第四章

不穏

悠史ゆうじ。何なんだこのテストは?」


眉間に皺を寄せ、低い声でどぎつく威圧する父親。右手に持った用紙ごとリビングのテーブルに強く叩きつける。用紙には赤ペンで乱雑につけられた斜線がいくつも並び、その右上にはしおれた10の数字が書かれていた。


「お前、少しは親のために頑張ろうとい う気になれないのか?」


悠史ゆうじはぎろりと父親を睨む。今すぐにでも頭をかち割って、そのうるさい口を閉ざしてやりたいと拳に力を込める。けれど父親は頑強な体をしており、聞いた話では柔道六段、空手七段の猛者つわものらしい。何度か逆らった事があり、その度に骨折などの怪我を負わされた事もある。容赦ない父親には、触らぬ神に祟りなしと、拳を収めた。


「部活も最近行ってないみたいじゃないか。本当にお前はダメなやつだ」


父親のせいで、悠史は空手を小学の頃から習わされており、中学に入ってからは柔道部に入らされている。最初は父親を倒してやりたい、殺してやりたいと思ってひたむきに努力していた。けれど勉強も習い事もとなると、両刀りょうとうあつかう事が出来ず、更には父親の圧力によって破滅的になる。やがてはどちらにも熱を上げる事も、腰を入れる事もなくなっていた。

日に日に溜まるストレスを発散すべく、万引きに隠れタバコ、未成年での飲酒に喧嘩、自転車のパンクいたずら、授業や部活のサボりなんてしょっちゅう、そんな風に明け暮れる青春を過ごしていた頃だ。

悠史は中学二年生になる。全校生徒を六分して生徒が割り振られるのだが、その時同じクラスにとある生徒が割り当てられた。しくもその生徒は女子にしか見えない顔立ちと小さな身体で、自身と同様の学ラン制服を着用していた。


「初めまして、穂積美希です。趣味は……」


クラス全員の前での自己紹介発表会だったが、悠史の耳には美希の自己紹介以降全員のがどうでも良くなっていた。悠史は面白いサンドバッグを見つけたと内心に滾る苛烈かれつな思いをせて、時を待った。


「よろしくな穂積、俺高橋悠史ってんだ」

「よろしくね、高橋く「キモっ」………」


悠史の発言を聞いた美希は、誤魔化す様に物悲しげに笑う。その態度に、歯ぎしりをする悠史の禍々まがまがしい情熱は過激と化していく。


無理にでも笑おうとする。どれだけ痛めつけても苦しめても、それでも不登校にはならない。とても気分が良かった。虐めても虐めても辛みを吹き飛ばそうとする健気けなげな姿が、とても愉快だった。最高のストレス発散だ。最高のサンドバッグだ。

悠史は美希を虐める事に執心していた。だがそんな時に島木涼子という女子が、調子に乗り過ぎた悠史の勢いをくじく発言をする。


「証拠はないですが、穂積さんの証言が嘘だという証拠もありませんよね?」


悠史はその後、びくびくと体を震わせながら放課後まで過ごす。放課後になると先生が悠史の肩を引っ張って職員室へと連れ出した。五時、六時と過ぎても先生の説教は続く。悠史自身、上の空であった事が先生の気を荒立てていた事にも気づいていなかった。結局最後の最後まで意識の働かないままで帰される事となる。

家に帰ると誰もいなかった。父親は仕事の都合で明日帰宅する事となっている。最大の恐怖である父親がいないのは幸いだ。




「悠史、あなた虐めをしていたの?」


仕事から帰ってきた母親。電話をしていた様だ。泣きながら眉を吊り上げて受話器を戻し、悠史に問いかける。恐らく電話は学校からだろう。


「あいつが悪いんだよ。女みてぇで気持ち悪ぃか」ベシンッ!


鋭い痛みが悠史の頬に走る。


「あんたみたいな子っ! どうしてっ! どうしてっ!」


語句に挟んで、ベシンッ! ベシンッ! ベシンッ! と果敢に母親の平手打ちが、悠史の口の中が切れるまで続いた。

母親の説教が終わると、時間はいつの間にか九時を回っていた。だがこれで済んだのかと安心出来るはずもない。明日になれば父親が帰ってくる。つまり明日、悠史は無事では済まない。思い出すのは父親の鬼の様な形相。刻まれた痛みを体が記憶しており、震える。悠史は眠れぬ夜を過ごした。



翌日、悠史のストレスは最高潮さいこうちょうを迎えていた。その矛先はもちろん、美希へと向かう。しかしあろう事か美希は、女子の制服を着用していたのだ。それには益々もってはらわたが煮えくり返る。


