ。簡単で野菜がたくさん取れる鍋は偉大だ。水無瀬のような人間こそマスターすべき料理である。

 当然のことながら、一人暮らしの水無瀬の家にカセットコンロの類はなかった。仕方ないので、キッチンで作ってからリビングに持っていくことにする。幸いにも土鍋はあったので、使わせてもらうことにしよう。

 今日ばかりは、料理というほど大袈裟な行程はない。野菜を切って、具材を鍋に入れて煮込むだけだ。面倒なのは大根おろしを作る作業だが、水無瀬が手伝いをしたがったので任せてみた。なかなか力の要る作業だが、彼女はなんなく大量の大根おろしを生産していた。さすがの馬鹿力だ。

 土鍋に白だしと水を入れて、少しだけゴマ油を垂らす。水無瀬は「これだけ?」と怪訝そうな顔をしていたが、これだけの調味料でも豚肉と野菜の旨味が出て充分美味い。

 暖房器具のないマンションの廊下は冷え切っていて、俺たちは震えながら鍋の完成を待った。冬場にここで料理をするのはなかなか大変だな、と俺は考える。


「寒ぃだろ。先にコタツ入ってろよ」

「やだ! 私もここにいる」


 頑なな水無瀬は俺のそばから離れない。寒い寒いと言いながら俺に抱きついてくるので、「火の近くで暴れるな」と一喝しつつも、俺は彼女を引き剥がさなかった。なんだかんだで、俺もぬくもりが恋しかったのだ。

 しっかりと具材に火が通ったところで、大根おろしを加えて火を止める。土鍋ごとコタツ机の真ん中に置くと、水無瀬は「すごいすごい!」とはしゃいだ声をあげた。


「美味しそう! ほら悠太、一緒にコタツ入って食べようよ!」


 すっかり身体が冷えていた俺は、水無瀬に促されるがままにコタツの中に入る。少し前にスイッチを入れておいてくれたらしく、ほかほかと暖かかった。正面に座った水無瀬の足がコタツの中でぶつかって、ひそかにドキリとする。

 二人で「いただきます」と手を合わせると、ポン酢をつけて鍋をいただく。対面に座っている水無瀬が幸せそうに笑うのを見て、俺は満足した。


「はーっ、お鍋っていいなあ……今まで全然やってなかったけど、美味しくてあったまるー」

「冬に鍋食わねえとか、人生の半分損してるぞ」


 先ほどの意趣返しのつもりでそう言ってやると、水無瀬は人差し指を立ててにんまり笑った。


「じゃあ、冬にコタツで鍋食べると、人生を百パーセント楽しめるってことだね!」


 まあ、そういうことにしといてやるか。白菜と豚肉をたっぷりの大根おろしと一緒に頬張ると、身体の内側から温まってくるのを感じた。やはり鍋は偉大な料理である。


「鍋って、簡単なのに美味しいねー」

「おまえも作り方覚えろよ」

「うん、そうする! カセットコンロ買おうかなあ……」

「これなら一人でもできるだろ。スーパーに一人分の鍋セット売ってるし、鍋の素もいっぱいあるから」

「うん! 今年の冬はこれで乗り切るね!」


 シメの雑炊まできれいに平らげた後、スーパーで買ったイチゴのショートケーキを二人で分け合って食べた。誕生日ケーキにしては質素だったが、意外と美味かった。お誕生日おめでとう、ともう一度水無瀬は笑ってくれた。

 そのあと「じゃんけんで負けた方が後片付けをする」ということになり、三回勝負で三連敗した水無瀬は、渋々コタツを出て後片付けをした。洗った茶碗をふきんで拭いて、水無瀬は大事そうにそれを食器棚に片付けている。揃いの茶碗が水無瀬の部屋に並んでいるのは、なんとなくくすぐったいような気がした。


「うー、寒い寒い! 手が冷たい!」


 キッチンから戻ってきた水無瀬は、俺の首の後ろにぴたりと手を押しつけてきた。氷のような冷たさに、俺の口からは「ギャッ」という奇声が飛び出す。


「な、何すんだ! 冷てえな!」

「だってお湯で洗うと手が荒れるんだもん! あー、寒かった」


 水無瀬はそう言って、いそいそと俺の隣に潜り込んできたので、俺はぎょっとした。正方形の小さなコタツの一片は、どう考えても二人で入るには狭すぎる。ぴたりと密着した水無瀬の身体はひんやりと冷たかった。


「お、おい。あっち側行けよ」

「くっついてた方があったかいでしょ? はー、おなかいっぱーい」


 隣で無防備にごろんと転がった水無瀬に、俺はぎょっとした。仰向けに寝そべった水無瀬の、猫のような瞳がこちらを見上げている。

 それにしても男と二人きりの状況でこんなことをするなんて、あまりにも危機感がなさすぎる。こいつは本当に俺が自分に好意を抱いている可能性を少しも考えていないのだ。安心したような、ちょっと虚しいような。


「ねえねえ、悠太も一緒にゴロゴロしよう」


 甘えるように袖を引かれて、仕方なく俺も彼女の隣に横になった。「えへへ」と笑って擦り寄ってくる彼女は、信じられないほど柔らかくて甘い匂いがする。正直言って、拷問に近い。

 俺はちょっとだけ――本当にちょっとだけだが、こいつの元カレに同情した。こんなに可愛い恋人に好意を向けられているのに、手を出せないのはそりゃあ辛かっただろう。それでも、彼女の気持ちを無視していい理由にはならないが。


 ――人の気持ちなんて考えずに、自分勝手に好意をぶつけてくる男の子なんて嫌い。


 心の準備もできないままに押し倒されてしまった水無瀬の恐怖を思うと、俺は名前も知らない男のことをブン殴ってやりたいような気持ちになる。それでも一歩間違えば、俺だって同じ穴の狢だ。

 こういうのは無理強いしちゃダメだからね、というありがたい姉のお言葉を思い出す。わかってるよ姉ちゃん。俺は絶対に、水無瀬のことを傷つけたくない。

 俺は頬杖をつくと、水無瀬の方に身体を向けた。至近距離にある水無瀬の目が、次第に眠たげにとろんとしてくる。


「眠い?」

「うん……なんでかな、悠太といると眠くなる……」

「なんでだよ」

「うーん……コタツと悠太の魔力……」


 ムニャムニャとそう言った水無瀬の瞼が落ちて、俺の胸に頰を寄せたまま眠ってしまった。俺の服にヨダレつけるなよ、と思いつつ、水無瀬の頰に手を伸ばしかけて――やめた。

 こんなに近くにいるのに、こんなに無防備に甘えてくるのに、俺は彼女を抱き寄せることすらできないのだ。そんなことをしたら、このぬるま湯のように心地良い関係は一瞬で終わってしまう。


「……ごめんな」


 きっと俺はもう、おまえが望むような彼氏にはなれない。興味のないフリをするのも、そろそろ限界だ。

 じりじりと近づいてくる終わりの足音を聞きながら、俺は子どものような寝顔をじっと見つめている。しっかり蓋をして押し込めたこの感情に、もう少しだけ彼女が気付かずにいてくれますようにと願わずにいられなかった。

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