「おいこらハルキ! てめぇ昨日の件覚えてんだろーな! あの後親にまで電話されて大変だったんだ!」


それから。

その日は気が気でなかった。どうにもむしゃくしゃして、早く美希を甚振いたぶりたいがばかりに時計をいちいち睨みつけていた。

放課後に愈々いよいよかと美希の所へ向かおうとすると、先生が手伝いのためにと悠史を呼び出した。タイミング悪いと悠史は心で先生に悪態をつき、美希へ逃げるなよと視線を送った。いつもならこれで美希は約束を守る。けれど今日は違った。

先生の手伝いを終えた後に屋上で一人待っていた。いつまで経っても美希の姿が現れない。


「あいつ、約束破りやがったのか」


時間は刻々こくこくと過ぎ、それに比例して美希の約束破り度合いと、家へ帰る事の拒み度合いが増していった。夕陽は沈み、辺りには暗がりが広がる。途端屋上の扉が開いた。美希がやって来たのかと思った悠史だが、現れた管理人のおじさんに肩を落とす。悠史は指示に従って仕方なく下校する事となった。


帰り道はいつもと違って、胸突むなつ八丁はっちょう。悠史が一番恐れているのは父親だ。帰れば骨折、だけでは済まないかもしれない。本当に殺されるかもしれない。先生は知らないから、平気で親へと電話をしたのだろう。恨もうにも恨めない。


「帰りたくねぇー」


辺りは暗くなって、普通で帰るだけでも怒られる程だ。きっと今頃は父親も母親もかんかんに違いないと、悠史は更に気に病んだ。


「ひっく………ひっく」


前から声がした。誰かが泣きながらこちらに向かってきている。幼い声だ。よくは見えないがスカートを履いているのが見えたので、女の子だと見当をつける。


「ひっく…………」

「!?」


それは悠史にとって願ってもない美希の姿だった。


「おい」


どうせ家に帰ればもう元の生活には戻れないだろう。悠史は自暴自棄な考えをしているにも関わらず、変に落ち着いていた。悠史はこんな状況になってやっと束縛から解放された、そんな気になっていたのだ。家に帰る事、それはあの自己中心的で乱暴で横暴な父親と暮らす事だ。きっと自分は家に帰る事を止めたのだと気づく。


「何、する気なの?」


悠史はしたい放題出来る今この時この瞬間を噛み締めていた。女みたいに可愛いサンドバッグ。悠史はめちゃくちゃに犯してやりたいと美希の唇を奪い、体を乱暴にする。だが美希も生きている人間だ。さすがに抵抗をしてきた。


「ほへぇええええっ!! ふへっ!!ふへっ!!」


何でもしていいんだ。今それが自身に許されているんだ。それなのに抵抗をする美希。いつもの様に身を屈めてじっと耐えていればいいものをと、悠史は地団駄じだんだを踏む。


(サンドバッグがっ!!)


逃げる美希を路地で追い詰める。怯え切った表情で八方塞がりな獲物が慄く姿は、悠史の心を満たしていた。だがそんな時


「なっ!?」



悠史の目の前には大きな黒穴が出来たかと思うと、それは美希を落としてすぐ消える。一瞬の出来事だった。辺りには先程美希から剥ぎ取ったウィッグだけ。美希の姿はどこにも見当たらない。


「どういうことだ?」


血眼ちまなこを凝らして、塀を触って確かめる。塀をよじ登って向こう側に降りていないか、足跡などにも気を使って探す。けれど美希どころか人の気配すらなく。


「……?」


悠史は美希がいなくなったのをようやく実感すると、深呼吸をする。もしかすると、家に帰る事の、父親へのストレスが自身に幻覚を見せていたのではないかと、顎に手を据えて思考を巡らす。ふと路地の方を見た。


「は? ……何だ?」


行き止まりだったそこには道が出来ていた。


「さっきまで何も……何かのマジックか?」


悠史は確かめるべく路地の先へと進む。コンクリートがある点を境に不自然に途切れて土になっている。そしてその境を越えると、景色が一変した。


「!? ここは!?」


悠史は茂みの中にいた。そこは月明かりの下で、打って変わって澄んだ空気だ。


「そうか……ハルキの奴、ここに隠れたな? ……な、何っ!? そんなっ! 来た場所が……」


悠史は後ろを振り返ると、茂み。辺り一面茂みへと切り替わっていたのだ。ザワザワと怪しく木々が風に揺らいで、悠史の気をんでいた。腕を右往左往うおうさおうしても何も起こらない。元来た場所へ足を踏み出せど、景色は変わらない。


「くそっ! どうなってやがんだ!」

「おや? わたくしの屋敷の庭に何か紛れ込んだと思いきや……人間ですか」

「うわぁっ!!?」


素っ頓狂な声を上げて驚く悠史の目には、人影があった。それを見て悠史は安心した。お陰でこの場所が一体どこなのか聞き出す事が出来る。恐らくは幻覚を見ていたに違いないと、悠史は自身の乱れた心を落ち着ける。だがやって来る人影が月明かりに照らされた途端、再び悠史の心は乱れる。


「見慣れない格好ですね……どこか知性に溢れる衣装だ」

「お、お前……おいおい冗談よせよ……たちの悪いいたずらか?」


悠史は何かのドッキリかもしれないと辺りをキョロキョロするがやはり茂みだけ。上にも下にも自然が広がるだけだ。


「いたずら? はて……何の事やら」


背丈や年齢は悠史と同じくらいだが、ちらりと見える鋭い歯。紫色の瞳。緑色の毛質。何よりも肌が真っ青だ。血の気のない人間でもこの様な色にはならないだろう。特殊メイクか何かだろうかと悠史は何とか気を取り直す。


「なあここどこだ? 教えてくれよ。俺気づいたらいつの間にかここにいたんだ」

「気づいたら? 果たしてそれは本当なのでしょうか? わたくしの屋敷にしのび込んだ盗っ人やも」

「違うって! 頼む信じてくれ! 俺は家に……」


悠史は言いかけて止める。家に帰れば父親が黙ってはいない。万が一に心配をしてくれるなど有り得ないだろう。


「おや? どうもおかしな様子ですね……演技をしている様にも見えない」


真っ青の少年は悠史に顔を近づけて、下から上へ舐める様に見渡す。悠史と目が合い、悠史はゴクりと唾を呑み込むと、真っ青の少年は目を離さずににやりと笑む。


「良い目です。何だか知りたくなりました。あなたの中身を」


不意に真っ青の少年は悠史の額に手を当てた。


記憶の瞬きメモリア

「うあっ……あ……ああ……あ…」


悠史は何も考えられなくなった。頭の中には生まれた頃から今まで、思い出せなかったものまでもの隅々の記憶達が、上流から下流へと一気に流れる様に蘇る。


「ふむふむ……なるほどなるほど……面白い………これは何とかいな」

「……はっ! なな、何した! 今、なな何を!」


もしもこれが夢ならば何と臨場感りんじょうかん溢れる夢なのだろうと悠史は思う。頭の中から記憶を吸い取られた様な感覚が残るが、問題なく色々と思い出す事が出来る。故に何をされたのか、何が起こったのか全く理解が出来ずに混乱する悠史。やはり何かの演出なのだろうか。


「あなたの……ユウジ君の記憶を読み取らせていただきました」

「は? 読みっ……何で俺の名前を」

「好きな果物はバナナ、好きなテレビ番組は喋りまセブン、父親に骨を折られた回数が……四回、好きな女の子は片桐玲香かたぎりれいか


突然と自身の内部事情を真っ青の少年の口から語られてぎょっとする。誰にも言った事のない好きな女の子までことごとくに当てられた悠史は背筋が固まって動けない。


「な、何なんだよ……お前」

私的わたくしてきにはテレビ番組というものが気になりますが……どうです? 取り引きをしませんか?」

「取り引き……だと?」


真っ青の少年は悠史から顔を離すと怪しく笑って悠史の瞳を真っ直ぐに見据える。


「恐らくこの世界は、あなたのいた世界とは違います。もちろん法律なんてものは国毎には存在するかもしれませんが、今のあなたには関係ありません」


悠史は眉を寄せて訝しな面持ちになる。


「穂積美希。あれを殺してください」

「なっ!」


法律の有無やらどうこうなどと話すものだからと悠史は疑問に思っていたが、殺人を犯せと言い出すとは思いもしなかった。けれどその前に言っていたこの世界という言葉。もし事実であれば、これはドッキリでも何でもない紛れもなく現実で、真っ青の少年は異世界人……ゲームで言えば魔物なのだろうと悠史は予想する。


「殺して……俺に何の得があんだよ」


真っ青の少年は黒い手袋を嵌めた右手を悠史の前に差し出す。どうやら右利きであるという事もバレているらしい。


「あなたに一生分の住処と食事を与えましょう………帰りたくないのでしょう? 家に」


先の不審な行いのせいでどこまでもお見通しらしい。悠史は今更じたばたしても、この得体の知れない者にどうにかされてしまうだろうと、踏ん切りをつける。


「分かった」


悠史はその手を右手で取る。自身と同じくらいの手の大きさだった。


わたくしはカラナ。カラナ=リオーネと申します」

「俺はユウジ。あっ……えっと……ユウジ=タカハシだ」


ユウジはカラナという少年の自己紹介に習って、家名と名前を入れ替えて伝えた。



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